第2話:樹海の恐怖
夜になる。辺りは一気に暗くなる。
完全な闇というわけじゃない。目はまだ利く。木々の輪郭も、足元の起伏も、なんとか追える。だが、それが逆に厄介だった。
聞こえる。
変な声が、いくつも。
獣の鳴き声にしては高すぎる。
人の声にしては歪みすぎている。
笑っているようにも、泣いているようにも聞こえ、方向も距離も定まらない。耳元で囁かれたかと思えば、次の瞬間には樹海の奥深くへ引きずられていく。
……やっぱり、グレイスに人里まで案内してもらうべきだったか?
そんな考えが、ふっと頭をよぎる、あいつなら、この森の癖も、夜の危険も知り尽くしている。無駄な遠回りも、致命的な判断ミスも避けられただろう。
だが、すぐに首を振る。
いやいや、待て待て、今は戻る方が厄介だ。
帰路は長い、それに、五鬼達との戦闘で、こっちはかなり消耗している。腕は重く、呼吸も浅い。集中しようとすると、身体の奥から鈍い痛みが主張してくる。今この状態で引き返せば、途中で完全に動けなくなる可能性も高い。
今の俺に頼れるのは、月夜の淡い光だけだ。
それを辿るように、慎重に森を進んでいると、ふいに、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
霧……?
そう思った瞬間、背筋に走る違和感。空気そのものが、嫌な気配を孕んでいる。
反射的に、俺は身を翻した。
次の瞬間、目の前に“それ”が顕現する。
青白く、薄暗いフード。地面には触れておらず、確かに宙に浮いているのが分かる。布の奥には輪郭すら曖昧な“何か”が揺らめいていた。
……幽霊型の魔物か?
霧と一体化するように佇むその姿は、樹海の闇と異様に馴染んでいて、まるで最初からそこに存在していたかのようだった。
なるほどな、この樹海、やっぱり浅瀬なんかじゃない。
その瞬間、奴の手先から氷が生じた。
反射的に身を躱し、同時に『源砲|』を解き放つ、口から放たれた光線は一直線に走り、霧の魔物へと衝突、した、はずだった。
だが、手応えはない、光は、そのまま霧をすり抜けた。
……厄介な性質だな、おい、魔物は腕を伸ばし、氷で形作られた結界を展開する。次の瞬間、冷気が一気に収束し、氷が俺の身体を包み込んだ。
ひんやりとした感覚が、内部へ流れ込んでくる。
まずい、このままじゃ凍結する。
やべぇ、助けてくれ――
『情報同化を使用します』
久しぶりに響いた、情報の秘書|の声。
そうだ、この能力は情報との同化。発動には時間がかかるが、決まれば状況をひっくり返せる。
欠点もある。擬態中では使えない。
俺は即座に擬態を解除した。
氷の結界は、なおも俺を閉じ込めている。
だが、忘れるな、俺は物質で構成された生物じゃない。情報で成り立つ存在、いわば情報生命体だ。
ならば話は単純だ。
氷を「物質」としてではなく、「情報」として取り込み、同化する。そうすれば、氷への耐性は獲得できる。
鏡斬|のおかげで、俺は変わった。
以前の俺は、スキルをただ“使うだけだった。理解できないもの、使い方が分からないものには手を出さなかった。
だが今は違う。
スキルを理解し、構造を読み、使い道を考える。そうやって思考を重ねることで、俺はスキルを、真に自分のものとして扱えるようになってきている。
『氷に対する情報を獲得しました。無効化に成功』
ふふ……やったな。
これで氷は、もう俺に通じない。
冷気はただの風となり、凍結は意味を失う。
さっきまで俺を閉じ込めていた氷の結界も、もはや“理解済みの情報”に過ぎない。
なるほど、悪くない。
相手の得意分野を、その場で潰す。これが情報同化|の真骨頂ってわけだ。
さて、次はどう出る?
