【5】オルドと戦闘と新たな出会いと
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「よくて一日分の路銀……と言ったところでしょうね」
ファルセは俺のポーチの中に入ったオルド硬貨を検めてから、実に淡々とそう告げた。計十二枚ばかりのそれは、少し前に《アジリス・ボア》なる猪魔獣を討伐した時にドロップした物だ。ファルセによれば、全てが一枚につき百オルドの価値を持つ、通称《百オルド硬貨》であり、つまるところ、現状俺達の全資金は千二百オルドということになるらしい。『それでどのくらいのことが出来るのか』という俺の問いに対するファルセの答えが『一日分の路銀』という訳であった。
どうやら、自分が思っていたよりも千という数字は(少なくともオルドという通貨の中の話では)小さいもののようである。
「……そんなに大金って訳でもないんだな。千二百オルドって」
「そうですよ。しかも一日暮らせると言っても贅沢は出来ませんし、むしろ倹約せねばならない額です。土地によってもオルドの価値は変動しますが、食事代と宿代は最低限でも馬鹿になりませんから」
「そっか……だったら、もう少し魔獣を倒せるようになっておきたいな。他の方法で生計を立てられるとは思えないし」
事実、今の俺が出来ることと言えば、剣を振るか足を動かすかくらいのものだ。そう考えれば、魔獣の狩人というのは天職だとすら言えるかもしれない。未だ自分の実力を把握しきれていないのが多少……いや、かなり不安ではあるが。
「私も賛成です。上手くこなすことが出来れば、日雇いの仕事に従事するより良い稼ぎにもなるでしょう。アジリス・ボアのようなエピ級の魔獣ではなく、もっと上の級の……」
そこまで言って、ファルセは突然口を閉ざした。
「どうしたんだ?」
「何か……音が聞こえませんか?」
「音……?」
首を傾げつつ、ファルセが言う音とやらを聞き取るべく耳を澄ませる。目を閉じて集中してみると、木々のざわめきや鳥のさえずりに交じって、規則正しく響く小気味よい音が微かに俺の鼓膜を叩く……ような気がした。
「……確かに聞こえるな。でも……何の音だろ?」
「この距離では、流石に分かりませんね。規則的に聞こえることから推測するに、恐らくは人か魔獣の仕業でしょうが……村が位置する方向から聞こえてくるようですし、とにかくもう少し近付いてみましょう」
ファルセの提案にぐっと頷き、俺はない交ぜになった期待と不安を胸に抱きつつ、進むことにした。
足を進めた分だけ、謎の音は順調に大きくなっていった。幸いそれが好奇心をどんどんと掻き立て、気を抜けば俺の意思に反旗を翻してしまいそうな両足に、一時の忠誠と活力を与えてくれている。謎の音の発生源にかなり近くなってきた頃、俺はその、スコォンという感じの音の正体に思い至った。
「この音……もしかして、誰かが木を倒そうとしてるのか?」
「ふふ、流石の貴方も気付きましたか」
「流石ってなんだ、流石って」
ちゃっかり馬鹿にしてくる人形少女は、俺の恨みがましいツッコミをすまし顔で軽く受け流すと、もっともらしい表情を浮かべたまま、語り始めた。
「恐らく、この先に居るのは村の木こりでしょう。村の人々から見れば私達は怪しい存在ですから……話す時はくれぐれも妙な誤解を与えぬよう、気を付けなさい」
「あ、あぁ……そんなこと、正直考えてなかったよ。忠告どうもな」
「礼には及びません。私達の為、ですからね」
「……そうだな! ファルセの為にも、変なことしないように気を付けなきゃな……」
この後起こるだろう、村人とのファーストコンタクト。それが俺達二人の行く末を左右すると考えると、否が応でも緊張感が高まってくる。間違っても、村人と敵対して戦闘にまで発展してしまうような事態は避けたいところだ。
「そういうことです。……さ、どうやら話している間に着いたようですよ」
ファルセに向けていた視線を、前方に移す。すると、鬱蒼とした森の中では一際輝いているように見える、俺達が昨晩過ごしたような空間がそこにはあった。射し込む陽の光の中で、一人斧を振るう村人(仮)の後ろ姿を見つけ──俺は本気で驚いた。
想像していたよりも、遥かに華奢な体格。比べるまでもなく、俺より小柄だと分かる。若草色とでも言うべきか、鮮やかな緑色の長い髪を後ろでまとめて束ねており、それを左右に激しく揺らしながら、些か体躯に釣り合っているようには見えない大きな両手斧を自在に操り、鋭い刃を樹木の側面に、恐ろしい程の正確さで何度も打ち込んでいる。その度に、先程から聞こえていた音が遠慮なく鳴り響き、幹に付けられた傷がさらに深くなる。
