第10話:いざリンデン王国へ
天候は最初から不吉だった。空は一面を鈍い灰色に塗り潰され、雲は低く垂れ込めている。
今にも泣き出しそうな空気が肌にまとわりつき、湿った風が嫌に重い。雨が降る、そう直感させるには十分すぎる空模様だった。
俺とヴァルセリオンは魔狼へと擬態し、地を蹴る。山道を裂くように走るたび、土と枯葉が跳ね、重い雲の下を影が疾走していく。俺の背にはアイシアとミレイユ、ヴァルセリオンの背にはセインが跨っていた。
「……チッ、なんで俺がこいつの背中なんだよ」
不満を隠そうともしないセインの声が、風に乗って聞こえる。
「嫌だったら振り落としてもいいぜ。転がり落ちても、自己責任な」
ヴァルセリオンが楽しそうに言い返す。速度をわずかに上げると、セインは舌打ちしながら身体を低くしてしがみついた。
相変わらず、噛み合わない二人だ。だが今は、その軽口が逆に救いでもあった。全員が背負っているものは重すぎる。だからこそ、こうした小さな衝突が、まだ生きている証のようにも思える。
背中越しに伝わるアイシアの体温は静かで、ミレイユは不安を押し殺すように、俺の毛皮をぎゅっと掴んでいる。空はさらに暗さを増し、遠くで雷鳴がくぐもって響いた。
吸血鬼どもに嗅ぎつけられないよう、進路の選定はすべてアイシアの指示に従った。大通りは避け、街道も使わない。人の往来が少なく、なおかつ魔力や血の反応が残りにくい、そんな“安全ルート”だけを縫うように進む。
「リンデン王国には裏口があるんです」
淡々とした口調で、アイシアはそう言った。
「正式な門ではありません。王国がまだ小国だった頃、非常時のために用意された侵入路です。今ではほとんど忘れ去られていますが……使えます」
裏口、侵入路、忘れ去られた通路。聞こえは悪いが、今の俺たちにはこれ以上ない希望だった。正面から堂々と入れる立場じゃない。生き延びるためなら、影を選ぶのも当然だ。
それから数時間、俺とヴァルセリオンはひたすら走り続けた。山を越え、谷を避け、湿った森を抜ける。足場の悪さも、夜気の冷たさも、今の俺たちには障害にすらならない。不思議なほど、疲労は感じなかった。魔狼の身体が優れているのか、それとも極限状態が感覚を麻痺させているのか。
背中では、ミレイユがいつの間にか眠っている。アイシアは静かに周囲を感じ取り、セインは文句一つ言わずに身を低くしていた。あいつなりに、状況は理解しているのだろう。
やがて、空気が変わった。
風に混じる匂いが違う。人工物の気配、石と鉄、人の営みの残滓。
そして――
「見えました」
アイシアの声と同時に、視界が開ける。霧の向こう、巨大な城壁が地平線を塞ぐようにそびえ立っていた。無骨で古く、それでいて確かな威圧感を放つ構造物。塔の影が長く伸び、曇天の下でもその存在感は揺るがない。
リンデン王国だ。
裏口からの侵入は、拍子抜けするほどあっさりと成功した。
古い石積みの壁、その一部が不自然に苔むして崩れかけている場所――アイシアの言う“忘れ去られた侵入口は、今や完全に死角になっていた。
「ここからです」
短くそう告げると、俺たちは即座に擬態を切り替える。
さすがに魔狼のままでは目立ちすぎる。王都の内部でそれをやれば、騒ぎになるのは目に見えていた。
俺は犬に、ヴァルセリオンは猫に擬態した。
どこにでもいそうな、雑種の野良犬と、痩せた黒猫。これなら誰も気に留めない。
背中の感触が消え、アイシアたちは周囲の陰へと自然に溶け込む。人の視線がある場所では、彼女たちは外套を深く被り、あくまで“旅の途中の一般人”を装った。
「流石にこの姿で街を歩かせるわけにはいきませんからね」
アイシアが小声で言う。
「王国側も警戒はしています。吸血鬼の件が広まっていないとはいえ、異常には敏感ですから」
石畳の路地を、俺は犬らしく鼻を地面に近づけて歩く。
ヴァルセリオン、猫の姿のあいつは、気まぐれに塀の上に飛び乗り、周囲を見下ろしていた。
「……チッ、猫ってのは落ち着かねぇな」
小さく悪態をつくが、その動きはやけに様になっている。
街の中は、まだ平静を保っていた、市場の準備をする商人、見回りをする兵士、行き交う市民たち。誰一人として、俺たちが王国の外で何をくぐり抜けてきたのかなど想像もしていない。
