第15話:黒の怪物
前の村を裏切ったクロウは、瓦礫の散らばる街路を一人、悠然と歩いていた。
吸血鬼の血を喉に流し込んだ瞬間から、世界の見え方が変わった。力は疑いようもなく本物で、腕を軽く振るだけで人間の身体など紙屑のように宙を舞う。その事実が、彼の胸を満たすのは万能感と、底の浅い優越だった。
隣を歩くのはチューシット中将。かつては軍を率いた男も、今は血の契約に縛られた同類だ。
「ほう? お前は、あの辺境の村の出身だったか」
無関心を装った問いに、クロウは鼻で笑った。
「あぁ。辛気臭いだけの場所だ。それに、やけに目障りな女が一人いてな。……次は、たっぷり可愛がってから殺してやろうと思ってる」
脳裏に浮かぶのは、アイシアという名の女。
凛と背筋を伸ばし、どんな状況でも芯を失わない女だった。
クロウは、彼女が心底気に食わなかった。
幾度も差し出した甘言を、彼女は感情一つ乱さずに退けた。
合理的で、冷静で、そして決して屈しない。
その態度が、クロウの矮小な自尊心を鋭く抉った。
――泣かせてやりたい。
――その理知的な仮面を引き剥がして、恐怖に歪む顔を見たい。
そうして最後に、壊す。
それが彼にとっての復讐であり、支配の完成形だった。
「人はな、力を得ると本性が浮き彫りになる」
チューシットが淡々と呟く。
「お前は、随分と分かりやすい」
クロウは肩をすくめ、血に濡れた指を眺めた。
「分かりやすくて結構だ。今の俺には、逆らえる奴なんて――」
その言葉は、最後まで続かなかった、どこかで、空気が歪む、“何か”が、こちらを見ているような感覚。
前方の瓦礫の向こうから、異様な存在が姿を現した。
身長はおよそ一九〇センチ。人の形をしていながら、人ではないと直感させる違和感を纏っている。全身は闇を塗り固めたかのように黒く、赤い眼光だけが獣のようにぎらついていた。
その怪物は、倒れ伏した死体に屈み込み、何の躊躇もなく肉を喰らっていた。骨が砕け、肉が引き裂かれる湿った音が、静まり返った通りに不気味に響く。
「おい、こいつ……」
クロウが低く呟く。
「気色悪いな。罰として、死んでもらうか」
そう言って、隣に立つチューシット中将が一歩前に出た。
彼は迷いなく自らの前腕に爪を立て、皮膚を切り裂く。赤黒い血が溢れ出すが、痛みを気にする素振りはない。吸血鬼の血による再生能力が、即座に傷を塞いでいく。
「血液操作」
呟きと同時に、宙に浮いた血液が蠢き、鋭利な槍の形を取る。血の槍は脈打ち、生き物のように震えながら、標的へと穂先を向けた。
次の瞬間、躊躇なく放たれる。
音を切り裂き、血槍は一直線に怪物へと飛翔した。
しかし――消えた。
瞬間移動のように、瞬きをした次の刹那、背後から低い声が落ちてくる。
「攻撃するって事は、敵だな?」
ふたりが同時に振り向く、その動作が完了するよりも早く、ヴァルセリオンは動いた。
巨躯の腕が伸び、クロウの顔面を鷲掴みにする。そのまま横薙ぎに振り抜くと、クロウの身体は布切れのように宙を舞い、家屋へと叩きつけられた。木材が悲鳴を上げ、壁が砕け散る。
「血相術法:血刃生成!!」
チューシットは即座に反応する。
自身の腕を切り裂き、溢れた血を術式で固定・成形。鋭利な刃へと変えた血の刃を、迷いなくヴァルセリオンへと放つ。
しかし――
「死音爆血」
ヴァルセリオンの右手から、耳鳴りすら置き去りにする死の音が解き放たれた。
それは純粋な音波による破壊。神経を直接侵し、構造そのものを崩壊させる振動だ。血の刃は接触する前に震え、分解され、霧散する。
(なんだ、この音は──まずい)
そう認識した瞬間、チューシットの鼓膜は耐えきれず破裂した、激痛と共に視界が歪み、耳から血が噴き出す。世界から音が消え、代わりに絶望だけが流れ込んできた。
「弱ぇな、おい」
ヴァルセリオンが手を伸ばそうとした、その刹那。
「貴様ァァァ!」
瓦礫を蹴散らし、クロウが獣じみた咆哮と共に突進してくる。血を媒介に構築された刃『血相術法:血の剣』。凝縮された血の結晶が、鈍い赤光を放ちながら振り下ろされた。
だが、刃が届く寸前、ヴァルセリオンの口元がわずかに歪む。
「毒霧放射」