その様子に思わず見入っていると、業を煮やした魔導人形が俺の頬をぐいぐいと肘で小突いてきて、俺は慌てて我に返った。意を決して話しかけてみようと、一歩踏み出したその時。
「うわぁっ!?」
木こりの女の子の悲鳴じみた驚愕の声が耳を叩く。一瞬俺に対してのものかと思い、まるでちょっとした悪事を働いた子供が、母親に声を掛けられた時のように肩をビクッと震わせたが、どうやらそうではないようだった。彼女の視線はこちらには向けられておらず、俺達から見れば右斜め前方とでも言うべき位置に、ひたすらそれは注がれていた。そしてそこにあったのは。
「……木?」
正に、一本の樹木だけだった。それがあること自体はおかしくない……というか、至極当たり前のことだ。ここは多少開かれた空間ではあるものの、あくまで森の内部であって、俺達は常に、四方八方から数多の樹木に見守られている。だが視線の先にある一本の木からは、何処か疎外感や違和感の類を感じずにはいられなかった。
とはいえ、それだけと言えばそれだけだ。視界の隅々まで探ってみるものの、今は少しずつ後退っている少女が、大袈裟に声を上げる理由になりそうなものは見当たらない。
───ひょっとして、俺達には見えない大きさの虫にでも驚いてたのかな?
そんな全く新しい角度からの仮説を思い付き、意識が再び木こりの少女の方に向き直って、視線も移りかけた時──俺は辛うじて、移りゆく視界の端でそれを捉えた。
風によってざわめくでもなく、あるいはミシッとしなるでもなく、樹木が根や幹ごと木こり少女の方に向かって移動するという、全く信じ難い光景を。
「あれは魔獣です! 迎撃を!」
素早く反応したファルセは、そう叫ぶように命令を飛ばしながら、小さな両手を怪しげな樹木に向かって突き出した。その掌の先には、何処か見覚えのある薄緑で象られた刃が生成され、その大きさを瞬く間に増していっている。そして、突然の出来事に少々狼狽えつつも俺が抜剣したのと同時に、彼女は凛々しく発声した。
「《翠風の刃》!」
ファルセの手から勢いよく飛び出した風の斬撃は、大気すら切り裂いているのだろうか、多少の彼我の距離などものともせずに、一瞬で目標の樹木に傷を刻み付けた。
「クロロロロロォッ!!」
怒り心頭、といった様子がありありと伝わってくるような声で叫ぶと、樹木……型の魔獣は、こちらに向き直った。一体奴のどこに発声器官なんか備わっているんだろうか、という刹那の疑問を振り落とし、剣を構える。ファルセの魔法は深手を負わせるようなものでは無いにしろ、魔獣の注意を引く分には十分すぎる程の威力を持っていたらしい。木の枝のような手、あるいは手のような木の枝を振りかざしながら、魔獣はこちらに向かって猛烈な勢いで突っ込んできた。
こうなれば、下手に回避する方が恐らく危険だ。であれば……全力を以て迎撃する以外に、選択肢なんかない。
「ハァァァッ!」
俺は木の魔獣に負けじと気合いを迸らせながら、その場で左足を軸にして、身体全体を全速で右に回転させた。身を僅かに屈めて、交差しながら振り下ろされる木製の凶爪をやり過ごし、狙いを定める。見据えるのは、突進してきた樹幹の、人間で言えば腰下辺り。回転による遠心力に腰の捻りを加え、刀身にありったけの勢いを込めて、魔獣とすれ違いざまに右手に握った剣を全力で振り抜く。
結果として、俺の振るった刃は、ズカァン! という音を鳴らしつつ、狙い通りの位置から、樹幹の半径程にも達しようかというところまでを大きく切り裂いた。
「クロルォッ……!!」
流石に堪えたらしい魔獣の、真っ暗なうろのような口から、苦悶の声らしきものが漏れる。とはいえ、背後から霧散した気配は感じられない。痛手は与えられたのかもしれないが、一刀のもとに斬り伏せられはしなかったのだろう。すかさず剣を切り返そうとして、俺は小さく呻いた。
手を動かそうとした瞬間、掌と腕にビリビリと痺れが走った。樹木型魔獣の幹を勢い良く切り裂いたのはいいが、その衝撃が些か大きすぎたらしい。完全に腕が壊れてしまったということはないだろうが、何にせよ、連続で剣を振るうことは出来そうにない。「追撃は諦めて、一旦魔獣と距離を取ろう」と、なるたけ合理的な判断を下そうとした時、俺は右腕から伝わってくる振動に気がついた。
