【8】慣れと剣戟と驚愕と
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そして、瞬く間に三日が過ぎた。
「…はっ!」
「ブギャッ!?!?!?」
抑えめな気合いと共に放った刃は、油断して弛みきった《アジリス・ボア》の横っ腹を深く抉り、滑るように斬り裂いた。驚愕を隠しきれていない断末魔を上げるのとほぼ同時に、猪型魔獣の全身は質量の伴わない黒い細粒と化して、後には十枚前後のオルド通貨だけが残る。こんな調子の戦闘も、もう六度目か七度目だ。
「ボア相手の戦闘は、もう慣れたものですね」
そんなことを言うのは、慣れた手つきで魔獣が落としたオルド硬貨をひょいひょいと拾い上げる小さな妖精、もとい魔導人形の少女であるファルセだ。彼女の言う通り、もはや《アジリス・ボア》との戦闘は、戦闘と呼んでしまって良いのやら懐疑的になってしまう位には、作業じみてきていた。
最初はそうも思わなかったが、アジリスは様々な部分が文字通り致命的な程に鈍い。敵を察知するのが遅ければ、反応も遅いのだ。彼らが敵の存在に気付き、振り返ろうとするくらいの時には、既に俺は必殺の間合いに踏み込んで、剣を振り上げている──なんてことが大半なのである。今回の戦闘とて、その例に漏れることはない。
「慣れたっていうか、慣れすぎたっていうか……ここまで来ると、少し張り合いがないような………」
俺は額に浮き出る汗を手の甲で拭いながら、言った。今は中天を少し過ぎた位の位置で佇む太陽が、ほんの少し恨めしい。
現在地は、アプドマーレから北東方向に少し進んだ(らしい)ところに広がる平原。平原、と言っても地形のうねりというか起伏が凄まじい。高低差や斜面のおかげで、見通しが悪かったり歩きづらかったりという場面はしょっちゅうである。少なくとも俺が想像する平原というものとは、一線を画している場所だ。
だがここは、間違いなく良い『狩場』だった。この辺りは村から程近い場所の中でも、特に魔獣が多く出現する領域なのである。そう教えてくれたのは、偶然出会った気のいい村の農夫のおじさんだが、彼も『その理由までは分からんがな』と豪快に笑っていたのが不安といえば不安だ。地形も相まってか、この辺りには魔獣の根城が多かったりする……のかもしれない。
何にせよ、森の中で魔獣を一匹倒しては、次の一匹を見つけるまでに三十分探索──なんてことをするよりは、遥かに効率的に戦いの経験が積めることは間違いないとして、俺達は二日連続でここに足を運んでいた。
シャキン、と音を鳴らしながら納刀すると、オルド硬貨を集め終わったファルセがふわふわと近付いてくる。顔には仄かな苦笑を滲ませていた。
「確かに、この辺りの魔獣は些か貴方の力とは不釣り合いなようです。メソ級とは言いませんが…もう少し強いエピ級の魔物が居てくれれば、丁度良いのですが」
「…今日は時間に余裕もあるし、もっと村から離れた方まで探索してみないか?」
「ふむ…そうですね。貴方の言う通り、少し冒険してみましょうか。但し、くれぐれも油断はしないように気をつけなさい」
「あぁ、もちろん!」
珍しく自分の提案がそのままの形で通り、まるで母に褒められた子供が如く、胸の内でささやかな喜びが湧き出すのを感じつつ、歩き出す。願わくば、メソ級だとかその上の級の奴らだとかとは、バッタリ出くわすことにはなりませんように。そんなことを祈りながら。
ファルセ曰く、既に発見されている魔獣には、《冒険者組合》という組織によって、その危険度に応じ、特定の等級が割り当てられているらしい。危険度の低い方から、『エピ級』、『メソ級』、『バシー級』……等々といった感じだ。それより上の級もあるにはあるそうだが、滅多に会敵することがない為、覚える必要はないとのこと。もっと言えば、今の俺達がメソ級以上に分類される魔獣に出会った場合は、逃げの一手を打つ以外にないらしく……その為、実のところ現時点で覚えておかなければならないのは『エピ級』か『エピ級以外』か、それだけなのである。
