第3話:沼の主
謎の霧の生物を退けたあと、俺は特に目的もなく歩いていた。
いや、適当と言うには、この樹海はあまりにも広すぎる。
進めど進めど、景色はほとんど変わらない。
絡み合う巨木、湿った地面、光を拒む葉の天蓋。方向感覚はとうに失われ、同じ場所を回っているのか、それとも確実に前進しているのかさえ分からなくなってくる。
……今は、朝か?
そう思って空を仰ぐが、答えはすぐに出た。
違うな。
夜だ。
月光はかろうじて差し込んでいるが、それも断片的で、樹海の奥では闇の方が支配的だ。時間の感覚が狂わされる。昼夜の区別すら曖昧になり、世界が止まっているような錯覚に陥る。
それでも、不思議と不安はなかった。
静かすぎる森の中で、俺の足音と呼吸だけが確かな現実として存在している。
樹海は広大で、迷わせ、飲み込もうとする、だが同時にどこか、俺を試しているようにも感じられた。
この闇の中を、どこまで進めるのか。
その答えを探すように、俺は黙々と歩き続けていた。
ちなみに今の俺は、擬態を解いている――正確に言えば、人の姿ではなく魔狼の姿だ。
理由は至って明白。
通常の俺のままだと、どうも威圧感が強すぎるらしい。
気配を放った瞬間、周囲の魔物が察して逃げる。下手をすれば、戦う以前に“近づいてすら来ない”。
それでは面白くない。
だから、あえて魔狼に擬態している。
樹海ではありふれた存在。そこそこ強く、だが最強ではない“ちょうどいい獲物”に見える姿だ。
四足で地を踏みしめ、月光の下を静かに進む。
この姿なら、警戒はされても忌避はされない。むしろ、油断した捕食者の方から寄ってくる。
要するに、俺は今、樹海を歩く誘餌だ。
この迷宮の闇が、どんな化け物を差し向けてくるのか。
歩いていると、視界の先に不自然な黒ずみが広がっているのが見えた。
水面は澱み、空気は重く、腐臭と湿気が肺の奥にまとわりつく。
――沼地だ。
好奇心に勝てなかった。
俺は警戒を保ったまま、一歩、また一歩と足を踏み入れる。
その瞬間だった。
びゅるっと、湿った音が空気を裂く。
伸びた。
いや、射出されたと言うべきか。
泥と粘液に塗れた長大な“舌”が、獲物を逃がさぬ意志そのもののように俺の足元へ絡みつき、容赦なく締め上げる。
「ゲロ!!」
沼の奥から、耳障りな鳴き声が響いた。
次の瞬間、巨躯が水面を割って姿を現す。
それはカエル、だが、常識の枠に収まる大きさではない。
家屋ほどの胴体、苔むした皮膚、脈打つ毒々しい疣。
濁った黄金色の瞳が、俺を“餌”として捉えていた。
カエルはそのまま、舌を大きく持ち上げる。
俺を丸ごと、喉奥へ叩き込むつもりなのだろう。
なるほど。この樹海、やはり油断ならない。
俺は牙を剥き、喉の奥で源を収束させた。次に動くのは、どちらが先か。
沼地の空気が、張り詰める。
俺はカエルと激戦を繰り広げる。
沼地という地形そのものが、奴の牙であり領域だ。
カエルは巨体に似合わぬ俊敏さで水面を叩き、同時にその長大な舌を鞭のように振るった。
粘液に覆われたそれは、ただの捕食器官ではない。触れれば拘束、絡めば締殺――完全に“武器”だ。
舌が唸りを上げ、空間を薙ぐ。
俺は地面を蹴り、跳躍。
舌の先端がすれ違い、背後の樹木を絡め取ってへし折った。
……威力も十分、だな。
牽制のつもりか、カエルは舌を何本にも見せるように高速で打ち出してくる。
フェイント、死角、そして本命。
単純な獣ではない。明確な“狩りの知性”がそこにあった。
「なるほど……」
俺は空中で体勢を捻り、舌の一本を踏み台にして距離を詰める。
だが、踏み込んだ瞬間、舌が意思を持ったかのように収縮し、足を絡め取ろうとする。
――遅い。
魔狼の脚力で強引に引きちぎり、着地と同時に地面を抉る。泥水が舞い上がり、視界が遮られる。
その隙を突き、カエルが跳んだ。
上だ。巨体が空を覆い、影が落ちる。
圧殺する気か。
だが、俺は避ける。
紙一重、舌が頬を掠め、空を切った。
その瞬間だった。
「――『深界冷絶』」
喉奥から放たれたのは、海の最深部に沈む“死の冷気”。
熱も、動きも、意思すらも凍りつかせる絶対零度に近い冷絶が、波のように沼地へと解き放たれる。
じゅ、と音を立てて沼の水面が悲鳴を上げた。
泥は瞬時に氷へと変わり、腐臭を放つ水面は白く硬化していく。
逃げ場はない。
沼地そのものが牢獄となり、氷の棘となって主を裏切った。
氷カエルの大ボスは、跳躍の途中で完全に静止した。
巨体は氷像と化し、開いた口も、伸ばしかけた舌も、恐怖を刻んだ表情のまま封じ込められる。
――終わりだ。
俺は歩み寄る。
氷を踏み砕く音が、静寂の樹海に鈍く響いた。
そして、迷いはない。
「いただきます」
牙を立て、氷ごと喰らう。
肉も、骨も、舌も、魔力も、存在そのものを噛み砕き、嚥下する。
冷たい。
だが、それがいい。
力が、情報が、俺の中へ雪崩れ込む。
沼地の支配者だった者は、今や俺の一部だ意のままに。
氷が砕け、静かな沼だけが残った。
主を失った領域は、もう俺を拒まない。
「……悪くない」
氷の破片が砕け散り、沼地に再び静寂が訪れる。
主を失った領域は、もはや牙を剥くこともなく、ただ冷たく沈黙していた。
そのとき、脳裏に確かな感覚が流れ込む。
粘つく舌、痺れる感触、獲物の動きを奪う“毒”。
理解した瞬間、それは力へと変換される。
スキル『麻痺』を獲得しました。
筋肉の伝達を狂わせ、反応を遅らせ、動きを封じる性質。
致死ではない。だが、戦場ではそれが最も残酷だ。
「拘束、凍結、そして麻痺……」
選択肢が増えたな。
俺は手を握り、力の流れを確かめる。
指先に、微かな痺れの残滓が走った。
樹海は深く、敵はまだ多い。
だが、この森において、獲物は確実に増えていく。




