第6話:戦の狼煙
吸血鬼の一族は、音もなく、影のように領土を侵食していた。
剣や軍勢による征服ではない。恐怖と契約、そして血による支配――それが彼らのやり方だ。
「ブラッド閣下。この地も大半の支配が完了しました。残るはヴァルメリア王国、そして小国リンデン王国のみです」
低く抑えた声が、重厚な石室に響く。
報告を受けても、玉座に腰掛けた男は眉一つ動かさない。
ブラッド。
吸血鬼の一族において“閣下”と呼ばれる存在。黒曜石のようなコートを纏い、指先には装飾過多な杯を持っている。中身は赤いワイン――否、それは紛れもなく血だ。まだ温もりを失っていない、新鮮な血。
彼はそれをゆっくりと口に運び、味わうように喉へと流し込む。
「……悪くない」
その背後、壁には“素材”が貼り付けられている。
人だ。生きている。
四肢を拘束され、逃げ場もなく、ただ恐怖に引き攣った目で虚空を見つめている。
ブラッドは振り返りもせず、指先を軽く鳴らした。
すると、壁に仕込まれた魔術陣が淡く光り、人体から血がゆっくりと搾り取られていく。無駄なく、一滴残らず。
叫び声は既に出ない。喉は枯れ、意識も薄れ、ただ“器”として消費されるのみだ。
「血は嘘をつかない。支配とは、命の流れを握ることだ」
そう呟いたブラッドの声には、狂気も激情もない。
あるのはただ、確信と慢心だけ。
「ヴァルメリア王国か……厄介ではあるが、それだけの話だ。リンデン王国に至っては、話題にすること自体が烏滸がましいレベルだ。」
つまり、敵ではない。
ブラッド・ボーンは吸血鬼の一族であり、かつてこの地を荒らしていた魔族すら退けた存在だ。すでにインティウム大陸北部、ノルド=インティウム圏の一角を完全に掌握しており、その支配は静かに、しかし確実に広がりつつあった。
血による統治、恐怖による秩序。
彼らにとって国境や王権など取るに足らない概念に過ぎない。
ブラッド・ボーンが見据えているのは、一国の征服ではない。インティウム大陸、そのすべてを、夜の帳の下に置くこと、それは野望ですらない。
彼らにとっては、いずれ訪れる当然の帰結に過ぎなかった。
ちなみにインティウム大陸の規模は凄まじく、その総面積は地球のおよそ1000倍に匹敵する。
一つの「大陸」と呼ばれてはいるが、その内部には小大陸級の陸塊が無数に存在し、海域、空域、未踏領域を含めれば全容を把握している者は存在しない。国家同士の戦争は局地的な争いに過ぎず、数百年単位で移動すら成し遂げられない地域も珍しくない。
ゆえにインティウムでは、王国が一つ滅びようと世界は揺らがず、逆に一勢力が覇を唱えれば、それだけで歴史が動く。
吸血鬼の一族が「大陸支配」を口にできるのも、この狂気じみた広さがあってこそだった。
「ブラッド閣下であれば、成し遂げられるでしょう。それに.吸血鬼最強、蒼炎の暴君ザフィロクスも控えています。もはや茶番に等しい」
バルはそう言って、わずかに顎を引き、同意を示した。
「……ええ、そして彼女もいますから」
その言葉に呼応するかのように、ブラッドの背後の闇が静かに揺らぐ。
そこに佇んでいたのは、黒いヴェールに身を包み、喪服のような漆黒のドレスを纏った少女だった。年端もいかぬ外見とは裏腹に、その存在が放つ気配は、死と終焉そのものを凝縮したかのように重い。
絶望葬姫:デスぺリア。
彼女が一歩も動かず、ただそこに在るだけで、空気は冷え、血の香りさえ色を失う、戦場に立てば、嘆きは祈りに、祈りは屍へと変わる、そう囁かれる、吸血鬼一族最凶の象徴。
「しかしながら、ブラッド閣下。ひとつ、気になる報告がございます」
低く抑えた声で、バルが前に進み出る。
「ほう?」
杯を傾けたまま、ブラッドは興味深そうに片眉を上げた。
「国境から離れた地に、密かに隠れるように存在する集落を確認しました。血栓感知、源感知、熱源感知――いずれでも反応を確認済みです。どうやら意図的に痕跡を抑えているようですが……完全ではありません。推定人数は、およそ百五十」
「百五十、だと?」
その数を口にした瞬間、ブラッドは喉の奥で小さく笑った。
「……笑わせるな」
嘲りを含んだ声音が、玉座の間に静かに広がる。