俺達がアプドマーレに到着する前から相手をしてきた《アジリス・ボア》や《グラキリス・トレント》らは、正にエピ級の魔獣達だ。決して侮れはしないが、それはそれとして、比較的簡単に対処出来る。
だから俺達は、『見知ったエピ級の魔獣ではなく、だがメソ級以上でもない、エピ級上位の実力を持つ魔獣』という、何とも都合の良い魔獣を捜し求めていた。まぁそんなのは存在しないのだろうが…多少は強い魔物を相手取るくらいでなければ、わざわざアプドマーレに一週間の滞在を求めた理由が、きっと嘘になってしまう。
ひたすら歩みを進めていると、獰猛な笑みを浮かべながら俺達の前に魔物が立ちはだかってきた。そいつらは、身体中に淡く発光する線が走り、開いた眼にも同様の燐光を揺らめかせる、二匹の狼だった。
「《ウンギス・ウルフ》が二匹…!」
剣を構えながら、視界から得られる情報をそのまま口に出す。《ウンギス・ウルフ》。エピ級に相当する、前脚の爪が異様に発達した狼型の魔獣だが、初見の敵…という訳ではない。既に昨日、初めての邂逅を果たしており、その敏捷性と長大な爪の厄介さに舌を巻きながらも、どうにか勝利を収めることが出来た。
とはいえ、前回は一匹だけとの戦闘だったものの、今回は二匹。いくらエピ級の魔獣だとしても、連携でもされてしまえば、その特性からして苦戦は必至だ。
───悔しいけど、多分俺一人じゃ捌ききれない!
すかさず首を捻って視線を右の方に投げると、普段は戦闘が始まると後方に下がるファルセは、俺と並ぶ位置に浮遊したままだった。ファルセは顔をこちらに向け、ほんの一瞬だけ俺と視線を交わしたかと思うと、次の瞬間には前方に向き直っていた。だが、大まかな意思疎通にはその小さな動作だけで十分だった。
「私が右の方を引き付けます!その間に、貴方は左を!」
「分かった!」
大雑把だが、先程の目配せよりは遥かに細かい指示を飛ばしてきたファルセは、「《赤炎の矢》!」と勢いよく唱え、掌の先から灼熱の火炎で象った長矢を三本程も生成する。そんな光景を横目に、俺もウンギス・ウルフに肉薄する為、あらん限りの力を込めて地面を蹴り出す。
バシュッ!という射出音と共に、ファルセの手元から三本の炎の矢が、一気に解き放たれる。その内二本が俊敏なウンギス・ウルフに躱され、あえなく地面に墜落したが、残りの一本は見事に着弾した。刺さる灼熱に身を捩り、「ギャフゥッ…!」と呻いたウンギスは、ファルセの方に明らかな憎悪が籠った双眸を向ける。
二匹分の注意を引いてしまったら………と刹那の心配が脳裏を掠めるが、幸いもう一匹のウンギスは、急速に近付いてくる俺の事もしっかり脅威として認識してくれたようで、こちらに向かって臨戦態勢をとってきた。
突進の最後を跳躍じみた踏み切りで締めくくり、俺は一時も躊躇うことなく、勢いそのままに片手剣を振りかぶる。
「はぁぁぁぁぁあッッッ!!!!」
「グルルァァァアッッッ!!!!」
思わず裂帛の気合を迸らせると、ウンギスも猛々しい叫喚と共に、自慢の巨爪を振り上げてくる。刹那の後に、小細工無しの袈裟斬りと強烈な爪撃がぶつかり合って、甲高い衝撃音を辺りに轟かせた。
「……にしても、魔獣が見当たらなくなったな……」
小高い丘のようになっている場所から見回す限り、魔獣らしき影は何処にもない。先程までは、ぽつぽつながら──既に接敵した種ばかりであったものの──魔獣と遭遇していた筈だが、それすらもなくなってしまった。基本的に、夜に近付けば近付くほど魔獣は活発になるらしいので、寧ろ沢山姿を見かけるようになったとしてもおかしくない……というのにも関わらずだ。
「そうですね…。私としても気になる所ではありますが……丁度良い探索の区切りではないですか?」
眉をひそめつつ俺の呟きに応えるファルセも、些か当惑が隠せない様子だったが、二言目には建設的な意見を出してきた。これに関しては、流石魔導人形!と言う他ない。