氷を失った幽霊型魔物が、まだ俺に触れられると思っているなら……その勘違い、今から正してやろう。
俺は氷の檻を力任せにぶち破った。
無効化された氷は、もはや障害にすらならない。砕け散る結界を前に、奴は明らかに動揺していた。
さて――相手の性質は把握した。
物理は通らない。なら、取るべき手は一つだ。
俺は即座に戦術を切り替える。
『電撃放出』を発動。
奔流のような電撃が砲撃となって走り、幽霊型の魔物へと襲いかかる。
だが、奴はとっさに氷の結界を再展開し、その背後へと身を隠した。
……なるほどな、防げはするが、避ける必要がある時点で答えは出ている。やはり、属性攻撃は有効。
しかも、さっきまでの余裕はもうない。
――いいぞ、このまま押し切れる。
……そう思った、次の瞬間だった。
奴は戦うことを選ばなかった、霧の中へと身を溶かすように、気配ごと掻き消えていく。まるで最初から、ここに存在していなかったかのように。
――逃げやがったな。
こんちくしょう。
だが、まあいい。
命が少し伸びただけの話だ。ああいう手合いは、必ずまた姿を現す。
この樹海だ。
逃げ場は多いが、縁も深い。
いずれ、必ず再会するだろう。
その時は――今度こそ、最後まで付き合ってもらうだけだ。
♢♢♢
青い霧の生物その正体は、『霊魔族』のフロウィン。霊魔族とは、その名の通り、霊的存在に魔の属性が融合した種族を指す。概念は至ってシンプルだ。
フロウィンは氷系スキルを主軸とし、さらに物理攻撃の完全無効化という厄介極まりない特性を備えている。通常であれば、対抗手段を持たぬ者は触れることすら叶わない。
だからこそ、彼は樹海において“最強”だった。
少なくともら今日までは。
氷を無効化され、属性攻撃が通る存在と遭遇した今、樹海の均衡は静かに、しかし確実に揺らぎ始めている。深海に棲む王が、初めて捕食者の影を認識した、その瞬間だった。
手が、微かに震えている。
「……有り得ぬ。この私が、震えているのか?」
フロウィンは自らの掌を見つめ、低く呟いた。
違う、逆だ、そう言い聞かせる、震えるのは相手の方でなければならない。恐怖に陥れる側こそが自分であり、恐怖される存在であって、決して恐れる存在ではない。
霊魔族。
実体を持たぬがゆえに刃は通らず、氷を以て万物を縛り、樹海では絶対の捕食者として君臨してきた。
この森に足を踏み入れた者は例外なく、霧の中で冷たく砕け散ってきた。それが、今までの理だった。
「おやおや、ずいぶんと思案に沈んでおられるようで。そんなに眉間に皺を寄せていては、賢さまで逃げるぜ?」
霧の奥から、軽薄な声音が割り込んだ。
空気が、わずかに歪む。
現れたのは、黒一色の装束に身を包んだ男。
顔には、歪な笑みを刻んだピエロの仮面。喜劇と狂気を無理やり貼り合わせたような、不快な表情だ。
背は高く、立っているだけで周囲の景色が一段階、狂ったように見える。
「……ッ」
フロウィンの霧が、一瞬だけ強張った。
「エラー様……」
「久しぶりだな」
エラーと呼ばれた男は、軽く片手を挙げる。
まるで旧友に再会したかのような、気楽すぎる仕草だった。
「で? 何があったんだ」
仮面の奥から、楽しげな声が漏れる。
「この樹海で、お前を相手に“戦える”存在なんて、そうそういねぇだろ?」
沈黙、フロウィンは、すぐには答えなかった。
霧が、ゆっくりと蠢く。
まるで言葉を選んでいるかのように。
「……いたのだ」
低く、抑えた声。
そこには先ほどまでの余裕も、冷酷な支配者の響きもなかった。
「氷を、無効化した存在が」
その一言で、空気が変わった。
「――ほう?」
エラーの動きが止まる。
仮面の笑みは変わらない。だが、その奥で“何か”が確かに反応した。
「無効化、ねぇ」
くつくつと、喉を鳴らして笑う。
「耐性じゃなくて?」
「違う」
フロウィンは即答した。
「理解し、取り込み、支配した。あれは……情報として氷を喰らった」
一瞬。
世界が、静止したかのように感じられた。
次の瞬間――
「ははっ……!」
エラーは腹を抱えて笑った。
森の闇に不釣り合いな、愉快で狂った笑い声が響く。
