【2】目覚めと出会いと
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ざぁ……ざざぁ…………。
近づいては離れるのを繰り返す謎の音。一体なんだろう…と思うが、それには何となく聞き覚えがあった。波打ち際の音だ。数多の波折りが砂浜に打ち付けることで生まれる、中々に心地のいい音。そうと分かった途端、にわかに潮風の匂いが鼻腔を満たしていることと、自分の身体をふわりとした感触の何かが支えていることにも気が付く。まるで、次々に身体の感覚が覚醒しているかのようだ。
柔らかな砂っぽい地面を、掌でぐいと押して上半身を持ち上げ、意を決して瞼を持ち上げると、俺の目の前には、白と黒の相反した二色だけではない、色とりどりの世界が広がっていた。立ち上がり、辺りを見回してみる。
白砂がこれでもかと敷き詰められた海岸線。それを隔てた海側を見やれば、視界の大半を占めてしまう鮮やかな青い大海と蒼い大空。陸側を確かめれば、彩度の異なる葉を貯えた木々が溢れんばかりに生い茂っている深緑の樹林。
深く息を吸い込んで、思い切り吐き出す。身体の内と外で空気をめいっぱい循環させて、俺はようやく、現況に直面する勇気を湧かした。
「ここ……何処だ?」
目に映る光景に、俺は一切の見覚えがなかった。覚えがあると言えば、先程までは自分がいた筈の、黒白の空間の中での出来事だけ。そう、さっきは──よく分からない『影』であったとはいえ──俺の言葉に応えてくれる存在がいて、俺は独りではなかった。
焦燥にも似た一抹の不安が、内側から自分の胸を叩く。痛いという程ではないそれが、寧ろ今の自分にとっては怖いものに感じられた。
思わず大きく口を開けようとして、すんでのところで止まる。ここで叫んでみたところで、きっと返ってくるのは木々のざわめきと波打ち際の音───些か人気の感じられない、淋しい返事だけだ。とはいえ、ここから動いてみないことには、どの道俺は孤独に息絶える定め。
何処か人のいる場所を探さなくては。そんな使命感に駆られて、何となく、内陸側に一歩踏み込んだ時だった。
「はぎゃっ!!」
何かしら異物を踏みしめる嫌〜な感覚が足元から伝わってくるのと同時に、苦悶の声が響いた。
「のわっ!!」
───生き物なんて居た筈がッ!!
内心そんなことを叫びつつ、驚く勢いそのままに、進めた右足を全力で引き戻す。大袈裟に仰け反りつつ片足立ちになったおかげで、呆気なく体勢を崩した俺は、白い砂浜に思い切り(と言っても、やはり柔い地面である為にダメージは大したこともないが)尻もちをついた。
半ば反射的に「だっ、大丈夫か!?」と素っ頓狂な声で呼び掛けながら、自分が思い切り踏んづけてしまったナニカの正体を確かめてみて、俺は再び、仰天せざるを得なかった。
果たしてそれは───紛うことなき、人形だったのだ。
手のひらに収まるような大きさで、端正な顔立ちと凝った衣装を備えたそれは、パッと見た感じ、女の子用の着せ替え人形の類に思える。とはいえそれは、俺の中の常識で測れる程単純な人形ではないようだ。
「いたたたた……」とよろめきながら立ち上がった人形は、如何なる術によってか、自分の顔の位置と同じくらいの高さまで浮上すると、こちらに向かってビシリと指をさした。
「……全く、歩く時は足元に気をつけなさい!」
「す……すみません……?」
理解の追い付かない状況と、人形少女の少々高圧的な口調に圧され、俺はたどたどしく簡素な謝罪を行った。
すると、人形少女は一瞬不満そうに目を細め、一つため息をつき、長い金色の髪を櫛で整えてから、「あまり誠意が感じられませんが、良いでしょう」と心底呆れたような態度で自分のことを許してくれた。
何とも驚く程に表情豊かな人形である。感覚としては、人形というよりも小人に近い。実際今も、髪を梳かしていたかと思えば、今度は複雑な構造をしたロングドレスのそこかしこをパシパシと払って砂埃を満遍なく落としている。遠近感と、身体の節々に認められる人形的な構造の証さえどうにかなれば、彼女は本当の人間に見えることだろう。
──もしや本当に、小人なのではなかろうか。
そう訝しみながら、目の前の(限りなく)人形(のように見える)少女をぼうっと見つめていると、不意にジトッとした視線が跳ね返ってきた。
「……何ですか、その珍妙な表情は」
「いやその……何と言うか、さっきから理解が追いつかないことばっかりだなぁと思って……」
俺は頬の辺りを指でぽりぽりと掻きながら、しどろもどろに弁明した。
この目の前の少女は知る由もないだろうが、奇妙な世界で影のような謎の存在と話した時点で、既に俺の頭はプスプス煙を上げていた。それに加えて、海辺で目覚めたと思えば、相変わらず何も分からないままに喋る人形(らしき存在)を踏んづけ説教されることなど、誰だって想像出来る筈もない。多少呆けた所で、一体誰が俺を責めるだろう。
「理解が追い付かない……とは?」
当然と言えば当然だろうか、俺の的を得ない弁明に素直に納得してくれる訳もなく、人形少女は心の底から不思議そうに小首を傾げた。きっと、ここであの影との奇妙な会話をそのまま伝えても拗れるだけだろう。そう思い、俺は理解が追いつかないことその二について───取り敢えずは、俺の知る人形というモノについて、話してみることにした。
「えーっと……例えば、君のこととかも、そうだよ」
「私のこと」
「あぁ、その……俺の知ってる人形ってのは、君みたいに動いたり喋ったりなんか出来ないんだ」
──しまった、まだ小人である可能性があったのに……!
