第1話:ルクス村
俺とヴァルセリオンは、しばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。視界いっぱいに広がるその光景は、ただ壮大という一言で片付けてしまうには、あまりにも重みがあった。山々は静かに連なり、空と地の境界を曖昧にしながら、そこに在るだけで圧倒的な存在感を放っている。前世で生きていた頃、このような景色を目にすることはついに叶わなかった。
写真や映像ではなく、肌で感じる広がりと空気、そのすべてが現実としてここにある。
感想を求められても、ひたすらに「凄い」としか言いようがなかった。それ以上の言葉を探そうとしても、語彙が追いつかない。
思考より先に感覚が満たされ、胸の奥に重く、しかし心地よい余韻が残る。
ヴァルセリオンも同じだったのだろう。普段なら落ち着きなく動き回るそいつが、珍しく静かに山を見つめている。しっぽも揺れていない。
ただ、目の奥に光を宿し、景色を飲み込むように眺めていた。
やがて、ぽつりと現実的な一言が落ちる。
「美味いやついればいいですけど」
あまりにもヴァルセリオンらしい台詞に、俺は思わず
肩の力を抜いた。
「お前って奴は」
思わず漏れた言葉には、呆れと苦笑が半分ずつ混じっていた。まぁ、今だけは許してやるか。この景色を前にしてまで説教するのも野暮というものだろう。胸の奥に残る高揚と余韻が、それを許容させていた。
とはいえ、現実的な問題は無視できない。
ここは人の世界だ。少なくとも、その入口に足を踏み入れた場所だ。ここで「食う」なんて真似をすれば、それはもう戦闘でも生存でもなく、ただの事件になる。人を食えば討伐対象、即座に追われる身だ。理屈は単純で、逃げ場はない。
ヴァルセリオンは今は無邪気に景色を眺めているが、あいつの価値基準は腹が満たされるかどうか、それがほぼ全てだ。その危うさを放置するほど、俺も楽観的じゃない。後でちゃんと、いや、かなりきつく言っておかないと駄目だろう。
守るためでも、共に歩くためでもない。ただ、生き延びるためだ。人の社会に踏み込む以上、最低限の線引きは必要になる。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
その瞬間、ヴァルセリオンが崖の縁に立ち、腹の底から声を張り上げた。山肌にぶつかった咆哮は幾重にも反響し、森と谷を震わせながら跳ね返ってくる。正直、やかましい。空気そのものが揺れているようだった。
「ど、どうした急に?」
思わずそう訊ねると、あいつは振り返り、妙に晴れやかな顔で尻尾を揺らした。
「いや、なんか叫びたくなったっす! 兄貴もやればどうでしょうか?」
理由になっているようで、まったくなっていない。なんでも急だな、と呆れかけたが――悪くない、そうも思えた。この景色、この空気、この解放感。胸の奥に溜まっていたものを吐き出すには、ちょうどいい。
「……そうだな」
俺は崖の先へ一歩踏み出し、息を吸い込む。
「うぉぉぉぉぉぉ!」
喉が裂けるほどの声を放つと、山々がそれを受け取り、何倍にも膨らませて返してきた。ヴァルセリオンも負けじと再び叫ぶ。互いに張り合うように、意味も目的もなく、ただ声をぶつけ合う。
それは一分近く続いた。
流石に疲れた。肺の奥がひりつき、喉も少し痛む。叫ぶなんて久しぶりだったが、悪くはない。むしろ、胸の内に溜まっていた澱みたいなものが、少し薄れた気がした。
「で、兄貴どうします?」
ヴァルセリオンが首を傾げて訊いてくる。その声には、さっきまでの無邪気な昂りがまだ残っていた。
「そうだな……とりあえず村に行こうぜ」
そう答えながら、俺は眼下に広がる景色を改めて見渡した。
山々に抱かれるようにして存在する村。川が静かに流れ、畑らしき区画も見える。石と木で組まれた建物は、どれも素朴で、どこか懐かしい。
ようやく文明に触れられる。そう思うだけで、胸の奥が微かにざわついた。
街と呼ぶには小さく、時代も少し前に感じるがそれでも確かに、人の営みがそこにある。火を使い、家を建て、集まって暮らす――それだけで十分だ。
とはいえ、前世でも村というものは存在していた。見慣れないはずなのに、完全な異物には感じない。そのせいか、妙に落ち着いている自分がいた。警戒はしているが、怯えてはいない。
「人を食うなよ」
歩き出しながら、釘を刺すように言うと、ヴァルセリオンは軽く肩をすくめた。
「分かってるっすよ。ここは我慢するっす」
どこまで本気かは怪しいが、今はそれでいい。少なくとも、ここから先は力だけで押し通る世界じゃない。そういう場所に、俺は来たのだから。
