侯爵代行ヘンリーさん
秋も深まった夕方の侯爵家の屋敷にご令嬢の絶叫が響き渡った。
執務室の窓ガラスが割れるんじゃないかという絶叫に、さすがの侯爵も気を失いそうになったが、何とか娘の狂乱状態を抑え込み、水を飲ませて落ち着かせることに成功する。
「状況は分かった。お前たちに任せっきりにした私の責任でもある。何とかする、だからもう少し落ち着け」
「落ち着ける状態じゃなくしたのはお父様ですわ。今まで私の忠言を全く聞かなかったではないですか」
「そうだが、子供同士のましてや婚約して十年にもなる相手との仲に親が口出しするものでもないだろう」
「その考えの甘さが今の状況なのですよ! お父様!」
「わかった。ここまで証拠をそろえたお前は次期当主にも相応しい、そして政治的な絡みからも入り婿として入る予定だった伯爵令息はその愚行と貴族としての体面も考えないバカだったことも認める。すぐにでもこちらから破棄ないし白紙撤回する」
「ご理解いただきうれしいですわお父様」
「はぁ、お前は本当にエリザベスそっくりに育ったな……」
「むしろお父様の血が入っているのか疑わしいぐらいですわね」
「そこは安心しろ、お前の髪色は私とそっくりだろ」
「ある意味安心できませんわ」
「そういうな、これでも私も元は侯爵家の出だ。次男坊ではあるが」
「突発案件以外については問題ございませんものね」
令嬢が部屋を後にする。
先ほどの会話通り、現侯爵は入り婿であり実質的には侯爵代行でしかない。
「はぁ……娘は反抗期なのだろうな」
「まぁそういうお年頃ではありますね」
「すまないなスチュワート、伯爵家と、令息両方の調査を頼む」
「すでにご用意してございます」
「……エリスの指示か?」
「はい、そうでございます」
「すべて根回ししておいて、私にあの絶叫を浴びせかけたのか」
「旦那様が動かれないからかと」
「……優先順位を下げていたのは認める。ほかの通常業務だけで手一杯だった」
「旦那様は突発案件の処理が苦手でございますからね」
侯爵代行ヘンリーからため息が出る。
娘エリスが3歳のころ、妻であり侯爵であったエリザベスが亡くなった。
そこからはヘンリーが侯爵代行として領地の運営に当たっている。
王家からも含めて周りからの評価が「堅実」と呼ばれるヘンリーの統治だが、災害発生や領地内の村同士の紛争などの解決のような突発事案をヘンリーは苦手としていた。
貿易交渉についても同じ。
エリザベスの頃は積極的な貿易交渉を領地同士で行われていたが、ヘンリーができたことといえば、エリザベスが作り上げた貿易関係の維持ぐらいなものだ。
関係を維持できるという事も十分仕事はしていると言えるが、大きく飛躍していたエリザベス女侯爵統治時代と比較すると平凡と言わざるを得ない。
そして、娘エリスは母エリザベスの性質を強く引継ぎ、16歳の今では若いころのエリザベスそっくりの性格で敏腕女性実業家のようになっていた。
実際、ここ数年の領地における突発事案と、新規の貿易交渉についてはエリスがけん引していたと言っていい。
ヘンリーは名前ばかりの執務代行状態であった。
とはいえ、ヘンリーは娘の希望をかなえられないほど腑抜けではない。
ましてや相手は伯爵家、権力的にはこちらが上だ。
彼はさっそく手紙をしたため、伯爵家に向かう事になる。
普段穏やかなヘンリーだが、各種貿易交渉を継続できるだけの力はあるわけで、交渉ができないだとか能力が極端に低いというわけではない。
なにより、妻エリザベスの補佐でもあったスチュワートの力もあるので大きな問題にはならなかったのだ。
「エリス、向こうの有責で白紙にしてきたぞ」
「ようやくですか、もうお父様が婚約者を探すのはやめてくださいましね」
「もうエリスには迷惑をかけないよ。それに私はお前が16になった時点で本来お役御免だ」
「お役御免じゃありませんわよお父様。貴男にはまだまだ働いていただきます。ただ遊ばせるなんていたしません」
「……お手柔らかに頼む」
この会話の後、ひと月と立たずにエリス女侯爵が誕生した。
その傍らには貴族学校で知り合ったという子爵家の優秀な次男坊を引き連れていた。
なお、引退となった侯爵代行ヘンリーは、エリスの補佐として屋敷で仕事を続けている。
そしてたまに、屋敷では窓ガラスが割れるんじゃないかという女侯爵の絶叫がまたこだまするのであった。