「その程度で“妙な集落”とはな。鼠の巣を見つけて、城を見つけたつもりか?――報告するまでもない。滅しろ」
「はっ」
その命が落ちた瞬間、玉座の間を震わせるような轟音が響いた。
ドン、と空気そのものが破裂したかのような衝撃。重厚な扉は内側から叩き割られ、破片を撒き散らしながら吹き飛ぶ。
「俺が出る!!」
咆哮と共に現れたのは、蒼炎の暴君ザフィロクスだった。二メートルに迫る巨躯、鍛え上げられた肉体から滲み出る暴力の気配。立っているだけで周囲の温度が上がるかのようだ。
「最近は小物ばかりでよォ、身体が鈍って仕方ねぇ……運動にもなりゃしねぇんだ。どうせなら派手にやろうぜ。血湧き肉躍る“大戦争”ってやつをよ!!」
その無遠慮な侵入に、背後から呆れたような声が重なる。
「おやおや……あんた様、また派手にやってくれたもんだねぇ。毎度毎度、どうして扉ってぇ扉をぶち壊さなきゃ気が済まないんだい?後始末をする身にもなっておくれよ。直すのは、この私なんだからさ……」
現れたのはネメシア。黒と紅を基調とした花魁装束に身を包む、妖艶な吸血鬼。艶やかな声音とは裏腹に、その眼差しは冷静そのものだった。
「いいじゃねぇか、細けぇことは気にすんな。洒落臭ぇんだよ」
ザフィロクスは豪快に笑い飛ばす。
「それにブラッド閣下が、この程度でグチグチ抜かくたまかよ。あのお方はな……数年もすりゃ、この大陸を踏み潰して立つ支配者だ。今はその前座だと思え。血と火花で盛り上げてやろうぜ!!」
玉座に座すブラッドは、感情の揺れひとつ見せずに言った。
「その通りだ、ザフィロクス。要件は理解した。――行け」
ネメシアはその言葉に、静かに、しかし完璧な所作で一礼する。
「ヒャッハー!さすがはブラッド閣下だぜぇ!」
ザフィロクスは興奮を隠しもせず、さらに問いを投げた。
「で、人間どーする?見つけ次第、狩って喰っちまっていいんだよなぁ?」
ブラッドは薄く笑い、冷酷に告げる。
「百姓の血など下賤で舌が穢れる。処分でも実験でも、好きに使え」
「大将、大好きだぜ!」
その言葉を合図に、ザフィロクスは踵を返し、大きく跳躍する。床を蹴砕き、壁を砕き、城の一部が崩れ落ちるが、誰一人としてそれを咎める者はいなかった。
フォレタス村は山岳地帯に根を張る集落だ。その成り立ちは決して清廉なものではなく、元を辿れば山賊たちの寄り合い所帯に過ぎなかった。法にも国にも縛られず、奪い、逃げ、山に潜む――そんな連中が生き延びるために身を寄せ合った結果が、この村の始まりだ。
だが、時は流れた。略奪だけでは続かないと知り、血だけでは守れないと学び、彼らは少しずつ形を変えていった。畑を耕し、獲物を分け合い、掟を定め、今では“村”と呼ぶに足る秩序と生活を築き上げている。過去が消えたわけではないが、それを土台にして、確かに前へ進んできたのだ。
そうした背景の異なる集落が、様々な事情と利害の一致によって結成したのが『四村提携連合軍』だった。国家に属さず、だが孤立も選ばない。
互いに干渉しすぎることなく、しかし危機には肩を並べる。その在り方は国という枠組みよりも、むしろ“集落の延長”に近い。
彼らは彼らなりの理屈と流儀で生きている。誰にも支配されず、誰にも従わず、それでも確かに共に生きるために、この地で、独自の生活圏を築き上げているのだ。
「モルド、俺は思うのだ。新たな国を作ろうと」
その一言に、モルドは思わず足を止めた。冗談だと思いたかったが、セインの声にはいつもの軽薄さはなく、山の岩肌のように揺るぎない決意が滲んでいる。
「く、国ですか?」
「あぁ。今この瞬間だ。国が生まれる、その過程のど真ん中に俺たちは立っている。他の村を束ね、時に吸収し、北インティウムに――新しい歴史を刻む」
セインは空を仰いだ。果てしなく広がる山並み、その向こうに見えるのは、支配と服従を押し付ける既存の国家ではない。異形も、人も、はぐれ者も、生き残るために手を取り合える“居場所”だ。
「えぇ〜、そこまでやるかぁ……」
モルドは呆れたように笑い、頭を掻いたが、その視線は否定よりも驚きに近い。
「国なんて面倒事の塊だぜ?責任も、敵も、一気に増える」
「だからだ。逃げ場のない連中が、逃げずに立てる場所が要る。奪われる側で終わるのは、もう御免だ」