下を覗き込むと、そこは断崖絶壁だった。足を滑らせれば、骨の一つや二つ(ないけど)で済む高さじゃない。このまま転げ落ちる、それは論外だ。
だが、飛び降りるのなら話は別だ。着地の角度、衝撃の逃がし方、途中で減速できる場所……頭の中で瞬時に計算が走る。
死にはしないだろう。……多分。
そもそも、ここ以外に進める道が見当たらない。なら、選択肢は一つだ。
俺は小さく息を吐き、覚悟を決めた。筋肉に力を通し、体勢を整え、なるべく被害が少なくなる軌道を想定する。岩肌の出っ張り、木の枝、斜面――全部、衝撃を分散させるための“足場”だ。
……と、そこまで考えたところで。
「あ」
最悪のタイミングで、足先が石に引っかかった。
体勢が崩れる。重心が前に流れる。修正は、間に合わない。
次の瞬間、世界が上下反転した。
「――あ、うっ、いっ、いてっ!」
視界が激しく揺れ、背中に鈍い衝撃が走る。岩にぶつかり、転がり、枝に引っかかり、また落ちる。
「兄貴、すげぇなぁ! じゃあ俺も同じことします!」
そう言い放った次の瞬間だった。
止める暇も、忠告する余裕もない。ヴァルセリオンは迷いなく身を投げ、俺とほぼ同じ軌道をなぞるように崖を転げ落ちていった。枝を折り、岩にぶつかり、勢い任せに滑落していく姿は、見ているこちらの胃が痛くなるほど豪快だ。
――ドサッ。
少し遅れて、鈍い音。
「いてて」
軽い。あまりにも軽い。
まるで小石につまずいた程度の口調で、ヴァルセリオンは起き上がった。
「……はぁ〜……」
思わず深いため息が漏れる。
もう完全にトラウマだ。さっきまでの落下の感覚が、背骨の奥にまだ残っている。全身がじんわりと痛み、服は土と葉でぐちゃぐちゃだ。それでも、骨が折れていないのは奇跡に近い。
俺はゆっくりと身体を起こし、痛む箇所を確かめながら立ち上がる。問題はない。多少の打撲と擦り傷だけだ。……精神的なダメージの方がでかいが。
一方で、ヴァルセリオンはというと、やけに楽しそうだった。
尻尾をぶんぶん振りながら、まるで遊具から滑り降りてきた子供のような顔をしている。
「いやぁ、楽しかったっすね! もう一回行きます?」
「行くかボケ」
即答だった。
こいつ、本当に同じ生き物なのかと疑いたくなる。才能の塊というか、感覚の化け物というか……いや、単に危機感が欠如しているだけかもしれない。
俺は額を押さえながら、改めて周囲を見渡した。
どうあれ、こうして俺たちは無事――いや、無事と言っていいのかは怪しいが――崖下へと辿り着いたのだ。
もう二度と、同じ方法では降りたくない。
心の底から、そう思った。
一本道の川が流れている、綺麗だな、透明で床まで見えている、そんなに深くは無さそうだな、精々30cm程度だ、小魚も見える、案の定クオ等していたヴァルセリオンを軽く叩いた。
「いいか、ヴァルセリオン。これからは人も居るかもしれない、いいか?俺の許可無しに食べるな」
「へへ、分かってますよ。兄貴!あ〜でも、動物はいいっすよね?」「それはまぁ――」
そこまで言いかけた、その瞬間だった。
風を裂く、鋭い音。
直感が先に警鐘を鳴らす。
「伏せろ!」
言葉と同時に、俺はヴァルセリオンの襟首を掴み、強引に引き倒した。次の瞬間、俺たちが立っていた場所をかすめるように、一本の矢が突き刺さる。乾いた音。地面に深々と埋まり、矢羽が小さく震えていた。
「……弓矢?」
一瞬、理解が遅れる。
だが、遅れて複数の気配が輪郭を持って立ち上がる。森の縁、岩陰、木々の影――明らかに訓練された配置だ。数は……五、いや六。いや、まだいる。村の人間か、それとも狩人か。
「兄貴、今の……敵っすか?」
ヴァルセリオンは伏せたまま、楽しそうでもなく、だが緊張も薄い声で聞いてくる。
こいつはまだ“状況”を正しく掴んでいない。
「敵かどうかは知らんが、少なくとも歓迎はされてないな」
次の矢が飛ぶ。今度は二本。一本は俺の肩口を狙い、もう一本はヴァルセリオンの頭を正確に射抜こうとしていた。狙いがいい。
奥から声が飛ぶ。
「止まれ! それ以上動くな!」
「武器を捨てろ! ここは人の領域だ!」
複数人の声。若いが、覚悟はある。
殺気は薄いが、引き金は軽そうだ。
俺は両手をゆっくりと上げる。
あくまで人間らしい動作を意識して。
「待て。敵意はない。俺たちは──」
「兄貴、俺、今、食べちゃダメな感じっすよね?」
小声でヴァルセリオンが聞いてくる。
「当たり前だ。絶対に動くな」
「了解っす!」
「敵意がない、だと?
