【7】野天風呂とこれからと
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「ふぅ〜…」
軽く吸い込んだ息を、わざとらしい程に大きく吐き出しながら、何となしに夜空を見上げてみる。見渡す限り、雲はない。大きく欠けた月は、数多の星々を従えつつ漆黒の画布の真ん中に陣取り、淡い光を湛え、惜しげも無くこの世界を照らしている。そんな当たり前の光景が、今はとても愛しいもののように感じられて、俺はしばらく視界にそれらを映しては、らしくもない感慨に耽ったりしていた。
───本当、らしくないけど…たまには良いかも。
俺に些か自分らしくもない考えをさせる程、マテルさん達が連れてきてくれた、村の大衆浴場である野天風呂は居心地が良かった。やや熱めにも感じるさらりとした湯も、清涼な外気と混じり合うと丁度いい。不定期的に体勢を変えて、肩をお湯に沈めたり、あるいはお湯から出したりしながら、俺はもう既に二十分程も湯を堪能している。
マテルさん達と約束した集合の刻限までは、まだ十五分くらいは余裕があるようだし、もう少しゆっくりしていよう。そんなことを考えてから、俺はふと右側──身長の高い板張りの壁がある方を見やった。正確にはその向こう、マテルさんとフォル、そしてファルセが居る女湯の方に思いを馳せる。……覗こうだとか、そんな不遜なことは考えていないけれど。
時々聞こえてくる三人の声が、俺に一抹の寂しさと、好奇心の燻りをもたらしているのは、疑いようもなかった。
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時を同じくして。アプドマーレにある数少ない娯楽施設とも言える野天風呂、その女湯では、やはり三人の客達が思い思いに寛いでいた。
「ふへぇ〜……やっぱり気持ちいーねぇ、大っきいお風呂は」
「ははは、日頃の疲れを吹っ飛ばすなら、家よりこっちの方が効くってのは違いないね。ファルセちゃんも、ちゃんと温まってる?」
「はい、丁度いい湯加減です」
可憐な乙女にはあまり相応しくないような、何とも気の抜けた声を漏らす娘の言葉に応じつつ、マテルは木桶で拵えた特製風呂に浸かる魔導人形の少女を気遣い、当のファルセは満足気な笑みを浮かべた。
「…にしても、ファルセちゃん達の旅費は大丈夫なの?ここの入浴料の千二百…じゃない、九百オルドか。二人にとっては大金なんじゃないの?」
マテルは僅かに目を細め、ファルセに対し心配が節々に滲む口調で言った。マテルの抱く懸念の発端については、ほんの少しだけ時を遡る。
マテルの発案により、家の風呂ではなく村の風呂で疲れを取ることが決まった一行は、方針決定から程なくして浴場に到着していた。そしてマテルが全員分の入浴料を払おうとした所で、それは起こった。まるで事前に示し合わせていたかのような俊敏な連携で、ルカとファルセがマテルと番頭の前に割り込み、四人分の入浴料、都合千二百オルドを番台に(優しく)叩き付けたのである。その後ろでは、フォルが「えぇ、どしたのぉっ!?」と目を丸くし、マテルが「…まったく、優しい子達だねぇ」なんていって、呆れ笑いにも似た表情を顔に宿していた。
結局、柔和な笑みを浮かべる、気のいい老いた番頭は「よう分からんが、見慣れねぇお二人さんは旅人ってとこだろう?小っちゃい子の方はオマケしたるわ」と言って三百オルドを返してくれたので、実際にルカとファルセが支払ったのは九百オルドという訳だ。
マテルには村の外に出ることもある木こりという職業上、そしてそれ以上に、ファルセ程ではないにせよ、魔法──本人曰く《超能力》──を扱うことが出来る為に、しばしば魔獣を相手取って戦闘を行う機会があった。だからこそ、少なくともアプドマーレ近辺で出没する魔獣の特徴や、それらがドロップするオルドの量なんかも心得ていた。
それらの経験や、料理を用意しながら聞いていた娘達の話で得た情報を加味して考えると、『九百オルド』というのは、ルカとファルセの二人にとっては大金であろう、とマテルは断じたのである。