どうやらそれは、掌と腕の痺れによるものなどではなく、さらにその先──つまるところ、剣から発せられているようだった。そんな錯覚を覚える位に震えるって、痺れすぎだろ……なんて呑気な疑問が俺の脳内を占めた時、俺の身体が、半ば勝手に動き出した。
驚きに目を見開く自分を他所に、俺の身体は剣を振り抜いた体勢から、先程と同じく左足を軸にした、身体全体の右回転を敢行。そしてそのまま、先程と同じような攻撃をし始める。まるで他人事のように自分の行動を感じ取りながら、俺はとあることに気がついた。魔獣の身体も、こちら側に正面が向くように回転している。
まだ完全にこちらに向き直った訳じゃないが、こうなると、先程作った切り口に再び刃を走らせるのは随分難しい…………というか、もはや不可能なことのようにも思える。そんなことを考えている間に、俺の剣が魔獣に達する瞬間は、凄まじい速度で迫ってきていた。俺はあまりにも生々しく想起される腕の痺れの感覚に、心の中で盛大に毒づき、目を瞑った。そして絶対に訪れるだろう、その瞬間を待って───。
スパンッ。
自分の腕に与えられるべき筈の衝撃や、硬い樹皮を剣が叩く大音響は、ついぞ訪れず、かわりに聞こえたのは、そんな拍子抜けする程に軽い音だった。
やはり驚きながら瞼を開けてみると、目の前には伸びきった自分の腕と手、そしてしっかりと握った剣があった。少し視線を左にずらしてみれば、魔獣の上半身と下半身が両断された様子が視界に映る。それが自分の剣によって引き起こされたことなのだ、と呑み込めたのは、樹木型魔獣が細かな闇の粒へと姿を変えて、涼やかな風に運ばれていってからのことだった。
「……まさか、《グラキリス・トレント》をたった二撃で倒してしまうほどとは思っていませんでしたよ。貴方は、私が考えていたよりも随分強いようです」
剣を下ろし、体勢を整え、詰めた息を吐き出して少しぼうっとしていると、いつの間にやら近付いてきたファルセはそんなことを言ってきた。労いつつも、オルド硬貨を俺のポーチにグイグイと押し込んでくる彼女の顔には、珍しく本気で驚愕しているのが見て取れるような表情が浮かんでいる。
慌てて納刀しながら、冷静沈着な筈の魔導人形少女にしては、随分あっさりと下した過大評価に物申す。
「褒めてくれるのは嬉しいけど……今回は、剣に助けられた気がするよ。俺だけの力じゃ、こう上手くは行かなかったと思う」
「剣に……? 戦闘中、何かしら魔力のようなものを感じたのですか?」
「魔力……なのかな。一撃目の後、いきなり剣がぶるっと震えて、身体を勝手に動かしたような気がしたんだ。まぁ、錯覚なのかもしれないけどさ」
一撃入れた後、俺は──俺の意思は、一旦体勢を整えようとしていた筈だった。ただ、剣から振動が伝わってきてからというもの、俺の身体は俺の意思に暫し従わなくなり、結果的には間髪入れずに繰り出した二回目の攻撃で、《グラキリス・トレント》なる魔獣を片付けてしまった。恐らく俺の意思通りに行動していたら、もう少し戦闘は長引いて、もう少し苦戦する羽目になっていただろう。
個人的な気分としては、即座に「これは魔法だ!」と決め付けてしまいたくなる現象だが、如何せん自身に魔法を発動したような感覚がまるでないのと、自らの忘れている(だが身体には染み込んでいる)経験が、半ば無意識に身体を動かしているんだ、と言われても納得出来てしまいそうなので、最高にタチが悪い。
「ふむ……私の知る《魔法武器》というのは、魔力を扱える者が振るうと、武器そのものに《付与魔法》───簡単に言えば、炎や水など何らかの属性を付与することが出来たり、特定の魔法を刻み、その発動を容易、かつ迅速に行うことが出来たりするような、言わば『何かしらがはっきり見える武器』なのです。貴方の剣は、それらとは明らかに異なりますから、やはり今すぐに断定するのは難しいでしょう」
「なるほどな……」
ファルセから得た追加情報を加味して考えてみると、先程の現象は魔法ではなく、経験によるものだという説の説得力がやにわに増してくる……が、アジリス何某やグラキリス何某との戦闘──特に後者だ──を通して得た自らの実体験が、それを否定する。自分の記憶を取り戻すなり、俺が扱う剣の素性を知るなりしない限りは、この戦闘の度に味わうすっきりとしない違和感は、ずっとついて回りそうだ。