笑わせるな。その姿、明らかに人のものではない。
異形か、異邦か、それとも悪魔の類か……
いずれにせよ、正体も分からぬ存在を信じろと言うのは無理な話だ。
名を明かせ。目的を示せ。
それが出来ぬなら、敵と見なすまでだ。」
言われて、ようやく気付いた。
……そうだ。
今の俺の姿、どう見ても“人間”じゃない。
全身は異様なまでに白く、月光を弾くような皮膚。
身長は百八十を優に超え、均整は取れているが、明らかに人の枠を外れている。
眼は赤く、感情の揺らぎに合わせて淡く光り、口を開けば鋭い歯列が覗く。
額からは角が伸び、鼻梁は人のそれとは異なり、獣とも違う輪郭を描いている。
――どう好意的に見積もっても、化け物だ。
そして横にいるヴァルセリオンも、似たり寄ったり。
少し雰囲気が柔らかいだけで、分類すれば同じ“異形”。
弓を向ける人間たちの反応は、むしろ当然だった。
俺は内心で小さく息を吐く。
樹海に長く居すぎたせいか、人の視点を完全に失っていたらしい。
向こうからすれば、森の奥から突然現れた、正体不明の怪物が二体。
敵意がないなどと言われても、信じろという方が無理な話だ。
弓を引く男の声には、恐怖と警戒、そして覚悟が混じっている。
逃げ腰ではない。守るべきものが背後にある眼だ。
――下手に動けば、即、戦闘。
俺はゆっくりと、深呼吸をひとつする。
牙を見せないよう口を閉じ、眼光も意識して落とす。
威圧を抑える。それだけで、この場の緊張が僅かに緩む。
「……悪かった」
低く、落ち着いた声でそう言った。
「確かに、この姿で『信じろ』は無理だな。俺の落ち度だ」
周囲がざわつく。
怪物が、謝った。その事実に。
俺は一歩、弓の射程を越えない距離で踏み出し、胸に手を当てる。
人の礼儀を、思い出すように。
「俺の名はアルセリオン。あっちのはヴァルセリオン」
「俺たちは敵じゃない。ただ……人の世界に来ただけだ」
嘘は言っていない。
すべてを語ってもいないが、偽りでもない。
「目的は一つ。人の社会を見ること、知ること、そして――生きることだ」
その言葉を口にした瞬間、
自分でも少しだけ、可笑しくなった。
化け物が、人として生きたいと言っている。
皮肉で、滑稽で、それでも、本音だった。
弓は、まだ下がらない、だが、引き金も引かれていない。
今はまだ、境界線の上だ。
この一言で、世界が敵になるか、受け入れられるか。
「ふん、戯言を。
悪魔というのは決まってそうだ――笑顔で距離を詰め、油断した瞬間に懐へ入り、背中から刺す。
信用? そんなものは戦場では命取りだ。
俺は剣を下ろさん。疑いが晴れるその時まではな」
そう言い切る男の声に、揺らぎは一切なかった。
当然だ。むしろ、この反応で安心すらした。状況を理解し、警戒を解かない。それが出来る相手だというだけで、この村が無事に存続してきた理由が透けて見える。無闇に信じ、無闇に油断する愚か者ではない。
――だが、問題は隣だ。
ヴァルセリオンの気配が、じわじわと変質していくのが分かる。
怒りというより、もっと単純で、もっと危険なもの。主を侮辱された獣が、牙を研ぐ前の静かな殺意だ。
「兄貴……もう我慢ならねぇ」
低く、湿った声。
「兄貴を侮辱するなんざ、万死に値する所業だ。俺が代わりに、その無礼、叩き食ってやる!」
――斬る、じゃない。
食う、だ。
思わず内心で舌打ちする。冗談じゃない。
このまま行けば、戦闘は避けられない。そして一度血が流れれば、もう後戻りは出来ない。村は敵意を確信し、俺たちは「正体不明の怪物」として討伐対象になる。嫌な未来なんて、考えるまでもなく見えている。
俺は一歩前に出て、ヴァルセリオンを背中で制した。
剣でも力でもない、ただ立つだけの行為。だが、それだけで奴の殺意が一瞬、揺らいだ。
――頼むから、今は抑えてくれ。
この場は、力を示す場所じゃない。
生き方を選ぶ分岐点だ。
俺は一歩、前へ出た。
弓矢の射程に、剣の間合いに、あえて踏み込む。逃げ腰ではないという意思を、言葉より先に示すために。
「待て。ここで刃を交えるのは、愚か者の振る舞いだ」
静かに、しかしはっきりと告げる。
「貴様らも分かっているはずだ。この場で戦うことが、いかに不利益かを。
