第17話:吸血鬼の王
俺は地面を転がり、壁に叩きつけられてようやく止まった。視界が一瞬白く弾ける。いてぇ。正直、笑えないほどに。だが、骨は折れていない。
地面に突き立てた手に力を込め、ゆっくりと身体を起こす。目の前にいるのは、三体の吸血鬼。まず右側、蒼い炎を纏い、殺意を隠そうともせず立つザフィクロス。呼吸ひとつ、指先の動きひとつにまで圧倒的な火力の気配が滲み、近くにいるだけで皮膚が焼ける錯覚に陥る。さっきの一撃の重さが、まだ身体に残っている。
次に左。崩れかけた建物の屋根の上、風に揺れるように佇む花魁の吸血鬼。ネメシス。艶やかな微笑の裏に、底知れぬ悪意と計算高さを隠し持つ女だ。直接的な圧力は薄いが、その視線がやけに不快で、背中を撫でられているような感覚が消えない。あいつは、隙を突くためにそこにいる。
そして、真ん中。
二人とは明らかに違う。存在感の質が違う。威圧でも殺気でもない、ただそこに「在る」だけで、空間の重さが変わるような感覚。呼吸が自然と浅くなり、無意識に距離を測っている自分がいる。
吸血鬼。
しかも、ただの上位個体じゃない。
多分、いや、ほぼ間違いなく……あれが長だ。
そう直感した瞬間、背筋を冷たいものが走った。ザフィクロスやネメシスですら駒に見えるほどの異様さ。今まで相手にしてきた連中とは、格が違う。
それでも、俺は視線を逸らさない。
膝はまだ笑っていない。拳も、握れる。
「アルセリオン、大丈夫かのう?」
上空から声が降ってきたかと思うと、影が一つ舞い降りる。次の瞬間、音もなく地面に着地したのはエルヴィンだった。俺の知る限り、筋骨隆々で、圧倒的な存在感を放つ女性。その姿は今も変わらない。
「エルヴィンさ……ん」
思わず、間の抜けた声が出た。
「ふぉっふぉっふぉ……なんちゅう顔をしとるんじゃ。アイシアが見たら、さぞ心を痛めるじゃろうて。ほれ、まだ立てるかの?」
からかうような声音とは裏腹に、その視線は戦場を正確に捉えている。心配していないわけじゃない、ただ、信じているのだ。
「ふっ、当たり前だ」
短く答え、俺は再び敵へと意識を向ける。
ザフィクロスに対しては、勝ち筋がある。『対情報攻撃』。あいつの情報構造はすでに把握済みだ。完璧ではないが、致命傷を狙える。問題は、残りの二体。
花魁の吸血鬼と、吸血鬼の王。この二人に同時対応するには、二人分の『対情報攻撃』が必要になる。そのためにはDNAの摂取が不可欠だ。時間がかかるし、その間に何度殴られるかも分からない。
だから、長期戦に持ち込むしかない。『生命吸収』を併用し、削られた体力を回復しながら、隙を作る。危険だが、他に道はない。
花魁の吸血鬼の『数値化:21000』。十分すぎるほどの化け物だ。
吸血鬼の王『数値化:54000』。もはや桁が違う。正直、背筋が冷える。
数値化が全てではない。これはあくまで源の測定値に過ぎない。技量、相性、状況次第で覆ることもある。頭では分かっている。それでも、恐怖が消えるわけじゃない。
ちなみにエルヴィンさんは『数値化:25000』。改めて思う、やっぱり強い。
ヴァルセリオンはどこにいるかわからないけど、まぁいい、2体3だ。
ヴァルセリオンの姿は依然として見当たらないが、今は気にする余裕もなかった。盤面は二対三、数だけ見れば不利だが、エルヴィンが前線に立ったことで均衡は保たれている。先に動いたのは彼女だった。
「あんた、知ってるのう。ネメシスじゃろ?」
「ふふ……おやおや。妾の顔を知っておいでとは、なかなかに通なお方でありんすな」