「……あの〜」
二人して考え込んでいると、ふと横から声がかかった。俺とファルセは、反射的にそちらの方に振り向き、やがて顔を見合わせて、二人共に大切なことを忘れていたことを悟った。
「「はっ!」」
俺達が思わず声を上げると、目の前の少女は肩をビクッと震わせた。あまりに当然の反応である。
「あ、あ〜……えっと、怪我とか、ないか?」
俺は非常にドギマギしながらではあったが、どうにか真っ白な頭の中から言葉をかき集めて、それらを口から発することに成功した。
「う、うん! 君達のおかげで傷一つないよ! 助けてくれてありがとうね、えっと、剣士さんに……妖精さん?」
妖精。俺がファルセと出会った時の俺では思い付かなかった表現だが、こう聞くと中々的を射ているように思える言葉だ。実際の意味の妖精とは異なる存在であるにしろ、少なくとも見た目や雰囲気は大差ない。
そんなことを考えつつ、俺は木こり少女の妖精という呼称に、少しばかりドキッとしていた。ファルセは言うまでもなく魔導人形であり、そして真面目で、時に高飛車だ。ここで「私は人形なので、その呼称は適切ではありませんね」とか冷ややかに言い放とうものなら、この場の気まずさは直ぐに臨界点まで到達してしまうだろう。まさか、とは思いつつも、心配するのを止められない俺が居た。
一体木こり少女に対してどう応えるんだろう。そうハラハラしながらファルセの方を見やると、俺は自分の心配の何もかもが杞憂だったことを、ありありと自覚させられた。
「ふふふ、そんな可愛らしい名前で呼んで下さるのは嬉しいですが、私は妖精ではなく、人形なのですよ。魔導人形のファルセと申します。こちらは……暫定的には剣士で良いでしょうか、ルカと言います」
俺の視線の先には、実に乙女らしい、ぺかっとした小さな笑顔があった。俺はあんぐりと口を開きたくなるのを、必死に堪えた。「俺達が出会った時はそんなに愛想良くなかったじゃん!」と思わず糾弾しそうになるのも、必死に堪えた。後者は、正直俺の方が完全に悪いので仕方なくはあるけれど。
対応の差に内心しょぼくれていると、俺達の自己紹介を聞いた木こり少女は元気よく口を開いていた。
「ファルセとルカ、だね! 私はフォルトゥナ=トランキルスって言うんだ、呼ぶ時はフォルで良いよ。よろしくね!」
そう言うと、木こり少女改めフォルは、ファルセには左手の親指と人差し指を、俺には右手をそのまま差し出した。俺達は異口同音に「よろしく」と返しながら、フォルの手を──ファルセは指を──握った。
「二人はどこから来たの? この辺りじゃ見かけない顔だし、ポルトゥスの方から来た……訳でもなさそうだよね?」
自己紹介と握手を終えると、フォルは木陰に置いた自身の荷物をまとめながら、そう問い掛けてきた。これもまた、当然の疑問だろうし、大抵の人間や魔導人形なら答えるのも容易だろうが、残念なことに俺達にとってはそうではない。強いて言うなら、そこら辺の浜辺、ということになる。
ファルセと一緒になんと言ったものか悩み、言葉に詰まる。別に話したくない、という訳でもないが、かと言って一息に説明するとなると難しい。記憶が無いことや、気付けば浜辺に寝転がっていたこと、というかポルトゥスって何処なのかとか、ここから最寄りの集落は何処なのかとか……。イマイチ纏まってくれない考えを頭の中に並べていると、大きなリュックを背負ったフォルが、いつの間にやら俺達の目の前に立っていた。
「ところで、二人とも時間はある?もしよければ、私の家まで一緒に来ない? 助けてくれたお礼もしたいし、二人の話も聞いてみたいしさ!」
「い、いいのか?」
「もっちろん! 二人は命の恩人なんだから、遠慮なんていらないよー!」
俺たちは互いの意思を確かめ合うまでもなく、フォルの提案をすぐに受け入れた。村なのか街なのかは分からないが、フォルが案内をしてくれれば、確実に人里まで辿り着けるし、何よりその入口で不審者扱いをされるようなこともないだろう。素性不明の俺たちにとっては、この上なくありがたい申し出であることは間違いない。
俺達の抱えた事情については、また歩きながら話すことに決め、急遽三人パーティとなった俺たちは、ひとまずフォルの暮らしているらしい《アプドマーレ》という村を目指すこととなるのだった。
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