第7話:鏡
鏡斬は一人、静かに歩みを進めていた。先ほどまで確かに存在していた二つの気配が、跡形もなく消えている。そして同時に、空間そのものを揺るがすような凄まじい源が、一瞬だけ爆ぜたのを感じ取った。
(間違いない。奴らをまとめて消したのは、一人の存在だ)
直感が告げていた。しかし焦りはない。
カルマ・ラボが生み出した『五鬼』その一角。
『鏡喰ノ鬼・鏡斬』。
DNAは徹底的に改良され、戦闘に最適化された肉体。常人よりも遥かに強靭な臓器、二つの脳で瞬時に判断を下し、思考速度は機械じみている。
血流は速く、心臓は常人の十倍の鼓動を刻む、再生能力も、物理耐性も、五鬼の中で最も安定して高い。
(ふん……獣王が瞬殺か。それほどの力、こちらも興味が湧いてきたな)
鏡斬は口元だけで笑い、足を止めずに歩き続けた。
ただ戦うためではない五鬼としての優越を証明するために。
鏡斬は顔の下半分を深紅のマフラーで覆い、左目には深く鋭い刀傷が走っていた。灰色の侍装束は風に揺れ、背後には三枚の鏡が無音のまま浮遊している。それらはまるで意思を持つ護衛のように、周囲を警戒するようにわずかに角度を変えた。
気配が走った。魔狼たちだ。岩陰に潜み、気配を殺し、完璧な奇襲のつもりなのだろう──だが、そんな稚拙な手は通じない。
鏡斬はすでに“見えている”。
次の瞬間、魔狼が飛びかかる。
牙を剥き、風を裂き、殺意を一直線に放って──
だが。
三枚の鏡が同時に震えた。
鏡面がわずかに揺らぎ、魔力の波紋が広がる。
「遅い」
鏡斬の呟きは淡々としたものだった。
飛びかかった魔狼の身体は、鏡に触れた瞬間にズレる。空間そのものが歪み、魔狼の軌道は反転し、自らの仲間へ向かって叩きつけられた。
骨の砕ける音、悲鳴。鏡斬は一歩たりとも動いていない。
「隠れるなら、鏡の死角くらい覚えておけ」
淡々とした声が洞窟に染み渡る。
三枚の鏡がゆっくりと鏡斬の背後へ戻り、再び静かに浮遊した。
魔狼たちはもう戦意を失い、後退することしかできなかった。
「死ね」
その一言が落ちた瞬間、空気が裂けた。
鏡斬の身体がわずかに沈み込み、次の瞬間にはもう“終わっていた”魔狼が飛びかかった軌跡だけが空中に残り、
本体は三つの鏡に反射する無数の斬撃に刻まれて崩れ落ちる。
刹那、音も、気配も、抵抗すらも存在しなかった。
ただ、鏡斬の残酷な一撃がすべてを断ち切り、
戦闘は本当に一瞬で幕を下ろしたのだった。
♢♢♢
洞窟が壊れ、俺たちの拠点は跡形もなく消え去っていた。今の俺は魔狼に擬態している。この姿なら集団に紛れやすいし、警戒もされにくい。
さて、これから住処をどうするかだ。
グレイスたちは依然として俺を慕っている。獣王を倒したことで、完全に信頼を勝ち取ったらしい。だが、あの洞窟はもうない。新たな拠点を確保しなければならない。
「……仕方ない、移動するしかないか」
魔狼たちが不安そうに周囲を見回している。グレイスはまだ治療中であまり動けない。タンは俺の指示があればすぐに動ける状態だ、問題は、どこに向かうかだ。
この大森林は広大だが、安全地帯は少ない。獣王の縄張りだった区域は今や俺たちのものだが、荒れ果てた場所に居座る意味はない。
「あっちだ」
鼻腔をくすぐる、微かな“空気の流れ”を感じた。魔力の流れでも、魔物の気配でもない。もっと原始的で、もっと深い“自然の循環”だ。
何かが俺を呼んでいるような、そんな感覚。
俺は魔狼の姿のまま歩き出す、集団も静かに後をついてきた。
この森を見渡せる大きな場所に行くと、思わず息を呑んだ。
鬱蒼とした木々の海がどこまでも広がり、風に揺れる葉のざわめきが生き物の呼吸のように響いている。魔狼の姿でそこへ佇むと、不思議と景色に溶け込み、初めて“この森の一部”になった感覚がした。
ここなら、拠点として再建できる。視界は広く、敵の侵入も察知しやすい。洞窟よりもずっと安全性が高い。
不意に、違和感が走った。
前方に、鬼がいる。
だが、今まで遭遇してきた鬼とは明らかに違う。
圧もなければ、威圧感もない、存在感が、薄い。
「へ、任せっぱなしじゃ勝てないぜ!」
タンが前に出た。
確かに、見た目だけなら弱そうに見える。
だが、嫌な予感が消えない。
こいつは、力を誇示しない、気配すら、わざと消している。
――弱者に擬態している。
「下がれ!!」
俺が叫んだ、その瞬間、タンが切り裂かれた。
音もなく、予兆もなく。
ただ、結果だけがそこにあった。
血が舞い、タンの身体が地面に叩きつけられる。
……間違いない。
こいつは、
今までの鬼とは“格”が違う。
