第7話:概念歪曲者
イオ・ラズは静かに佇んでいた。逃げもせず、構えも取らず、「撃て」と言わんばかりの立ち姿。その余裕が癪に障る。
舐めている、そう判断するには十分だった。ならば遠慮はしない。俺はフロウィンから奪い取った『氷結操作』を起動させる。
思考と同時に情報が展開され、足元から冷気が奔流のように走った。地面が音を立てて凍りつき、霜が走り、氷脈が蜘蛛の巣状に広がっていく。逃げ場を塞ぐように、囲うように、連なる氷柱が立ち上がり、即席の氷牢を形成する。
空気は一気に重くなり、呼吸するだけで肺が痛むほどの低温が場を支配した。
だが、それでもイオ・ラズは動かない。凍結の中心に立ちながら、氷を“障害”として認識していないかのように、ただこちらを見ている。
「軽度再定義」
低く、淡々とした声が落ちた瞬間だった。
俺が展開したはずの氷が、音もなく歪む。軋みも砕けもせず、ただ“概念”だけが捻じ曲げられる。硬度、温度、結晶構造――それらが意味を失い、氷はぐにゃりと項垂れた。まるで粘土だ。冷気を保ったまま、形だけが柔らかく崩れ落ちる。
「軽度再定義」
イオ・ラズはもう一度、同じ言葉を口にした。今度は足元だ。指先が地面に触れた、その一点から“性質”が沈み込む。土は土であることを忘れ、踏み固められた地表は沼へと変質する。固体だったはずの大地が、抵抗を捨て、粘りを帯びて蠢いた。
『地面の性質が変わりました。対象の能力と推測されます』
情報の秘書の機械的な声が、状況を淡々と整理する。
なるほど、理解した。破壊でも生成でもない。あいつは物体を壊しているわけじゃない。
“定義”を上書きしている。硬いものを硬いまま柔らかくし、固体を固体のまま沈ませる。属性でも現象でもない、前提条件への介入だ。を変える能力か?
「どうした? 怖気付いたか。今なら逃げてもいい。私は弱者を追う性分ではない」
余裕を孕んだ声が、樹海の湿った空気に溶ける。
「ふん、舐めてくれるな!!」
叫び返しながらも、心は冷えている。慌てる必要はない。焦りは判断を鈍らせるだけだ。
必要なのは、ただ一つ。――確実に、殺すこと。
俺は地を蹴った。視界が線になる。距離が潰れる。
白い獣の身体が、破壊のためだけに最適化されていく感覚。
「破壊圧縮」
拳に収束した圧壊の概念が唸りを上げる。触れた瞬間、対象を“潰す”ための力。防御も硬度も関係ない、純粋な破壊の圧。
――当たる。
そう確信した刹那、違和感が走った。
拳は、届かない。
いや、届いているのに、当たっていない。
「軽度再定義」
イオ・ラズの腕が、不自然に歪む。筋肉が強化されたのではない。骨が硬化したのでもない。
“腕である”という前提のまま、耐衝撃という性質だけが書き換えられている。受け止めるための器に、定義し直された腕。
衝突の衝撃は霧散し、圧縮された破壊は、行き場を失って空気を震わせただけで終わった。
「解析・鑑定。……貴様のスキルは見抜いた」
淡々と告げられる声。感情の揺れは一切ない。
俺を見ているのではなく、“俺という現象”を読んでいる目だ。
「めんどくせぇな、おい」
「そうか? 私は楽しいぞ。対等に戦える相手が現れてくれてな」
イオ・ラズは、心底愉快そうに口角を歪めた。
「軽度再定義!!」
刹那、距離が消える。
気づいた時には、奴の指先が俺の腕に触れていた。
――嫌な予感が、脊髄を電流のように駆け上がる。
考えるより先に、身体が動いた。
俺は自分の腕を斬り裂いた。躊躇は一切ない。判断は一瞬。切断された腕が宙を舞い、白い血が散る。
「ほう?」
イオ・ラズの声に、わずかな感嘆が混じった。
「勘がいいな。だが――そこは危ないぞ」
俺は即座に後退した。距離を取る。
だが、足が、動かない。
ぐにり、と嫌な感触が足裏から這い上がる。
地面が、俺を受け止めていない。いや、受け止めすぎている、突き刺さった。
土が、沼のように絡みつき、同時に鋼のように締め上げる。
「俺の効果は任意で解除可能だ」
その一言に、イオ・ラズは微かに目を細めた。