まるでその推測は間違いではない、と裏付けるかのように、マテルの指摘を受けたファルセは、暫し目を伏せた。《アジリス・ボア》と《グラキリス・トレント》、二体のエピ級魔獣の撃破により得たオルドの合計は、二千五百オルド。そこから九百オルドを引くと、残るのが『千六百オルド』。それが紛れもない、現在のルカとファルセの全財産である。客観的にはもちろん、主観的にも旅費としては心許ない金額だ。
「確かに、今の私達にとっては九百オルドは大金です」と胸中の思い、あるいは客観的な事実を素直に吐露した後、「そこで、それに関してなのですが」と前置いて、ファルセはこれからのことについて語り始める。
「調子の良いことだとは理解していますが、お願いします。私達に一週間の猶予を頂けませんか?その時間で、今後の旅への用意をしたいのです」
「…っていうと、ウチにもう一週間は居座るっていうこと?」
マテルの確認に、ファルセは首を縦に振る。
「目的を果たす、果たさざるに関わらず、一週間で旅立つことは、お約束します。それ以上のご迷惑はお掛けしませんから──」
──どうか、それまでの滞在を許して頂きたいのです。そう言おうとしたファルセは、しかし最後まで言葉を紡ぐことは出来なかった。
「はははっ、さっき好きなだけ居ていいって言ったろう?それに──」
マテルはファルセの話に割り込む形で口を挟みながら、小さな肩口を指でひょいとつまみ上げるようにして、魔導人形の少女の全身を特製風呂から引っ張り出した。
「ひょあぁっ!?!?」
情けない悲鳴と共に、ファルセのあられも無い姿が宙に舞う。そしてややもしない内に、足先から温かな湯を突き破ったかと思うと、マテルの太ももの上に腰を下ろさせられた。肩まで湯に浸かった人形少女は、顔を真っ赤にしながらマテルのしたり顔を見上げる。
「な…何をするのですか!」
「──私はね、フォルを助けてくれた二人のこと、結構気に入ってるんだ。だから、今更堅っ苦しいこと言わないの!」
最後の方を母親が子供に躾けるような口調で言い切ったマテルは、ファルセの両頬を指でむにょむにょと伸ばした。「やめれくらひゃい〜!」と叫ぶファルセを見ながら、フォルもうんうんと頷く。
やがて、母が人形の頬を引っ張る微笑ましい(?)光景を見ていると、フォルの中で一つの疑問が弾けた。
「ファルセって……何で出来てるの?」
人形が魔法の力で動いている……というのは、まだ理解したということにしておくとしても、恐らくは木で出来ている筈の人形の身体が、どうして平然とお湯に浸かったり、むにょんむにょんと頬っぺたを伸ばしたり出来るのだろう。これまで『不思議な人形の女の子だから』という理由で押し留めておいた数々の素朴な疑問が、違和感まみれのこの状況のおかげで揺り起こされ、再起動する。
マテルも娘の問いに耳を傾け、ファルセの顔からパッと指を離すと、「確かにねぇ」とでも言いたげな様子で、好奇の色が多分に混じる瞳をファルセに注いだ。二人の母娘の視線を一手に引き受ける魔導人形は、さして迷う素振りも見せなかった。
「実は…私にも、よく分かりません」
ファルセは実にあっさりとそう告げてから、
「ただ、特性ならば把握しています。私の身体はすべて木材で構築されていますが、耐火や耐水、対腐食にも優れていますし、欠損箇所の自己再生も可能なようです。それらから推測するに、相当特殊な木材なのでしょう」
などと付け加えた。説明を終えたファルセは…思わずぎょっとしてしまう。何故なら、先程よりもさらに激しい、並々ならぬ情熱の炎を秘めた四つの瞳が、自分を射すくめていたからだ。ついでに言えば、四本の手とうねうね蠢く都合二十本の指も迫り来ていた。正に絶体絶命。例え迫り来る手の主が、信を置く緑髪の母娘だったとしても──あるいはだからこそか──恐怖を感じざるを得ない光景に、ファルセは戦慄していた。
「「ちょっとごめん(ね)っっ!!!!!」」