「なるほど、なるほどォ……!」
「そりゃあ、お前が震えるのも無理はねぇ」
ピエロの仮面が、ゆっくりとフロウィンの方を向く。
その歪んだ笑顔が、やけに楽しそうに見えた。
「面白いじゃねぇか」
声が、低く落ちる。
冗談めかしていた響きが、確かな“興味”に変わる。
「エラー様は、確か神なのでしょう?」
フロウィンの声には、焦りと縋りが滲んでいた。
「ならば……そいつを、今すぐ殺してください」
その言葉に、エラーは肩を揺らして笑った。
「いやぁ、そう簡単に言われてもな」
仮面の下で、舌打ちにも似た軽い音がする。
「俺は“外界神”だからさ。天界になんて住んでねぇんだよ」
神には、二つの居場所がある。
ひとつは、秩序と法則に縛られた『天界に住まう神々』。
世界の管理者として振る舞い、均衡と安定を是とする存在だ。
そしてもうひとつが、天界の外に追いやられた者たち――
『外界神』
外界神は、総じて凶暴で、逸脱していて、制御不能だ。
力はある。地位も、形式上は“神”のままだ。
だが、その在り方が危険すぎるがゆえに、天界から追放された。
秩序に従わず、法則を歪め、時には“遊び”で世界を壊す。
それが、外界神。
「俺たちはなぁ」
エラーは楽しげに言う。
「世界を守る義務なんて、持ってねぇんだ」
フロウィンの霧が、わずかに揺れた。
「……では、なぜ」
「ん?」
「なぜ、ここに?」
エラーは一瞬、言葉を切る。
そして次の瞬間、仮面の笑みが、決定的に歪んだ。
「面白そうだからに決まってるだろ?」
氷のように冷たい声だった。
「法則を理解して、喰って、無効化する存在だぞ?」
「そんなの、天界の連中が一番嫌うタイプだ」
肩をすくめる、 軽い仕草だが、その背後にある格は圧倒的だった。
「殺せって?」
「まだ早ぇよ」
エラーは、樹海の闇――天城が進んだ方向を見やる。
「芽が出たばっかの怪物を、いきなり潰すなんて無粋だろ」
声が、低くなる。
「育てて、暴れて、世界を引っ掻き回して……」
そして、楽しそうに言った。
「壊れるか、喰われるかを見る。それが外界神の流儀だ」
フロウィンは理解した。
この存在に、救いを求めたのが間違いだったと。
エラーは神だ。
だが、守護者ではない。
観測者であり、破壊を娯楽とする災厄そのもの。
「フロウィン、安心しろ。お前と同じ“知的生命体”が、あと二人……いや、正確には三人いるだろ?」
エラーは愉快そうに言葉を転がした。
「そいつらと手を組めば、勝ち目が“ゼロ”ってわけじゃねぇ」
――樹海には、四体の“化け物”が存在する。
偶然そこに棲み着いた存在ではない。
樹海という深海に適応し、選ばれ、生き残った“意思ある災厄”だ。
すでに名が出た一体目は
|霊魔族フロウィン
氷霧を纏う幽体の支配者。
物理攻撃無効化と氷属性支配を併せ持ち、樹海では“不可侵”と恐れられてきた存在。
だが今日、その絶対は揺らいだ。
そして、残る三体――
腐森王ヴァル=ロト
樹海そのものと同化した、歩く生態系。
腐敗・菌糸・寄生を操り、傷ついた大地を糧に無限再生を行う。
倒せば増え、焼けば拡散する。
“殺す”という概念が通じない、持久戦の悪夢。
夜喰らい・ミゼル
闇を栄養とする捕食者。
光が弱いほど強くなり、夜の樹海ではほぼ無敵。
影から影へと移動し、認識そのものを喰らうため、
「見た」と思った瞬間には、すでに喰われている。
概念歪曲者 イオ=ラズ
攻撃力も防御力も低い。
だが、意味を捻じ曲げる。
距離・上下・敵味方・因果――
戦場の前提条件そのものを歪める存在で、
彼が介入した戦いに「常識」は存在しない。
この四体が揃えば、樹海は“完全封鎖領域”となる。
天界の神ですら、無視できない異常地帯。
エラーは肩をすくめ、楽しげに続けた。
「な? お前一人じゃ無理でもよ」
「その四人で“群れ”を作れば……」
仮面の笑みが、深く歪む。
「法則を喰う怪物相手でも、いい勝負になるかもしれねぇだろ?」
樹海は、もはやただの迷宮ではない。
怪物が怪物を迎え撃つ、
深海最深部へと変貌しつつあった。