黒紫の霧が至近距離で噴き出し、クロウの顔面を覆い尽くした。次の瞬間、視界が歪み、足元が崩れる。脳を直接揺さぶるような吐き気と眩暈が一気に押し寄せた。
「が……っ、な……にを……」
言葉は続かず、膝が地面に落ちる。
その上空で、ヴァルセリオンが胸郭を大きく広げた。
「浪震咆哮!!」
大気そのものが殴られたかのような衝撃。音圧が波となって炸裂し、周囲の建物の窓ガラスが一斉に砕け散る。衝撃は肉体だけでなく、意識そのものを叩き潰した。
クロウの身体が宙に浮き、そのまま力なく叩きつけられる。血の剣は霧散し、赤い粒子となって消えた。
完全な沈黙。
クロウは白目を剥いたまま、微動だにしない。
ヴァルセリオンは一瞥をくれると、興味を失ったように視線を外す。
「……次だ」
残されたチューシット中将の方へ、ゆっくりと歩みを向けながら。
(なんだ、この化け物は……逃げるしかない)
チューシットは本能的にそう判断した。理性が警鐘を鳴らすよりも早く、背筋を冷たいものが走る。勝てない。理解した瞬間、身体はすでに後退していた。
「腰抜けが」
低く、腹の底に響く声が背後から叩きつけられる。
「まだまだ、食いたりないんだよ」
次の瞬間、空間そのものが歪んだ。
『混沌喰者!!!』
咆哮と同時に、虚空が裂ける。闇でも影でもない、秩序を拒絶する“混沌”そのものが形を成し、巨大な龍として顕現した。鱗は不定形にうねり、口腔の奥は光を拒む深淵。そこから放たれる圧だけで、周囲の建造物が軋み、崩れ落ちていく。
「な……っ!?」
逃げ切れるはずがなかった。
混沌の龍は一息に距離を詰め、チューシットと、気絶したままのクロウをまとめて咥え込む。悲鳴すら上がらない。噛み砕くのではない、“喰われる”という概念そのものが実行された。
肉体、血、魂、そして力。
すべてが、等価に呑み込まれていく。
やがて龍は霧散し、瓦礫の街路には、黒い怪物だけが立っていた。ヴァルセリオンはゆっくりと息を吐き、体内を巡る新たな感覚を確かめる。
――情報、取得完了。
『擬態:吸血鬼』
その文字列が、脳裏に静かに刻まれる。
続けて、冷たい声が無機質に告げた。
『種族スキル獲得』
『血液操作』
血の流れが、まるで別の意味を持ち始める。脈動は命ではなく、武器だ。意思一つで形を変え、刃となり、槍となり、呪いともなる。
ヴァルセリオンは赤い眼光を細めた。
「……悪くねぇ」
瓦礫の向こうで、まだ戦火は続いている。
血の匂いも、絶望の気配も、尽きることはない。
♢♢♢
セインは瓦礫の影を選ぶように、身を低くして歩いていた。――否、歩いているというより、逃げているのだ。呼吸は浅く、心臓の鼓動だけがやけに耳につく。
勝てない。
最初から、分かっていた。
自分の居場所など、この戦場のどこにも存在しない。薄々ではない、はっきりと理解していた。自分は弱い。剣を握り、戦士を名乗ってきたが、それはただの自己暗示に過ぎなかったのだ。
周囲にいる連中はどうだ。
白と黒の怪物、理を踏み越えた異形。
神を自称するエラー、その飄々とした態度の裏に潜む底知れぬ力。
そして、かつて仲間だったはずの者たちすら、もはや別次元の存在へと変貌している。
――化け物だ。
自分以外、すべてが。
セインは歯を噛みしめる。悔しさよりも先に、虚しさが込み上げた。努力が足りなかったのか、才能がなかったのか。いや、そのどちらも正しいのだろう。
井の中の蛙、大海を知らず。
その言葉が、これほど身に刺さる日が来るとは思わなかった。
強いと思っていた。
少なくとも、並んで立てていると信じていた。
だが現実は違った。彼らが見ていた景色と、自分が見ていた世界は、最初から別物だったのだ。
剣を取った日の誓いが、今はひどく滑稽に思える。
守るだの、戦うだの――そんな言葉を口にする資格が、自分にあったのか。
「……俺は、何なんだよ」
誰にも届かない呟きが、崩れた街に溶けて消える。
セインは再び足を動かした。生き延びるために。誇りでも、覚悟でもなく、ただの本能に突き動かされながら。
「おい、どこへ行く? 皆が戦っている最中だぞ。まさか――逃げるつもりか?」
黒い羽根を背に生やした男が、宙から音もなく舞い降りた。地面に足をつける所作はあまりに自然で、まるで最初からそこに立っていたかのようだった。