だが、油断はできない。
この穏やかさは、嵐の前の静けさかもしれないのだから。
ヴァルセリオンは完全に黒猫の姿に馴染んでいた。
艶のある毛並み、半分だけ細められた金色の瞳。その黒猫は、ミレイユの頭の上に器用に陣取っている。
「あったかいか〜」
ミレイユはそんな調子で、特に気にした様子もなく歩いていた。
むしろ気に入っているのか、時折無意識に頭を傾けて、黒猫を落とさないようにしている。
ヴァルセリオンもまんざらではないらしく、尻尾をゆらりと揺らしながら、街の上空や人の流れを警戒するように見渡していた。
さっきまで殺気を滲ませていた男と同一人物とは思えないほど、今は“街に溶け込む影”そのものだ。
一方の俺はというと、アイシアの腕の中だ。
小型犬に擬態しているから、抱きかかえるのにちょうどいいらしい。
「……なんだか、妙に慣れてますね」
俺が言うと、アイシアはくすりと笑った。
「旅の途中で、何度か似たことはありましたから。おとなしくしてくれると助かります」
その声は穏やかで、胸元から伝わってくる体温も落ち着いている。
視界はいつもより低く、石畳の隙間や人々の足元がやけに目につく。街の匂い、パンの焼ける香り、獣の匂い、金属と汗の混じった空気が鼻を刺す。
平和だ。少なくとも、表向きは。
アイシアさんは一切の迷いもなく、その喫茶店の扉を押し開けた。
外観は年季の入った煉瓦造り、色褪せた看板に刻まれた文字は、知らぬ者にはただの古びた店にしか見えない。だが――知る人ぞ知る、名門中の名門。そんな空気が、扉の向こうから滲み出ていた。
カラカラン、と鈴の音が鳴る。
俺たちは自然と身を潜めるようにして中へ入る。
店内は薄暗く、木製の床とカウンターは長い年月を物語る艶を帯びている。コーヒー豆の深い香りが漂い、外の張り詰めた空気が嘘のように遠のいた。
その音に反応したのだろう。
二階から、コツ、コツと杖の音が降りてくる。
「……あら?」
やがて階段の途中で足を止め、こちらを覗き込んだのは、アイシアと同じ白髪をした女性だった。
だが、年の重ね方がまるで違う。顔には深い皺が刻まれ、背はやや曲がっている。にもかかわらず、その瞳だけは異様なほど澄み、鋭かった。
「アイシア!久しぶりじゃないかい!」
声は張りがあり、老いを感じさせない。
アイシアはその姿を見た瞬間、わずかに目を見開き――そして、ほっとしたように微笑んだ。
「マダム・エルヴィラ……ご健在で何よりです」
「当たり前さ。あたしがこの店を畳むときは、この国が先に滅びる時だよ」
そう言って、老婆は愉快そうに笑う。
その視線が、ミレイユの頭の上の黒猫へ、そしてアイシアの腕に抱かれた俺”へと流れた瞬間、一瞬だけ、空気が変わった。
「……ふぅん。随分と“面白いお客”を連れてきたね」
なるほど――このおばさん、只者じゃない。
店に染みついた珈琲の香りよりも濃く、長い年月を生き抜いた者特有の“圧”がある。力を誇示するでもなく、隠すでもない。ただ、そこに在るだけで周囲が一段静かになる類の存在だ。
俺はこれ以上隠しても無駄だと悟り、静かに息を吐いて擬態を解いた。
毛皮がほどけ、骨格が軋み、情報が再構築される感覚。小型犬だった身体は、元の姿へと戻る。
「……ほう」
老婆――いや、エルヴィラは一切驚かない。ただ、少しだけ口角を上げた。
「おや、そんな姿なのねぇ」
「あぁ。訳あって犬に擬態してた」
そう言って、俺は再び犬の姿へと戻る。
一瞬で完了する変化。それを見届けたエルヴィラは、楽しそうに喉を鳴らした。
「ふふ……なるほど、なるほど。変化系、それも相当洗練されてる。」
信用を得るには、まずこちらから信用を差し出すしかない。
力を隠し、正体を偽るのは簡単だ。だがそれは、相手を試す行為でもある。この場では悪手だ。
「なるほど……事情は聞かなくても、碌でもないって顔してるよ」
エルヴィラはそう言って、カウンターの内側へと戻り、古びたポットに湯を注ぎ始めた。
カップが五つ、迷いなく用意される。まるで最初から、俺たちの人数を知っていたかのように。
「アイシア。あんたがここへ来るってことは、村はもう無いんだろう」