理解が早い相手は嫌いじゃない――そんな感情が、言葉の端に滲んでいる。
難敵だ。疑いようもない。
だが――
「油断大敵だぜ?」
俺は、そう呟いた。
すでに『分身体』は発動済みだった。
本体が拘束され、意識がこちらに集中しているその隙を縫い、影のように、音も気配も殺して回り込ませていた。
樹海の暗がりに溶けるように、背後へ。
――いける。
俺は分身体へ、短く指示を飛ばす。
だが、その瞬間。
「無論、気付いている」
イオ・ラズは、振り返らない。
それなのに、背後を“見ている”。
「感知系のスキルは保有しているのだ」
そして、淡々と告げた。
「軽度再定義!!」
指先が、分身体に触れた。
次の瞬間、分身体は“破壊”されなかった。爆ぜもしない。崩れもしない。
消えた、存在していたという事実だけが、綺麗に削除されたかのように、そこに居た理由ごと、書き換えられた。
「……なるほどな」
思わず、感嘆が漏れる。
「おぉ、やるなぁ」
「奇策は嫌いではない。だが、浅い」
その声には、嘲りも怒りもない、あるのは、純粋な評価。
「終わりか?」
「まだ、始まったばかりだろ?」
足が、地面から抜けない、いや、違う。拘束が解けた。こいつ、わざと解除したな。
「始まった? 既に終わったように見えるが」
「待ってろ。今、右足を取り除くから」
俺は息を吐き、力任せに右足を引き抜いた。
地面が軋み、粘性を失って剥がれ落ちる。重力が戻る感覚。そして顔を上げた、その瞬間。
――いない。
背筋に冷たいものが走る。
「敵は、待ってはくれぬぞ」
声は、背後でも側面でもない。
“すぐそこ”だ。
「軽度再定義!!」
視界の端で、イオ・ラズが自分の身体に触れる。
肉体が歪み、骨格が軋み、皮膚が硬質化する。
次の瞬間、腕だったものは刃へと変形していた。関節も筋肉も、斬るためだけに最適化された形。
「私の軽度再定義は、人体には適応不可能だ」
淡々とした声。
「――そう、私“以外”はな」
ザンッ。
音が遅れて届いた。
俺の身体が、斜めに裂ける。衝撃が内側から爆ぜる。
「ッチ!」
即座に距離を取ろうとしたが、遅い。
「まだ、終わってはいない」
イオ・ラズは、すでに懐にいる。
速い、というより、無駄がない。最短距離、最短動作、最適解。
身体そのものを再定義し、“戦うための形”に固定している。
次の瞬間。
「局所破断!!」
腹部に、叩きつけられるような衝撃。
斬撃でも打撃でもない。内部だけを壊す一撃。
情報の結合点を、狙って破断してきた。
視界が跳ねる。
俺の身体は吹き飛び、太い木々をなぎ倒しながら後方へ叩き出された。幹が折れ、枝が砕け、地面に深い溝が刻まれる。止まらない。止められない。ようやく地面に転がり、勢いが死んだ頃には、腹の感覚が消えていた。
絶望的だ、普通なら、ここで逃げる。恐怖に喉を締め上げられ、理性をかなぐり捨て、無様に背を向けて走る。それが生き物として正しい反応だ。
なのに――
身体は地に伏し、内臓は悲鳴を上げ、明らかに追い詰められているというのに、口元が勝手に緩んでいる。笑っている、おかしい。どう考えても異常だ。
恐怖のはずの感情が、別の何かにすり替わっている。
逃げたいはずなのに、視線は逸らせない。終わりを悟るどころか、先を見たがっている。
――なんでだ?
倒れているのに、殺されかけているのに。
高揚感が、抑えきれない。
世界そのものに試されているみたいじゃないか、生きるか死ぬか、その境界線で、ようやく自分が“本物”になれた気がする。
狂ったのかもしれない。
壊れたのかもしれない。
もう、正常と異常の区別なんてどうでもいい。
分からない。分からないが──
少なくとも今、この瞬間だけは、この昂ぶり、この震え、この笑みを否定する気はなかった。
身を委ねよう、恐怖ではなく、昂揚に。
この感情こそが、今の俺だ。
「いい……いいぞ……実にいい……ッ!
お前も俺を育てる糧だ……成長を、進化を、渇望を与えてくれる……!
まだだ、まだ足りん……!