ファルセの言葉を受け、拝借してきたメルクスさんの懐中時計──もちろんマテルさんから許可を得て持ってきたものだ──をポーチから取り出し、蓋を開ける。
俺達が魔獣との戦いに身を投じたり、あてどなく探検したりしている間にも、人知れず時を刻み続けていた短針と長針の位置を確かめると、《ウンギス・ウルフ》らとの戦闘が終了してから、大体一時間程度の時間が経過していることを教えてくれた。
現在時刻は午後四時三十六分。もう日は随分と傾き始めていて、きっとややもしない内に水平線の彼方にすっぽり隠れてしまうことだろう。アプドマーレまで戻るのに必要な時間や、帰り道に魔獣が出る可能性のことも考えると──確かに帰路に着くには丁度良い時機と言える。
「それじゃ、戻ろうか」
懐中時計の蓋を手首の捻る力で閉じ、ファルセの方に視線を戻すと、アプドマーレへの帰還を提案した張本人である筈の彼女は、何故か俺達が進んで来た方向の先──アプドマーレとは反対方向にある、今俺達がいる所よりも、さらに盛り上がった丘のある方角を眺めていた。
「……どうしたんだ?」
つい怪訝を押し殺さないままの声色で呼びかけると、ファルセはハッとしたように小さく反応し、次いで「少し気になることがあるので、見て来ます」なんて素っ気なく言い残して、先程まで見つめていた方向に向かって緩く加速し始めた。
訳も分からないまま、ふわふわと遠ざかる小さな背中を小走りで追いかける。どうやら、目的地はやはりさっきまで見ていた小高い丘の上らしい。魔導人形は地形が殆ど関係ないんだから良いよな……なんて、益体のない思考を弄びながら、傾斜のついた地面を進み続けていると、ファルセには直ぐに追い付いた。
俺がついてくることも察していたのだろう、魔導人形の少女はこちらに振り返っても、さして驚きもせず、かわりに小声で指令を寄越した。曰く、体勢を低くして息を潜めろ、と。やはりその意図を理解できないまま頷き、取り敢えず言われた通りにした俺は……危うく言いつけを破りかけた。
俺達が登ってきた丘。その反対側に斜面はなかった。どんな自然の悪戯なのだろうか、丘の半分がごっそり切り取られたかのような地形になっている。俺達が居る場所の感覚としては、丘の頂上というよりは寧ろ、崖っぷちのそれに近い。
そして何となしに、恐る恐る崖の下へ視線をやると、すぐ下方には窪地があるのが分かった。その真ん中で見覚えのない何かが、身体を丸めているのも分かった。そして、きっとあれこそがファルセの気を引いた存在なのだろうとも、直感した。
「アレって…」
眼下で眠りこける、鹿のような──だが明らかに魔獣であることは間違いない奴のことを見つめたまま、俺は最低限の声量で隣の魔導人形に話しかけた。
「《ウェントゥス・スタッグ》…ですね。しなやかな体躯と頑強な大角を持ち、風を操る魔法を行使する鹿型の魔獣。冒険者組合が制定した級は……《メソ級》です」
「!」
《メソ級》と言えば、《エピ級》の一つ上に当たる階級だ。一つ上といっても、エピ級魔獣と比べてどれだけ強いのかは、やはりよくは分からない、というのが正直なところではあるけれど、確かファルセは言っていた。級を一つ隔てた魔物の戦力は、正に『一線を画す』のだと。だからこそ、交戦しようなどとは考えないで、と。口酸っぱく受けた忠告の対象が今、俺達の目と鼻の先にいる。
「……これで納得が行きました。私達の存在に気付かれる前に、ここを離れましょう。詳しい話は、道すがらしますから」
俺の胸中に渦巻くモヤっとした疑問をぶつける機会は、機先を制する形で完封された。やはり心が読まれている……としか思えない。あるいは、常時表情ダダ漏れの愚かな仮面を俺が装備しているかだ。後者であるとは、あまり信じたくない。
愚考はさておき、俺もファルセが有無を言わさぬ口調であることに気付けない程、愚かしくはない。最後に《ウェントゥス・スタッグ》なる魔獣に一瞥を送ってから、俺はファルセに倣って身を翻した。
化物の住処から離れ、予定通りの帰路につき始めた辺りで、魔導人形の少女はようやく口を開いてくれた。