「……はい」
「そうかい」
それだけ、同情も、慰めもない。だが、軽んじてもいない。ただ事実として受け止めている。
「ここは安全だよ。少なくとも――今はね」
「助かります、マダム・エルヴィラ」
アイシアが頭を下げる。
ミレイユは少し緊張した面持ちで椅子に座り、黒猫のヴァルセリオンはその頭の上で尻尾を揺らしている。セインは壁際に立ち、相変わらず周囲を警戒していた。
エルヴィラの視線が、もう一度だけ俺に向く。
「坊や。あんた……随分と焼かれたね」
「……分かるのか」
「分かるさ。魂の縁が、少し焦げてる。普通なら死んでる」
やはり、只者じゃない。
この老婆は“見ている”。肉体じゃない、もっと深いところを。
「でも生きてる。理由も、覚悟も、ちゃんと持ってね」
「……あぁ」
エルヴィラは満足そうに頷いた。
「いいよ、しばらく匿ってやる。ただし」
そう言って、カップをテーブルに置く。
「ここは“安全地帯”じゃない。あたしは逃げ場を貸すだけだ、立て直すか、滅びるかは――あんたたち次第さ」
エルヴィラもまた白髪だった。
そういえば、以前アイシアさんが言っていたな――クロウ・フォード家に生まれる者は、例外なく白髪だと。悪魔や神、星外生命体、あるいは別の星から来た存在は別として。
この星で生まれ、この星の理に縛られている者たちは、本来白髪では生まれてこない。少なくとも、自然な摂理の中では、だ。
だがクロウ・フォード家は違う。
生まれ落ちた瞬間から、まるで“何かを終えた後”のような色を宿している。
煤けた白ではない。長い年月を静かに積み重ねてきた者だけが持つ、鈍く、それでいて澄んだ色だ。
俺はふと気になって、アイシアに小声で尋ねた。
すると案の定らいや、もはや納得と言うべきか。
「推察通りです。彼女も『クロウ・フォード』家の一員ですよ」
やっぱりか、この家系、どうなってんだ、さらに続いた説明に、俺は内心でひっくり返りそうになる。
「種族は……鬼と長耳人のハーフだそうです」
「は?」
思わず声が漏れた、どう見ても、外見は完全に“おばあちゃん”だ。柔らかく背中は丸まり、深い皺が刻まれ、年老いた人間そのものにしか見えない。
「ちなみに、現在でおよそ五百歳ですね」
「……五百」
言葉が一拍遅れて頭に落ちてくる。
五百年、王国が興っては滅び、地図が何度も書き換えられるほどの時間だ。
「彼女たちの寿命は、だいたい七百年ほどです」
「じゃあ……人間で言うと……」
俺は無意識に計算を始めた、人間の平均的な寿命を八十年と仮定すると、七百年はおよそ八・七五倍。
つまり五百歳というのは――
「……人間換算で、六十前後ってとこか」
「ええ、そのくらいですね」
マジかよ、俺が勝手に大昔からいるおばあちゃん認定してたこの人物、種族基準で見ればまだ壮年寄りじゃねぇか。
「おやおや、何をひそひそ話しておるんじゃい?
この歳でも耳はよう利くんじゃぞ。
まだまだ引退する気は、毛頭ないわい」
そう言いながら、エルヴィラは手慣れた所作でコーヒーを淹れていく。
豆を挽く音、湯を注ぐ音、その一つ一つが妙に落ち着いていて――同時に、隙がない。
……間違いない。
このばあちゃん、ただの喫茶店の老婆じゃない。
俺は内心でそう結論づけ、無意識に口を噤んだ。
危険な話題は、ここでは控えた方がいい。
この人は“聞いていないふり”をしながら、全部把握している類の存在だ。
カップを置くと、エルヴィラは自然な流れで話を引き継ぐ。
「ここに来た理由は、多方予想がつく。
――吸血鬼の件じゃろ?」
「……えぇ、はい。
エルヴィラさんも、ご存じだったんですか?」
問いかけるアイシアに、エルヴィラは小さく鼻で笑った。
「リンデン王国でも、その噂で持ちきりじゃ。
吸血鬼の一族が北インティウム大陸を掌中に収めようと、動き始めた……とな」
そう語る声には、誇張も恐怖もない。
ただ、長い年月の中で何度も“時代の変わり目”を見てきた者の、乾いた実感だけがあった。
「街は浮き足立ち、人々は疑心暗鬼。
隣人を信じられず、夜になれば戸を閉め、息を潜める。
……わしら年寄りですら、夜も満足に眠れん有様じゃよ」
――年寄り?