圧倒的な力の差。理屈ではなく、本能が告げている。――吸血鬼の頂点、その王だ。
「おっと、そんなに怯えなくてもいい。私はブラッドだ。一応、吸血鬼の王を務めていてね」
「……」
やはりか、という予感が現実になる。源は意図的に抑えられている。それでも分かる。隠しきれない異質さ、次元の違う存在感。紛れもない怪物だ。
「まったく、この世は理不尽に満ちている。弱き者は奪われ、抗う術もなく、ただ指をくわえて見ているしかない」
ブラッドは静かに微笑み、続ける。
「……見えるぞ。君の胸の奥に巣食う闇が」
その言葉は、思考をなぞるように正確だった。セインの心を、否定の余地なく射抜いている。間違いない。彼は、すべてを見透かしている。
「……見えるぞ、君の胸奥に巣食う闇が」
ブラッドの声は低く、甘く、逃げ場を塞ぐように絡みつく。セインは喉を鳴らし、無意識に一歩退いた。足が震える。剣を握る手には、もう力が入らない。
「弱さを恥じるな。弱さとは罪ではない。だが――弱いままで在ろうとすることは、選択だ」
ブラッドはゆっくりと歩み寄る。黒い羽根が、夜の空気を撫でるたび、周囲の温度が一段下がったように感じられた。
「君は見てきたはずだ。仲間と呼んだ者たちの背中を。化け物じみた力。届かぬ差。努力では埋まらぬ溝」
「……黙れ」
絞り出すような声だった。だが、否定の言葉には力がない。
「逃げたいのだろう? 生き残りたいのだろう? だが、このまま逃げれば、君は一生“逃げた自分”から逃げ続ける」
ブラッドは足を止め、微笑んだ。その笑みは慈悲深くすら見えた。
「私は救いを与えよう。力だ。選ばれし者の力。君が恐れ、羨み、憎んできたもの、そのすべてを超える力を」
セインの脳裏に、仲間たちの姿が浮かぶ。ヴァルセリオンの背中。異形の力。圧倒的な存在感。エラーの飄々とした余裕。自分だけが、地に縛りつけられている感覚。
――置いていかれる。
胸の奥で、何かが軋んだ。
「……俺は、強くなれるのか」
その問いに、ブラッドは即座に答えた。
「ああ。なれるとも。代償はただ一つ。人であることを、少し手放すだけだ」
沈黙が落ちる。遠くで響く爆音と悲鳴が、現実を突きつける。
セインは、ゆっくりと顔を上げた。恐怖は消えていない。だが、その奥で、別の感情が芽吹いていた。
――このまま終わるくらいなら。
「……力を、くれ」
その瞬間、ブラッドの瞳が赤く輝いた。
「よろしい。ならば、君は今日から“生き残る側”だ」
指先が伸びる。血の気配が、甘く、濃く、空気を満たす。
「な訳ねぇだろうが! 武技:抜刀!!」
セインは吼え、剣を引き抜いた。鋭く閃いた刃は一直線にブラッドを捉える――はずだった。だが、その切っ先は、王の身体に触れることすら叶わない。
「ふ……愚かだな。実に愚かだ。救いようがない」
「愚かでも、馬鹿でも構わねぇ。てめえらは俺の仲間を殺した……あいつらに顔向け出来ねぇだろうが」
忘れるはずがなかった。燃やされた故郷、斃れた仲間たち、その光景は今も胸に焼き付いている。許せるはずがない。
「殺した? 違うな。奴らは自ら死を選んだのだよ。私はただ、その選択を手助けしたに過ぎない。私に逆らうということは、命を差し出すのと同義だ。……理解できぬか?」
理屈にもならない言葉。だが、それを当然のように口にできるのは、圧倒的な強者だからこそだ。その余裕が、何よりも腹立たしい。
セインは歯を食いしばり、剣を強く握り締めた。
『身体能力強化』『動体視力上昇』『風刃』
そして『気力』――自らが持つ、すべてを解き放つ。
「絶技:心気・一点!!」
迷いを捨てた、最速最強の突き。剣は一直線に、確実に、ブラッドの心臓を狙う。
しかし。
「……遅いな」
その一言とともに、ブラッドは片手で刃を受け止めた。いとも容易く、力の差を見せつけるように。
(……また、届かねぇのか)
「いい一撃だ。だが、それだけだ」
次の瞬間、冷たい声が宣告する。
「死ね。血相術法:血刃生成」
血が刃となり、閃いた、あまりにも呆気なく、セインの首は宙を舞った。
「さて、もう少し楽しもう」
ブラッドはゆっくりと歩いていく。