「えっ、ちょっ、待っ、なっ…………はにゃぁぁぁぁああぁっっ!?!?!?!?」
抵抗虚しく、樹木マニア母娘の手に堕ち、全身をまさぐられる人形少女の悲鳴は、幾つかの壁を隔てた番頭の元にも、薄くはないが、決して分厚くもない板の向こう側でゆったりしていたルカの元にも、しっかりはっきりと届いてしまうのだった。
***
聞き覚えのある声の悲鳴というのは、例え熱い湯の中にあったとしても、存外背筋が冷たくなるもので。気づけば俺は、ざぱっという音を立てつつ勢いよく立ち上がり、悲鳴が聞こえた方に向かって大声で呼びかけていた。
「…ファルセ!?大丈夫なのか!?」
「だっ…大丈夫な訳ありませっ……ちょっ、そこはダメっ…くすぐったいですってばぁっ!!!!ひやぁっ!!!!!!!」
──あ、これ大丈夫な奴だ。
てっきり魔獣でも襲来したのかと思っていた俺は、声だけでも分かる悪戯の気配に、ほっと胸を撫で下ろした。その後湯槽の中に再び腰を下ろしたところで、やはりファルセの悲鳴を聞きつけたのか、血相を変えた番頭のおじいさんが、野天風呂の俺の方まですっ飛んできた。少々申し訳なさを覚えつつも、(あくまで俺の推測ながら)ざっと事情を説明する。先程の俺と全く同じように安堵と苦笑の入り混じる表情を浮かべた番頭さんは、「そういうことなら良かったよ」と言って、屋内に戻っていった。受付の時にも思ったが、実に人の良い番頭さんである。
「…本当に、優しい人達ばっかりだなぁ」
アプドマーレを訪れてから、決して多くはないが、少なくもない出会いがあった。けれど、未だに心象が悪い人、というのは見かけたことすらない。寧ろ、それとは真逆の人達だらけだ。
特にフォルとマテルさん達は(少なくとも俺達にとっては)別格で、今日だけで何度『ありがたい申し出』にお世話になったか分からない。取り敢えず今日明日に関しては、部屋の一つすらも借りることになってしまっている。
「………」
俺達は、フォルとマテルさんにどれだけ甘えて良いのだろうか。好きに居てくれていい、とマテルさんは言ってくれた。しかし、無為に何日も何週間も泊まり込むというのは、流石に迷惑極まりない。とはいえ、今の状態でさらなる旅に出るか、と問われれば少しばかり首を捻ってしまう。明らかな旅の資金不足と、二度の戦闘を行った今でさえ、不安定で見通せない俺──『ルカ』の戦闘力への疑念からなる不安は、どうにも拭い切れない。もう少しだけ、時間が欲しい。もっと自信をつけてから新たな旅路に歩を進めたい。そういう思いが、偽らざる俺の本音だった。
ほんの少し、ファルセに意思決定のすべてを委ねてしまいそうになる。彼女なら、いつだって合理的な判断を下してくれるという確信と信頼があるから。でも、それじゃダメだ。確かにファルセは頼りになる。どころか、なり過ぎる。だからこそ多分、頼りすぎてはいけない。ファルセがどう思っているかはいざ知らず、俺は彼女の傀儡ではなく、仲間であって友達なのだから。
──家まで戻ったら、フォルとマテルさん、それにファルセにも相談してみよう。
もしかしたら、あのどこまでも優しいように思える二人も、顔を顰めるかもしれない。この図々しすぎるお願いをしたことを、後悔することになるかもしれない。ただ、それでも。
今の俺達には、きっと必要な時間だと思うから。
ささやかな、しかし俺にとっては随分大きな決意を抱いて、俺は湯槽から上がり、野天風呂を後にした。
***
村人同士の付き合いであったり、見慣れない俺達のこともあったりするのだろう、番頭と話すからという理由で、先に家まで戻っているようマテルさん達に言われた俺は、ファルセと二人で短い帰路についていた。隣に視線をやると、お風呂でゆっくりしたのにも関わらず、何故かげんなりとした表情を浮かべながら浮遊する人形少女の姿が目に映る。俺は一瞬目を伏せるようにして躊躇ってから、恐る恐る聞いてみることにした。
「…何があったんだ?」
人形少女はびくぅっと大袈裟に肩を震わせたかと思うと、露骨に視線を逸らしながら、宵闇に掻き消えてしまいそうな程にか細い声で、