「先の魔獣……《ウェントゥス・スタッグ》が、恐らくはこの近辺から魔獣を遠ざけている元凶です」
「へ?」
しかし、人形少女から放たれた言葉は、俺──エピ級魔獣三体に関するもの以外の知識を持たない駆け出し剣士には、到底理解不能だった。
あの寝てるだけだった鹿が、魔獣を遠ざけている……。いやしかし、あの鹿だって魔獣なのである。どうして同族同士でいがみ合う必要なんかあるのだろう──とまで考えて、俺は人間を含めた動物達が持つ基本的な性質に思い当たった。
「もしかして…縄張りってこと?」
「…そう言っても良いかもしれませんね。ただ、厳密に言えば…貴方が考えているような縄張りとは、少々仕組みが異なります」
俺の閃きを聞いたファルセは、まるで教師のように一考してから答えた。そして得意気に人差し指をピンと伸ばしたかと思うと、わざとらしい咳払いをして語り出す。
「縄張りという言葉を軸にして説明しましょう。ルカ、貴方が《ウェントゥス・スタッグ》には縄張りがあるから魔獣が居なかった、と考えた根拠は何ですか?」
「えっ…こ、根拠か…。それは、ファルセが魔獣のいない理由はウェントゥスだって言って、どうして魔獣同士で遠ざけ合うんだろうって考えて…その時、縄張りっていう仕組みを思い出したんだ。だから、きっとウェントゥスが力を誇示して、あの窪地辺りを占有してる…縄張りにしてるってことなのかと……」
いまいち纏まってくれない考えを、どうにか口に出す。それは自覚出来る程のたどたどしさを伴っていて、俺は先生の前で緊張し、萎縮する生徒のような心持ちになった。
俺の発表を聞いたファルセは、一瞬いつもの調子で「ふふふ」と人を小馬鹿にするような笑い声を漏らして、そのすぐ後には教師然とした態度を取り戻して、説明を続ける。
「やはり、引っ掛かりましたね。あの縄張りを形成しているのは、ウェントゥス・スタッグではありません。どちらかと言えば、彼の者の周りに居を定めている魔獣達が、勝手にウェントゥスの縄張りを作り上げているのです」
「えっ………えぇ?ど、どういうこと…?」
俺は一切の困惑を隠せなかった。縄張りとは、何であれその縄張りを持つ個体が、その周囲の障害を押し退けてでも自らの居場所として占有し、防衛する領域──の筈だ。それがウェントゥスの場合は、自身が切り拓いて守るべき筈の領域を、逆に周囲が与えている……ということらしい。まるで王様が如しだ。
「…貴方には、大事な思考の欠片が抜けていますからね。理解出来ないのも無理はありません」
意地の悪い魔導人形は、仕方ないと慰める風を装いながらも、露骨に『大事な思考の欠片』とやらの正体についてを勿体ぶった。これにはぐぬぬぬ、と(もちろん心の中で)唸らざるを得ない。散々悩んだ末、俺は素直に問うてみることにした。
「…勿体ぶらずに、教えてくれよ」
「…教えを乞うならば、それ相応の頼み方があるのでは?」
「なっ………!」
見れば、ファルセの口角はこれ以上ない程に吊り上がっていた。この意地悪高飛車魔導人形!!……などと子供のように叫び散らしたくなる衝動が首をもたげるが、そんなことを言ったが最後、恐らくはもたげた首が飛んでしまうので我慢するしかない。
いつまでも手玉に取られているのは癪だが、残念ながら今の俺では、何かしらの偶然──マテルさんとフォルが俺の味方につくとか──が起こらない限りは、ファルセに(少なくとも口や知識では)勝てないのである。
「…教エテ下サイ、ファルセサン」
何だかカタコトっぽい口調はささやかな、それでいて精一杯の反抗である。ファルセは小さく鼻を鳴らした後、「まぁ、良いでしょう」と満足気に宣ってから、俺の願いを聞き入れた。
「…魔獣は、他の魔獣を襲い、喰らうことがあるのです。特に、級に隔たりがある時などは。だからこ──」
「…ちょっと待って、魔獣って共食いするの!?」
俺は驚愕のあまり、ファルセの話を豪快に遮った。魔獣が魔獣を襲って食べる。そんなことが有り得るのだろうか。
