第1話:樹海
魔狼に擬態し、森をものすごい速度で駆け抜ける。
この姿にも、もうすっかり慣れた。倒木や岩が行く手を塞いでも、身は自然と最適な軌道を描き、川に行き当たれば、助走ひとつで軽々と跳び越えられる。思考よりも先に、身体が正解を選ぶ感覚だ。
そして、境界を越えた。
足裏に伝わる土の感触が、はっきりと変わる。
そこが樹海だった。
ヴァルセリオンを探すという選択肢も、頭をよぎらなかったわけじゃない。だが、いくら気配を探っても、あいつの存在は霧のように掴めなかった。だから俺は、先へ進むことにした。
悪いな、ヴァルセリオン。
お前のことは……たぶん、忘れない。
強く生きろ。
もっとも、口ではそう締めくくっているが、実際には数時間かけて周囲を探し回った。それでも結局、影一つ見つからなかったのだから、ここで諦めるしかない。
まあ、あいつのことだ。
どうせどこかで、ちゃっかり生き延びているだろう。そんな確信めいた予感だけを残して、俺は再び足を前へと向けた。
さてさて、ようやく樹海に辿り着いた。
グレイスの言葉は誇張でも何でもない、確かに、ここは相当まずい。昼だというのに、頭上を覆う樹冠は光を拒み、森の奥は夜そのものだった。
一歩踏み入れれば、もう戻れない。
そんな感覚が、皮膚の内側に直接触れてくる。拒絶ではない。むしろ、誘われているような、甘い引力に近い。
恐怖……いや、違う。
胸の奥で蠢いているこの感情は、恐れではない。
――なんだ、これは。
やっぱり俺は、どこかおかしい。
普通なら身が竦む場面で、心臓は高鳴り、笑い出しそうになるほどワクワクしている。理屈では理解できない。ただ、不思議でならなかった。
この闇の先に、何が待っているのか。
それを確かめずにはいられない、そんな衝動だけが、俺を前へと押し出していた。
樹海へ足を踏み入れた、見上げれば、樹木の高さは軽く十メートルは超えている。巨大な葉が幾重にも重なり、太陽光を容赦なく遮断するせいで、朝だというのに場所によっては夜のような闇が支配していた。空気は湿り、重く、陰湿、まるで深海だ。
樹海を「森の海」と呼ぶのも、あながち的外れではないだろう。
光は届かず、上下の感覚は曖昧になり、どこから何が現れてもおかしくない。
誰かに見られている。
そんな気配が、粘つくように俺の身体にまとわりつく。
感知系のスキルは『水中感知』しか持っていない。海の中なら本領を発揮できるが、ここは陸だ。とはいえ、別にそれで困るわけでもない。感知自体はできる。スキルがあれば輪郭が鮮明になるだけで、無くても把握は可能だ。
要するに、気配は、確かにそこにある。
姿は見えずとも、この樹海そのものが、俺を試すように息を潜めている。
夜になれば、危険度はさらに跳ね上がるだろう。
そう直感しつつ、俺は樹海を慎重に進んだ。足取りは警戒しているはずなのに、胸の奥では相変わらず妙な高揚がくすぶっている。やっぱり、ワクワクしている。
そんなことを考えていた、その瞬間だった。
不意に、視界の端から“それ”が伸びてきた。
木の幹から生えたかのような触手が、空気を裂いて迫る。
俺は反射的に身を翻し、紙一重で回避した。
視線を向けると、そこにあったのは――
木に擬態した存在。
なるほど、トレントか。
樹海の住人としては、実に分かりやすい歓迎だ。
いいだろう、品定めだ、この樹海の連中が、どれほどの強さを誇るのか。少し、試させてもらう。
俺は口を開き、源|の奔流を解き放った。
圧縮された一撃が直線となって走り、トレントを真正面から貫く。
次の瞬間、木の巨体は音もなく砕け散った。
……一撃かよ。
おいおい、拍子抜けにも程がある。
俺、めちゃくちゃ強くねぇか?
いや、冗談抜きで。自分でもちょっと引くレベルなんだが。
トレントを喰らった結果、ひとつの能力を獲得した。
樹皮装甲|
効果:体表を覆う樹皮を硬化させ、一時的に防御力を上昇させる。
なるほど、いかにもトレントらしい能力だ。瞬間的とはいえ、防御が底上げされるのは悪くない。樹海みたいな場所では、不意打ち対策として重宝しそうだ。
……とはいえ、あいつを一撃で砕いた直後に手に入ると、ありがたみよりも「おまけ感」が先に来るな。
まあ、強くなる要素はいくらあっても困らない。次は、もう少し歯応えのある相手を期待したいところだ。
試しに擬態してみると――トレントになれた。
完全に木だ。幹の質感、枝の伸び、気配の薄さまで再現されている。
わお……これは、素直にすげぇな。
このまま動かなければ、獲物を待ち伏せする側に回ることもできるだろう。
……が、なしだな。
じっと待つより、自分の足で狩りに行った方が、圧倒的にはえー。俺は獲物を待つ側じゃない。踏み込んで、踏み潰して、喰らう側だ。
というわけで、俺は再び魔狼に擬態した。
やっぱりこっちの方が圧倒的に動きやすい。四足歩行はいい、地面を掴む感覚が直に伝わってくるし、加速も減速も思いのまま、何よりスピードが段違いだ。
そうして俺は、樹海の奥へと踏み込んでいく。
だがここは、本当に厄介だ。
進めど進めど、景色が似通っていて、方向感覚が徐々に削られていく。道らしい道は存在せず、気づけば同じ場所を回っている気さえする。
生きた迷路だな。樹海そのものが意思を持ち、侵入者を彷徨わせている、そんな錯覚すら覚える中、俺はなおも歩みを止めなかった。
そして夜になる。
空は完全に閉ざされ、月明かりすら厚い枝葉に遮られ、地面に届かない。闇は「暗い」というより、重い。背中にのしかかるような圧が、呼吸のたびに肺を締めつけてくる。
ここから、本格的に、樹海の本性が牙を剥く。