「……何でも、ありませんです」
と呟くように答えた。一体全体、あの二人に何をされたのだろうか。とにもかくにも、文法的におかしな感じの語尾になってしまう程の恥辱に悶えていたのは確実なようだ。この状態のファルセに何を、どう話せば良いかも分からず、胸の内でまごついていると。
「そういえば…貴方に申し訳ないことをしました」
意外にも、もじもじとしていたファルセの方から口火を切ってくれた。申し訳ないこと、というのは、一体何なのだろうか。
「先程、マテルさん達との話の中で、これからのことについて勝手に決めてしまったのです。その……一週間でアプドマーレを出ていくと」
「えっ」
俺は素っ頓狂な声を上げてしまう。似たようなことを考えてはいたが……それにしたって、一週間も留まるとは、全く想像もしていなかったのだ。俺が考えていたのはせいぜい二日三日程度の延泊で………つまるところ、俺は度肝を抜かれた気分だった。
「話す時機があったので、つい逸ってしまい…本当は、今日の就寝の前にでも貴方と今後のことについて話す機会を設け、相談してから決めようと思っていたのですが……申し訳ありません」
こういう時は普段のそれに輪をかけて礼儀正しくなる少女に、俺は慌てて両手をブンブン振る。
「いやいや、そんなに気にしなくていいって!……実際、俺も同じこと考えてたしさ」
「…そうだったのですか?」
不思議そうに俺を見上げてくるファルセに、つい眼差しを遠ざけてしまいながら、俺は指で軽く頬を掻いた。
「うん……まぁ、一週間も滞在するなんて考えてなかったけど…。でも、今のまま闇雲に他の町や村を目指すのは、少し無謀かなって思ってさ。ファルセは、どうして?」
「…私は、貴方の力を高く評価しています。ですが、貴方は……自分自身の力について、どう考えていますか?」
「どうって……」
何故か質問を質問で返されたことに戸惑いつつ、俺はありのままの思いを口に出すことにした。
「…剣の扱いも身体のこなしも、全部俺が期待している以上だった。自分で言うのもなんだけど、剣士として弱くはない…と思う。ただ……少しだけ、不安かな」
脳裏に浮かぶのは、俺の身体が勝手に動いた時の驚愕。あの時は、魔獣に対して剣を振るうという行動に出た──方途は違えど、行動目的は俺の意思と同じだった──から良かった。だが、もしもまたあの現象が起こり、今度はファルセなどに斬りかかり始めたら……と考えると、背筋が凍りつきそうになる。
俺の中に、確かに萌している『未知』。ひたすらそれが、不安の芽と化していた。そんな俺の悩みを、ファルセの小さな双眸は鋭く見抜いている……ような気がした。
「私は、不安を取り除きたかった。改善するものかどうかは分かりませんが……旅立つならば、出来る限りのことはしておきたいでしょう」
ファルセは「それに、お金もある程度は稼いでおきたいところですから」なんて付け加える。多分、仮にファルセが事前に俺に相談してくれていたとしても、きっとその提案を受け入れることに変わりはなかったんだろう。
俺が自分のことだけで精一杯だったのに対して、ファルセは俺達のことを、そして俺のことを考えてくれていたのだ。こうしてマテルさん達に宣言し、引き下がれなくなった後でなくても、俺は自身の愚かさを噛み締めていた筈である。
「……本当、ファルセには敵いそうにないな」
俺はため息をついてから、そう呟いた。
「当然ですよ。私は、魔導人形ですから」
得意気に「フフン」と微笑むファルセを横目に、俺は負けを認めたように、思わず口角を上げてしまう。
時には高飛車で、時には冷淡なようにも思える魔導人形の少女は、しかしこの村で出会った母娘に勝るとも劣らない優しさを秘めていることを、俺は改めて実感する。
気付けば、この先一週間は俺達の拠点ともなることが決まった建物が、目前まで迫っていた。
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