セインは、そう考えていた。
山賊として生まれ、山賊として育ち、常に奪われる側に立たされてきた人生。子は親を選べない、それは彼が骨の髄まで理解している真理だった。
だからこそ、今度は自分が“選ばれる側”になる。
奪われる者ではなく、世界に選択を突きつける者へ。生まれや血筋に価値を決められる立場から抜け出し、自らの意思で立場を掴み取る。
これは復讐ではない。憧れでも、逃避でもない。
過去に縛られたまま終わらせないための、必然だ。
「ふん、アイシアの奴……俺を警戒しているな。
だが構わん。用心深さなど、いずれはほころぶ。俺の頭脳があれば、あの村も遠からず手中に収まるだろう……ふふ」
アイシアは慎重な女だ。人を見る目があり、感情より理を優先する。だからこそ、真正面から踏み込めば拒まれるし、力で押せば即座に牙を剥く。だが――それは裏を返せば、理と利益が示されれば動く、ということでもある。
疑念は盾であり、同時に弱点だ。
守ろうとするものがある者ほど、盤上では読みやすい。
時間をかけ、信頼を積み、選択肢を削り、逃げ道を閉ざす。気づいた時には、彼女自身の判断でこちらを選ばせる。それでいい。奪う必要などない。差し出させればいいのだ。
「セイン様がインティウム大陸を支配する日も、そう遠くはありませんね」
「ふっ……当然だ」
セインは自信に満ちた笑みを浮かべ、何気なく空を仰いだ。
その瞬間――言葉にできない違和感が、背筋を走り抜ける。
――熱い。
否、正確には“熱を帯びた感覚”が、遅れて頬に追いついてきた。
じわりと、皮膚の内側から焼かれるような、不自然な灼熱。
遅れて理解する。
これは高揚でも、興奮でもない。
「……?」
指先で頬に触れた刹那、指が赤く染まった。
血だ。
だが、痛みはない。
切られた覚えも、衝撃を受けた記憶もない。にもかかわらず、頬は確かに裂かれている。まるで――“結果だけが先に存在していた”かのように。
空気が、歪んだ。
「モルド……今、何か見えたか?」
返事はない。
否、返事をする前に、モルドの視線が虚空に釘付けになっていた。
そこには、何もいない。
だが“何かがいた痕跡”だけが、世界に刻まれている。
風が遅れて鳴き、音が遅れて追いつき、現実が一拍遅れて理解に追いつく、これは、敵意ですらない。
警告でも、挑発でもない。
ただ一つ、明確な事実だけが残された。
セインは、初めて理解した。
自分が今、誰かの視界に入ったのだと。
「よぉ、脆弱なる人間共。随分と小綺麗に群れていやがるじゃねぇか。俺様は蒼炎の暴君ザフィロクスだ、名前くらいは覚えてから死ねよ!」
「……蒼炎の、暴君?馬鹿な、来るには早すぎる。情報では一週間は猶予があるはずだ」
誰かの掠れた声が、現実を言葉にした瞬間、セインの思考が凍りついた。
有り得ない――早すぎる。
蒼炎の暴君ザフィロクスは、はるか遠方にいると報が入っていた。
移動速度、侵攻経路、過去の戦例――あらゆる情報を突き合わせ、どれだけ甘く見積もっても到達は一週間後。そのはずだった。
「……馬鹿な」
喉が張り付く。
準備は整っていない。兵も、策も、覚悟すら途中だ。
それでも空には、蒼炎を纏った巨影が悠然と浮かび、まるで結論は既に出ていると言わんばかりに、こちらを見下ろしている。
「どうした?そんな青い顔でよ。これから血を流し合う仲だろうが、せめて笑え。戦場では、その方が似合うぜ。」
嘲るような笑みが、声に滲む。
「セイン様! お逃げ下さい!!」
叫びと同時に、モルドは一歩前へ踏み出し、剣を構えた。
刃は真っ直ぐ天を指しているが、その柄を握る手は、否応なく震えている。恐怖だ。それでも逃げない。主の前に立つと決めた者の、かろうじて保たれた矜持だった。
空気が――焼ける。
まだ触れてもいないはずなのに、肌がひりつき、喉が乾き、肺に吸い込む息すら熱を帯びていた。まるで世界そのものが巨大な炉へと放り込まれたかのようだ。
蒼炎の暴君ザフィクロス。
その名が示す通り、彼の炎は色を超え、概念を超えていた。数百℃などという表現は、あまりに生温い。熱は視覚より先に到達し、感覚より先に意識を侵す。ただ“在る”だけで、周囲を破壊する暴力。