「犬が10、11、12、13……20か。来い。全員、あの世に送ってやろう」
低く、冷え切った声が森に落ちた。
その言葉に反応するように、グレイスが喉を震わせて唸る。
「こいつ……間違いない。
鏡斬だ!」
なるほど、こいつが噂に聞く五鬼の一角か。
今まで相対してきた鬼とは、明らかに“質”が違う。
威圧感はない。殺気も、力を誇示する気配すら感じない、だがそれが逆に、異様だった。
周囲には三つ。
静かに、音もなく浮遊する鏡。
どれも鈍い光を帯び、こちらを映しているようで、しかし視線の焦点がどこにあるのか分からない。
「手合わせ願おう」
淡々とした声と同時に、鏡が動いた。
三枚の鏡はそれぞれ巨大化し、空間を切り取るように展開、
俺たちを囲うように配置される、逃げ道は、ない。
鏡に映るのは俺たちだけじゃない、歪んだ像、遅れて動く影、
現実と反射の境界が曖昧になっていく。
(なるほど……厄介だな)
魔狼たちが一斉に身構える、牙を剥き、爪を立て、今にも飛びかかれる距離、だが、先に動いたのは、鏡斬だった。次の瞬間、空気が切り裂かれた。
たった一秒だった。
数十匹の魔狼たちが、同時に赤い線を引かれるように切り裂かれ、次の瞬間には地面に崩れ落ちていた。
「お前ら!!」
グレイスが叫び、駆け出す。
だが、閃光のような一太刀が走り、グレイスの右脚が深く切り裂かれた。体勢を崩したまま、彼女は地面に叩きつけられる。
「お前ではない」
冷え切った声。
「弱者に興味はない」
鏡斬は、血を払うように刀を振り下ろした。
周囲の魔狼たちは恐怖で凍りつき、誰一人として動けない、だが。
こいつの数値化は……6450
俺の方が上だ。
数値上は、圧倒的に。
最悪、『破壊圧縮』もある。最初に動いたのは俺だった、一気に距離を詰め、拳を突き出す。
「ほう……速いな」
鏡斬は感心したように言った。
「だが速いだけだ。
拳に技が宿っておらぬ――まだ未熟よ」
次の瞬間、俺の右腕が切り裂かれた、痛み。
だが、問題はない、俺には自己再生がある。無理やり踏み込み、そのまま右脚を振り抜いた。
「読める。その動きも全て!」
冷酷な声と同時に、閃光。俺の右脚が切断された。
「……っ!」
激痛が走る。
だが、それでも、切断面が蠢き、情報が再構成されていく。
俺は即座に再生させ、再び地面を踏みしめた。
「能力は使いこなして一流だ。」
そう言い放つと、鏡斬は剣を地面へと突き刺した。
次の瞬間、異変が起こる。
「結界型の能力だ。」
俺の周囲を取り囲むように、結界が展開された。
いや、ただの結界じゃない。
壁一面、いや、空間そのものが“鏡”で構成されている。
視覚だけじゃない。
音が歪み、気配が乱れ、感知系の能力すら正確な情報を拾えなくなる。前に進めば壁にぶつかり、距離感も方向感覚も狂わされる。どこが出口で、どこが壁なのか分からない。
鏡が映す像は複雑に重なり、思考そのものをかき乱してくる。
……まずいな。
そんな時、鏡が全て割れた。
「弍面幽殺!!」
反応できた、そう、したはずだった、完全に防いだはずだったのに俺は胸を貫かれていた。
「生き物というものはな――
心の臓を潰せば、それで終いよ。」
「……何が、起きた?」
理解が追いつかない。
攻撃を防いだはずだった。間合いも、動きも読んだ。
それなのに、身体が、遅れて裂けた。
「私の攻撃はな」
鏡斬の声が、四方八方から重なって響く。
「自身の背後より切り離した鏡像分身による連携必殺だ。本体と鏡像は0、5秒の時差で行動する。』
視界に映る“俺”が、僅かに遅れて同じ動きをなぞる。
違和感の正体はそれだった。
「敵は常に、半拍遅れで理解し、半拍遅れで対処し、そして半拍遅れで、死ぬ」
要するに、攻撃は〇・五秒遅れて現実になる。
見えてから防ぐのでは遅い。
感じた時には、もう終わっている。
「……ふざけんな」
ここで、終わり?
冗談じゃない。
思考が高速で回転する、その瞬間、気づいた。待てよ。
俺の身体は、普通の生物じゃない。心臓も、神経も、臓器もない。
俺を構成しているのは、肉体ではなく情報。
あいつは未だに油断している、ならば『破壊圧縮』を放つ!
「貴様、動けるのか?!」
圧縮された破壊が、零距離で解放される。
「なに……貴様、動けるのか?!」
轟音、衝撃、空間そのものが歪み、鏡で構成された結界が耐えきれずに砕け散った。
ドン、と重い音が響き、視界が一気に開ける。
「……ふふ。いい、実に久しい。
退屈を忘れさせる相手だ、本気でいこう。」
おいおい、獣王達を一撃で殺した技を防ぎやがった。
本番はここからだった。