さっき「まだ引退する気はない」とか言ってなかったか?
いや、待て。
この人の場合、“年寄り”という言葉そのものがブラフかもしれない。
俺は突っ込むのをやめた。
ここで茶化した瞬間、主導権を完全に持っていかれる気がする。
沈黙を破ったのは、セインだった。
「俺は戦う気はない」
短く、しかしはっきりとした声。
彼はカップにも手をつけず、視線を落としたまま続ける。
「悪いが、このまま東へ行かせてもらう。
北インティウム大陸から、離れるつもりだ」
逃げ──という言葉を、彼は使わなかった。
「それは、やめた方がいい」
エルヴィラは即座にそう言った。
その声には迷いがなく、忠告というより“事実の確認”に近い響きがあった。
「……何故だ?」
セインが顔を上げる。
反発というより、理由を求める目だ。
「もう北インティウム大陸の国道は、すべて押さえられておる」
その一言で、空気が冷えた。
「吸血鬼一族についた方が賢い――そう口にする者も増えてのう。
山賊、密輸屋、裏社会の連中……連中は鼻が利く。
すでに奴らの手先同然じゃよ」
つまり、逃げ道は“表”にも“裏”にも存在しない。
道を選ぶ以前に、道そのものが消されている。
エルヴィラは静かに結論を告げる。
「……となれば答えは一つ。
戦う以外に、道は残されておらん」
喫茶店の中が、しんと静まり返った。
コーヒーの湯気だけが、やけに白く目に刺さる。
――なるほどな。
奴らは、最初から“選択肢”を与えるつもりなんてなかった。
逃げる? 隠れる? 国外へ出る?
そんな考えに至ること自体、全部想定済みだったというわけだ。
抗えば戦え。
従わなければ死ね。
俺たちは、戦うという選択を“強制的に”突きつけられている。
さらにエルヴィラは話を続ける。
「リンデン王国も、手をこまねいていたわけではない。
ヴァルメリア王国と交渉し、共同で事態を打開しようとした」
だが、と彼女はカップを持つ手を止めた。
「その国境は、すでに吸血鬼一族に抑えられておった。
使者は消え、伝令は戻らず、連絡手段はすべて遮断。
……結果、両国は完全に分断された」
孤立無援。
その言葉が、これ以上なく的確だった。
「つまり、リンデン王国は単独で耐えるしかない。
助けも、後ろ盾も、期待できん状態じゃ」
俺は無意識に拳を握っていた。
状況は思っていた以上に詰んでいる。
「お主らがリンデン王国に辿り着けたのは……運が良かっただけじゃな」
エルヴィラはそう言って、こちらを見る。
「一日でも遅れておったら、
裏口も封鎖され、街に入ることすら出来なかったじゃろう」
俺たちは本当に、ギリギリの線を踏み越えていたのだ。
重苦しい沈黙が落ちる中、俺ははっきりと理解した。
もう、逃げ場はない。
世界そのものが、俺たちを“戦場”に押し出している。
そうですか……」
アイシアは視線を落とし、わずかに肩をすぼめた。その表情は暗く、状況を思えば当然なのだが、不謹慎にも、俺はその沈んだ顔にどこか幼さと可憐さを感じてしまった。
「全く、近頃の若者はすぐに落ち込みおる」
エルヴィラは呆れたように鼻を鳴らし、しかしその声音には確かな温かみがあった。
「いいか、アイシア・クロウ・フォード。ワシもおる。同じクロウ・フォード家の一員として、見捨てる道理はないわい。安心せぇ」
その言葉に、アイシアの肩がわずかに揺れ、ゆっくりと顔が上がる。
「ふふ、頼もしいです」
そう言って、アイシアは柔らかく微笑んだ。
張り詰めていた空気が、ほんの一瞬だけ和らぐ
俺達は一時の間忘れるようにコーヒーを飲んだ。