戦うべき時を見極め、無益な衝突を避けてきたからこそ――貴様らはその小さな集落で、生き延びてこられたのだろう」
視線を逸らさない。
威圧もしない。ただ事実を並べる。
「だからこそ言う。その賢明さを、今ここで捨てないでほしい。俺は、お前たちに戦いを仕掛けに来たわけじゃない。
求めているのは殺し合いではなく、選択だ」
言い切った瞬間、森の空気が張りつめた。
敵意は消えていない。だが、即座に引き金を引くほど愚かでもない。彼らの沈黙が、それを物語っている。
そうだ、彼らだって分かっているはずだ。俺たちとここで事を構える意味がないことを。
自慢じゃないが、俺には力がある。
ヴァルセリオンもいる。もし戦闘になれば、どちらが生き残るかなど、考えるまでもない。村が無事で済む保証もない。
「ほう……話術まで磨いていると見るか。だが安心しろ、我々は甘くない。
貴様の言葉、その音色の奥に潜む“脅し”の色――確かに見えている。
巧みに飾ろうと、刃を隠そうと、欺瞞は欺瞞だ。
我らはその程度の誘いに、膝を折る兵ではない」
……そうか。
やはり、ここまでか。
内心で、短く息を吐く。
これ以上、言葉を重ねる意味はない。何をどう並べ替えようが、彼らの答えは変わらないだろう。疑念は確信に変わり、警戒は敵意へと昇華している。
――交渉は、終わった。
仕方ねぇよな。
俺は譲歩した。選択肢を差し出した。それを拒んだのは、向こうだ。
別に俺は、聖人でも英雄でもない。
善人ぶる気も、理解者を演じる気もない。やられたらやり返すし、殴られたら殴り返す。それだけだ。
単純で、幼稚で、救いようがない?
上等だ。
餓鬼?
――あぁ、そうだよ。
それが俺だ。
赤い眼光が、わずかに細まる。
身体の奥で、源が静かに蠢き始めるのを感じる。怒りではない。殺意でもない。ただ、覚悟が固まっただけだ。
ヴァルセリオンが、背後で小さく笑った。
楽しそうに、嬉しそうに。
「……兄貴、もういいっすよね?」
その問いに、俺は振り返らずに答えた。
「あぁ。もう十分だ」
次の瞬間、森の空気が変わった。
それは戦意が立ち上がる前触れ。理屈も言葉も終わった、純粋な力の時間。
「ふん……やはりな。そう来るか。
結局は怪物の戯言に過ぎぬ。
語るは虚飾、行き着く先は暴力――それこそが貴様らの本質、真意、そして醜い姿だ」
その言葉を最後に、気配が霧のように散った。
……もう、始まっている。
戦闘はこれからじゃない。今、この瞬間”からだ。
姿は見えない、だが分かる。岩陰、倒木の裏、崖の窪み、視線の死角ありとあらゆる場所に、奴らは潜んでいる。
呼吸を殺し、弓を引き絞り、剣の柄を握りしめ、獲物が動く一瞬を待っている。
獣狩りの陣形だ。
村を守るために磨き上げた、集団での殺し方。
俺はゆっくりと、肩の力を抜く、視界の端が冴え、音が際立つ。石が擦れる微かな音、草を踏みしめる重さ、殺意を帯びた視線の圧。
「兄貴……来ますぜ」
ヴァルセリオンの声は低く、楽しげだった、もう隠そうともしていない。牙が覗き、赤い眼が闇に滲む。
「あぁ、分かってる」
俺は一歩、前に出た、わざと、無防備に。囮になる位置へ、怪物で結構だ。
彼らが信じる物語は、最初から決まっていた。
異形は悪、理解は不要、対話は時間稼ぎ。
なら、こちらもそれに応えるだけだ。
命のやり取りが、現実へと転じようとした、その刹那だった。
「――おやめなさい!!」
張り裂けるようでいて、凛と芯の通った女性の声が、戦場になりかけた空間を貫いた。
怒号でもなく、懇願でもない。だが不思議と、刃を振るうよりも強い力を帯びていた。
空気が、止まる。
俺もヴァルセリオンも、反射的にその声の主へと視線を向ける。
潜んでいた気配たちもまた、一斉に息を詰めたのが分かった。
そこに立っていたのは、一人の女性だった。
白髪、いや、雪を思わせるほど澄んだ色の髪が、肩口まで静かに流れている。
その瞳は、白い布で丁寧に覆われていた。視力を失っているのか、それとも、別の理由かは分からない。
だが、見えていないはずの彼女は、まるでこの場のすべてを見通しているかのように、まっすぐこちらを向いていた。