血肉の類は魔獣にはない、というのは前にファルセに聞いた話だ。実際、彼らを斬ると血飛沫の代わりに得体の知れない黒い靄が出るし、絶命した時には全身が──核であるオルド硬貨や、稀に形を残す部位素材を除き──文字通り塵も残さず消え去るのだから、それに関しては間違いない。だがその事実は、とどのつまり……『魔獣を食べる旨みなんてないんじゃないか』という、ファルセがサラッと告げてきた魔獣の生態とは完全に相反する推論を裏付けるものだ。
「すると言っているではありませんか。とはいえ、人間や他の動物と同じような目的の為に食らう訳ではありませんから、想像しにくいのも頷けますが。……彼らが共食いをするのは、ひとえに自身の《オルド硬貨》保有量の増大の為なのですよ」
返ってきた答えには納得出来るようで………やっぱり全然納得出来ないような気もした。
「な、なるほど……。因みに、オルド硬貨の保有量を増やしたら、魔獣ってどうなるんだ?」
「…至極簡単な話、強くなります」
「いや雑ぅ……」
粗雑が過ぎるファルセの説明ではあったが……正直、そう言われると想像がつかないという訳でもなかった。魔獣の身体や魔力など、およそ魔獣という存在を構築するもの全ての源は《オルド硬貨》──より正確に言えば、オルド硬貨に蓄積されてきた魔力なのだという。オルド硬貨が増えれば、魔力が増えれば、そりゃ間違っても弱くはならなそうだし、どちらかと言うならやっぱり、強くなりそうな雰囲気がある。それも何というか…全体的に。
「…話を戻しますが、共食いの性質上、下級の魔獣は上級の魔獣を無意識の内に畏怖し、距離を取ります。そうして生まれた空間が、結果的に上級の魔獣の縄張りとして認識できる形になる…という訳なのです。分かりましたか?」
「う、うん……ちょっと、頭が爆発しそうだけど…………」
どうして魔獣は同族を贄にしてまで強くなりたがるのか。記憶喪失だというのに、ファルセは何故こんなにも膨大な知識を一切の欠損なく保有しているのか。聞きたいことは、それこそ無限に湧き出て来るようで、尽きる気配がなかった。だが、俺はその疑問の泉を無理やり塞ぎ、目を背けることにした。今、これ以上新しいことを知ってしまえば、間違いなく頭が激烈な痛みに苛まれるか、あるいは弾け飛んでしまうような、そんな確信があった。
「…魔獣を相手取るならば、知識は多いに越したことはありませんが……ひとまずはゆっくり覚えていけば良いと思いますよ?その……暫くは、私が隣に居る訳ですし」
───いきなり優しくなった……!!!!
ファルセの心は、言葉を選ばずに表現するならば…乱高下しがちなところがあるようで。第一印象通りの高飛車お嬢様な態度と、いわゆる『母親』に似た慈愛溢れる態度というのを、割と短い間隔で行き来する。だから、正直相棒としては色んな意味でドキっとさせられることが多い。
とはいえ、ここで躊躇してはダメだ、というのを俺は既に知っている。恥ずかしさに身悶えし、こちらが照れて黙り込もうものなら、ファルセは即刻嗜虐心を取り戻して、高飛車お嬢様態度に戻ることを知っているのだ。アプドマーレに来てから二日目に味わったあの屈辱を、そう何度も繰り返す訳にはいかない。
だからこういう時には、ハリボテの自信に勇気をたっぷりと塗りたくって剛性を上げ、言いたいことを飄々と言ってやるのが、常となりつつある。
「…暫くは頼りっぱなしになりそうだけど……いつかは見返してみせるよ」
───多分、そう簡単じゃないだろうけど。
俺が心の中で付け足した呟きを知ってか知らずか、俺の肩に腰掛ける人形少女は、穏やかな笑みを返してきた。
夕焼け空の下を歩きながら、今日の夕飯を予想し合う帰り道。それは昨日の探索の帰り道と、殆ど同じだ。ただ、そんな変わり映えのしない帰路につき、何でもない談笑を続けるのが、今の俺にとってはこの上なく楽しく、心が休まる時間のように感じられた。
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