さぁ、来い。もっとだ。
俺とお前、どちらが壊れるまでなぁ!!」
抑えきれない笑みが、喉の奥から溢れ出る。
理性が警鐘を鳴らしているのは分かる。それでも、身体は正直だった。この瞬間、この相手、この極限――すべてが俺を先へと押し上げる。
「ッッ……なんという姿!」
イオ・ラズは一瞬だけ目を見開き、すぐに愉悦を帯びた声を漏らした。
「これからが本番という訳か。いいぞ、怪物よ……遊んでやろう」
次の刹那。
俺とイオの間に張り詰めていた緊張が、限界を越えて破裂した。
ドン、と地面が爆ぜる。
同時だった。
互いに踏み込み、互いに距離を殺す。
イオは自身の肉体を即座に最適化し、関節角度、筋出力、重心移動、そのすべてを“殴り合い”という一点に収束させてくる。
だが――忘れるな。
俺の力は、情報だ。
視線、踏み込みの癖、再定義が入る前の一瞬の間。
完全ではない。だが、もう“読めない”相手じゃない。
「――来た」
俺は拳に力を集約する。
『生命吸収』を併用。触れた瞬間、殴るだけじゃない。奪う。
拳と拳が、真正面から激突した。
衝撃波が樹海を揺らす。
空気が悲鳴を上げ、周囲の木々が根元から傾く。
「……ッ!」
イオの腕が軋む。
再定義で硬化させたはずの肉体から、わずかに“生命”が抜け落ちる感覚。
奪われた。それを、彼自身が理解した。
「ほう……!」
次の瞬間、俺の頬に刃のような拳が突き刺さる。
骨が鳴り、視界が歪む。だが倒れない。
殴られ、殴り返す。
斬られ、噛みつく。
技巧も、能力も、計算も――この距離では意味を失っていく。
「ハッ……!」
俺の拳が、再びイオの腹を捉える。
生命を吸う。ほんの一瞬、だが確かに“奪う”。
イオ・ラズの口角が、さらに吊り上がった。
「いい……実にいいぞ。互いに削り合う、純粋な殺し合いだ」
血が滴る。
再生と再定義が同時に走る。
だが、確実に消耗は蓄積している。
俺は笑う、イオも笑う、勝敗なんて、まだ見えない、だが一つだけ確かなことがある、この戦いは、どちらかが“壊れる”まで終わらない。
「だがな――残念なお知らせだ。
遊びはここまでだ……事態が、想像以上に早く動き出した。
長引かせる余裕はない。
この一件、速やかに終わらせる必要がある――そういう段階に入った」
イオ・ラズは、静かに最後の構えを取った。
空気が変わる。
これまでの駆け引きも、試し合いも、すべてが切り捨てられた感覚。
次の一撃――いや、“次の一度”ですべてが決まる。
俺も拳を握る。
源を、限界まで圧縮する。
それだけじゃない。
これまで喰らい、観測し、理解してきた情報のすべてを、拳に叩き込む。
経験、恐怖、昂揚、進化への渇望――ありったけだ。
互いに視線を逸らさない。
咆哮が、ほぼ同時に喉を突き破った。
――踏み込む。
そう思った、瞬間だった。
光が、差した。
光の届かないはずの樹海に、あり得ないほど真っ直ぐな光条。
高く聳える巨木の葉が、外力によって強引にかき分けられる。
ざわめく樹海。影が揺れる。
そして――太陽と重なる位置から、ひとつの影が落ちてくる。
「──ッ?!
何故だ、私の源感知が……反応しなかった?!」
イオ・ラズが、初めて明確に動揺を露わにした。
次の瞬間、その影は“落ちてきた”のではなく、“飛び込んできた”のだと理解する。
――ヴァルセリオン。
空中から、信じられない高度と速度で突入し、
イオ・ラズの頭部に、躊躇も、宣告もなく噛みついた。
音はなかった。
あるのは、捕食という結果だけ。
消耗しきっていたイオ・ラズは、反応する暇すらなかった。
再定義も、最適化も、概念操作も――間に合わない。
頭部から上を、丸ごと喰われる。
あまりにも、あっけない最期。
……いや。
俺は、わずかに目を細める。
イオが弱かったわけじゃない。
ただ、俺との戦いで削られ、削られ、限界だっただけだ。
ヴァルセリオンは、地面に着地する。
血を滴らせながら、ゆっくりと顔を上げる。
「えへへ、兄貴見つけましたよ」