「ワシも五百年は生きとるからのう。百五十年ほど前じゃ、リンデン王国に“絶賛の美少女”がおると噂が立ってな、その美しさに皆が狂い、国が内乱寸前まで荒れた女がおってのう」
「懐かしゅうお話でありんすなぁ。ようぞ、そこまでご存知で」
「ひとつ聞かせておくれ。お前さん、どうして吸血鬼の道に身を投じたんじゃ?」
二人は旧知だった。いや、正確にはエルヴィンが一方的に知っているだけだ。
「他人の過去を暴こうなど、これほど無粋な振る舞いはありんせん。されど、妾を討ち果たせた暁には、その先を考えてみてもよろしかろう」
次の瞬間、二人の間に張り詰めていた糸が切れ、戦いが始まった。互いに譲らぬ視線が交差し、周囲の空気が鋭く研ぎ澄まされていく。
ありがたい状況だった。エルヴィンがネメシスを引き受けてくれたおかげで、俺は残る二体、ザフィクロスと吸血鬼の王に集中できる。視界の端で炸裂する力の余波を感じながら、俺は静かに呼吸を整えた。ここからが本番だ。
「うぉぉぉ!」
叫びと同時に、俺は地を蹴った。距離を詰める、それだけに意識を集中させる。ザフィクロスでもネメシスでもない、狙いは、中央に立つ吸血鬼の王、ブラッド。
だが、一歩踏み込んだ瞬間だった。
「血夜覇権」
低く、威圧するような声が響く。空気が粘つき、夜そのものが支配される感覚に、背筋が凍る。
「血夜殲王!」
次の刹那、視界を裂くように赤い閃光が走った。線香のように細く、しかし異様なまでに濃密な血の一閃が、俺の腹部を正確に貫く。
「——がっ……!」
衝撃は遅れてやってきた。純粋な貫通ダメージじゃない。刺さった血が、俺の中で脈打っている。熱でも冷気でもない、不快な侵入感。赤黒い何かが、体内へと流れ込んでくる。
「な、んだ……これ……」
情報細胞が、軋む音を立てて崩れていくのが分かる。再生が追いつかない。『生命吸収』が反応する前に、根こそぎ削り取られていく。
ブラッドは一歩も動かず、ただ淡々と告げた。
「私の血は、対象の細胞そのものを破壊する」
その紅い瞳が、冷酷に細められる。
「耐性を持たぬ者なら、掠っただけでも死に至る。君は……よく耐えている方だ。ザフィクロス、やれ」
命令は短く、絶対だった。次の瞬間、ザフィクロスが舌打ちをしながら一歩前に出る。右腕に集束した蒼炎が轟音を立て、周囲の空気そのものを焼き焦がしていく。地面がひび割れ、青白い炎の揺らめきが視界を覆った。
「ッチ、好まない戦いだが、仕方ねぇ!」
蒼炎が炸裂する。拳が叩き込まれ、衝撃と熱が同時に身体を貫く。受け身を取る間もなく吹き飛ばされ、瓦礫に叩きつけられる。
息が詰まり、肺の中の空気が一気に吐き出された。立ち上がろうとした瞬間、追撃が来る。殴られ、燃やされ、また吹き飛ばされる。その繰り返しだ。
それでも、身体は勝手に動いた。膝が笑い、視界が霞んでも、地面に手をつき、無理やり立ち上がる。意識の奥で、たった一つの名前が何度も反響していた。ここで倒れるわけにはいかない理由。それだけが、身体を繋ぎ止めている。
「……まだ、だ」
声にならない呟きを漏らしながら、俺は再び前を向く。ザフィクロスはわずかに目を細め、その異常な執念を測るようにこちらを見ていた。
「随分とタフな奴だ。だが、次で終わりだ」
ブラッドの血が光を帯び、鋭い閃光となって収束する。その狙いは明確だった。頭部――確実に命を断つための一撃。逃げ場はなく、避ける体力も残っていない。覚悟を決めた、その瞬間だった。
「危ない!!」
叫び声が、戦場を切り裂いた。視界の端に小さな影が飛び込んでくる。次の瞬間、俺の前に誰かが立ちはだかり、血の閃光を真正面から受け止めた。
そこにいたのは、アイシアだった。




