第七話 差し出されたハンカチ
【第七話 差し出されたハンカチ】
三十分の休憩の後、二人は再度ナトゥラディウムを目指し進み始めた。初めこそぎこちなかったラクリシアも、徐々に馬の歩みに慣れ始めていた。背筋を伸ばし揺れに身を任せ、重心を安定させることができるようになった。
「ララ……いつか、ちゃんと乗馬を教わるといい。きっとすぐに上手くなる」
「……お兄様が、教えてくださらないのですか?」
カリスラウドは返事をしなかった。馬を操り、少しだけ歩みを速めた。
ラクリシアの慣れもあって、休憩前よりもペースが上がった。休憩を終え再出発してから二時間後、二度目の短い休憩を挟み、更に一時間進むと、大きな川が見えてきた。
日も昇りきらない早朝に城を出て約七時間、太陽はほぼ真上に位置していた。
「わぁ……キラキラして、綺麗……!お兄様、あれは何ですか?」
「エレーモ川、あれが……サナデアとナトゥラディウムの国境だ」
カリスラウドは、サナデア王国の紋章とナトゥラディウム共和国のシンボルが刻まれた橋の向こう側を、じっと見つめていた。
橋から少し離れた場所に、いくつか小屋が立っている。そのうちの一つの窓辺で、濃い青の旗が風に揺られていた。カリスラウドの表情が、少しだけ和らいだ。
「ララ、橋を渡るよ。あそこが目的地だ」
川に見惚れるラクリシアに腰に掴まるよう促して、カリスラウドは旗を目指した。
石の橋を渡り、ナトゥラディウムへ足を踏み入れると、旗の掲げられた小屋から、ヴァレオが飛び出してきた。
「カル!!!」
カリスラウドは馬から下りて、ヴァレオの元へ歩み寄った。
「ヴァレオ……来てくれて、ありがとう。いくら礼を言っても足りないくらいだ」
「いいよ、そんなの。……予定より遅かったから心配してたんだ。無事でよかった」
ヴァレオの青ざめた顔が、カリスラウドの少しずつ血色を取り戻していく。掲げられた旗と同じ、濃い青の目は涙で潤んでいた。
「ララ、手を貸して」
カリスラウドの補助で馬から下りたラクリシアは、マントのフードを脱がないまま、ヴァレオと向かい合った。その目には、かすかに怯えの色がにじんでいた。
ラクリシアは、血縁者以外の男性と顔を合わせることを禁じられて育った。万が一、恋に溺れ処女を捨ててしまったり、見初められて襲われるようなことがあってはいけない、という王の命だ。他国の人間も、身内以外の男性も、あの誘拐事件まで目にしたことすら無かった。
「私が留学していた頃に知り合った友人、ヴァレオだ」
「ラクリシア王女。お初にお目にかかります、ヴァレオ・オル・リベラフォンスと申します」
「……よろしく、お願いします……あの、普通に話していただいて、結構です、ので……」
「……そう?良かった、堅苦しいのは慣れてないんだ。」
ニッコリと笑ったヴァレオは、あっさりと口調を変えた。
カリスラウドはラクリシアの肩を抱く。
「……王都の状況次第だが、安全が確認できるまではラクリシアという名前は使わない方がいい。暫くはララと名乗るんだ。いいね?」
「……はい」
「もし、王都の安全が確認できた時に……ララがサナデアへ帰りたいと思えば、その時は我慢せずに言っていい。ララをナトゥラディウムに縛り付けるつもりはない。
もし他の国がよければ、そう相談してみてもいいし……これから、ララは自分で考えて選んで生きるんだ」
カリスラウドの声は穏やかだった。ラクリシアは繋いでいた手を離され、眉を下げた。
「ヴァレオは信用できる男だから……彼にお前を預ける」
「お兄様は……?」
「城に戻る。けじめをつけたら……またお前に会いに来るよ。私の瞳を忘れないで、可愛いララ」
ラクリシアの縋るような目に、カリスラウドの胸は締め付けられた。それでも、カリスラウドにとってヴァレオ以上に信頼できる人間はいなかった。
「ヴァレオ……ララを頼む」
「ああ、必ず守るよ。……まだ君たちの不在は公にはされていないが……正午から王が謁見台に上がるそうだ。演説の内容次第では、荒れるぞ」
「っ、……そうか、今から戻っても、とても間に合わないな」
「カル、必ず無事で戻ってくれ……言っておくが、怪我をして最も後悔するのは、俺でもララでもない。君だからな」
カリスラウドは困ったように微笑んで、返事をしなかった。馬に跨るとすぐに駆け出して、その背中はみるみるうちに小さくなっていった。
「……お兄様」
ラクリシアは自分の目が潤んでいくのを感じて、ハッとした。
「涙壺が……ない……」
「いいんじゃない?それで」
ヴァレオはハンカチを差し出した。脳裏には「泣いた妹にハンカチを差し出すことは出来ないんだ」と嘆く、鏡の中の老いた友人の顔が浮かんでいた。
「よいのでしょうか……」
ラクリシアは恐る恐るハンカチを手に取って、目尻に当てた。生まれて初めての、誰のためにもならない涙だった。