地面の石が微かに音を立てて割れ、木々は火に触れずして水分を失い、焦げた匂いを漂わせる。
熱だけで、この有様だ。
モルドの剣先が小刻みに揺れる。
それでも彼は退かない。逃げろと叫びながら、自分は盾になるつもりなのだと、その背中が語っていた。
セインは、その光景を黙って見つめていた。
逃げろ、それは正しい判断だ。だが同時に、目の前に立つこの現実が、もはや逃走という選択肢すら許さないことも理解していた。
「見せかけの格好良さなど要らん。頂に立つ者が退くな。剣とは覚悟の象徴だ――逃げ道ではない。進むために振るうものだ。来い。責任も恐怖も、そのすべてを俺が背負う」
その言葉と同時に、セインは腰の剣を抜いた。
澄んだ金属音が鳴り、張り詰めた空気を切り裂く。特別な輝きはない。神兵でも呪剣でもない、ただの実戦を潜り抜けてきた鋼の剣だ。だが、握る者の覚悟が、その刃に重みを与えていた。
セインは固有能力を持たない。
生まれながらに与えられた奇跡も、血筋に刻まれた特異性もない。だが彼は、後天的に鍛え上げた複数のスキルを保有している。
『身体能力強化』――筋繊維を極限まで引き締め、瞬間的な爆発力を引き出す。
『動体視力上昇』――刹那の動きを捉え、死の軌道を見極めるための眼。
『風刃』――剣の軌跡に圧縮した風を纏わせ、間合いの外まで斬撃を届かせる技。
そして何より、彼は『気力』を有していた。
この世界には、無数の源が存在する。
大小の差こそあれ、それは生きとし生けるものすべてが内包する“力の原初”だ。
魔法を行使する者が操る『魔力』。
選ばれし者のみが触れることを許される『聖力』。
妖魔や異形が自然と行使する『妖力』。
それらとは異なる、極めて原始的で、それゆえに純粋な力――
肉体そのものを強化し、精神を闘争へと最適化する源、それが『気力』だった。
刃を握るセインの身体から、静かに、しかし確実にそれが滲み出す。
熱とは違う。光でもない。だが、確かに“圧”があった。
蒼炎の暴君ザフィクロスを前にしても、退かぬ理由。
それは力の差を理解した上で、それでもなお立つと決めた意思、剣を構えたセインの背中は、もはや逃げ場を探す者のものではなかった。
「ククク……実にいい。そうだ、それだ人間。勝てぬと知りながら、それでも前に出る――その無謀、その執念、その愚かさ……たまらなく愛おしい。恐怖に震えつつも剣を握り続ける、その指先。その一瞬にこそ、命は最も強く輝く。もっと見せろ。壊れるまで、抗え。俺を――楽しませろ……!」
嘲るようでいて、どこか陶酔した声だった。
ザフィクロスの嗤いと同時に、周囲の空気が歪む。圧縮され、軋み、悲鳴を上げるかのように震え始めた。
彼の右手に、炎が宿る。
それは単なる火ではない。蒼く、深く、底知れぬ温度を秘めた災厄の炎――ザフィクロス固有の力、『蒼炎』。
その瞬間、周囲の大気は一気に灼け、地表の水分が音もなく蒸発した。熱波が視界を歪ませ、呼吸するだけで肺の内側が焼かれる錯覚に陥る。数百℃という数値ですら、生温く感じさせるほどの“質”を持った炎だった。
だが、それだけでは終わらない。
ザフィクロスは、ゆっくりと指を握り込む。その動きに呼応するように、彼の腕を走る血管が脈打ち、黒紅色の血が滲み出した。
吸血鬼の種族能力――『血液操作』。
流れ出た鮮血は落ちることなく宙に留まり、意思を持つかのように蠢く。そして次の瞬間、それは蒼炎へと吸い込まれた。
ジュ、と不快な音を立て、血は燃える。
否、燃えているのではない。蒼炎に“喰われ”、その性質すら書き換えられているのだ。
青と赤。
冷たさすら感じさせる蒼炎と、生命の象徴である鮮血が、互いに溶け合い、混じり合い、禍々しい紫紺の輝きを帯びていく。
炎はさらに圧縮され、密度を増し、質量を持ったかのように右手に凝縮されていった。
ただそこに在るだけで、周囲の地面はひび割れ、岩は溶け、空気は悲鳴を上げる。
ザフィクロスはその光景を、愉悦に満ちた瞳で見下ろしている、破壊を前にした者の恐怖も、抗う者の覚悟も、そのすべてが彼にとっては“娯楽”に過ぎない。
「さぁ――踊れ、人間。
その剣で、どこまで俺に届く?」