そう思い至ったのは、完全に迂闊な一言を言い切ってしまった後だった。俺が全く見当違いのことを口走っていた場合に備え、一瞬であらゆる言い訳を捻り出そうと脳内で奮闘する俺であったが、実際に返ってきたのは、少々予想外の反応だった。
「ははぁ〜ん……どうやら貴方は《魔導人形》をご存知ないようですね。面倒ですが、そこらの人形と一緒にされるのも癪ですし、説明して差し上げましょう」
そう言うと、(遂に)人形(だと確定した)少女はコホンと咳払いをして──本当に咳をしているのか、そういうフリをしているのかは分からないが──説明を始めた。
「魔導人形というのは、その名の通り、幾つもの魔法を人形に込めて、自律稼動出来るようにしたものです。その複雑な作成工程から、熟達した魔法使いにしか作成出来ません。ですから、非常に貴重な存在なのですよ」
胸をこれでもかと張ってそう言い切った、自称貴重な存在らしい魔導人形は、先程も見たような気のするジットリとした視線を俺に向けて照射する。俺は僅かに首を縮めつつ、「……踏んづけてしまって、申し訳ないです」と謝罪の言葉を吐いた。感覚的には吐かされた、が正しい。とはいえ、足元の確認を疎かにしていた俺に非があるのは確かなのだから、抗うことは出来ない。
「分かっていれば良いのです」とでも言いたげに頷く人形少女は続ける。
「貴方よりも身体のサイズは劣りますが、魔法の力で岩を爆発させたり、風で大木を薙ぎ倒すことだって出来るのです。人形だからと侮れば……痛い目を見ますよ」
「魔法の力……。じゃあもしかして、そこの森を魔法の風で切り拓いて道にする、なんてことも?」
そう言いつつ、俺は先程まで足を踏み入れようとしていた樹林の方を指さした。単純に人形少女の魔法というのも気になったし、安全な進路が確保出来るかもしれないという打算もちょっぴりあった。
何にせよ、期待の眼差しを注いでみると、人形少女は微かに悩む素振りを見せたが、やがて「仕方ありませんね」と呟き、案外満更でも無さそうな様子で俺の提案を受け入れてくれた。
ふわふわと森林の前まで移動していく人形少女から少し離れた位置で見守ることにした俺は、その時を待った。
彼女はおもむろに右手を前に突き出し、森の方に掌を翳す。ふと、そよ風を感じた。潮風とは明らかに違う方向に吹くそれは、恐らく魔法により一点に集められているのだろう。人形少女の掌の先の空間に視線をやると、風の力が収束している影響なのか、僅かに空間そのものが小さく歪んでいるようにも見える。やがて、風の塊のようなものは薄い緑色を帯び始め、その大きさを増していった。それが当人の大きさすら超えようかという時、人形少女は鋭く叫ぶ。
「《突き進む暴風》!!」
「……っ!」
吹き上がる砂混じりの風を両腕で受け止める。辛うじて確保した視界の中で、人形少女の詠唱のようなものに反応して打ち出された緑色の旋風球が、矢面に立っている一本の樹木の皮をバリバリと削り……そして、呆気なく霧散した。
「……え?」
そう声を上げたのは俺ではなく、ストレートテンペスト(?)なる魔法を放った当人である。語っていたよりも明らかに威力不足なのが余程ショックなのか、彼女は魔法を放った体勢のまま口をあんぐりと開けて硬直している。
そんな先程までの様子とは異なる、高飛車人形少女の落胆している様子を見ると、やにわに悪戯心が騒ぎ出した。
「あれ? さっき確か、大木を薙ぎ倒すって……」
冷静に分析する風を装いながら、顎に指を当てつつそう言うと、人形少女はキッとこちらを睨み付けた。少しだけその目は涙ぐんでいて、小さな身体をぷるぷると震わせてさえいるような気がする。どうやら俺が考えていたよりも随分、彼女にとっては悔しいことだったようだ。
「……なんでもないです」
自分の発言を訂正しつつ、俺は何となく、人形少女が自分に返してくる言葉を予想していた。厳かなように見えて、それこそ踏んづけられても謝罪一つで許してくれる心の広い彼女のことだ。先程までなら、何かしら悪態をつきながらも、俺の失言を許してくれていたのだろう。だが、今回に関してはどうにも様子がおかしかった。
「これはその……少し……調子、が…………」
途切れ途切れに言い訳をしつつ、先程までとは違ってふらふらと不安定に浮遊する彼女の異変に気がついた俺は、急いで駆け寄り、両手を皿のようにして小さな足場を拵えた。幸い俺の行動の意図を理解してくれたようで、人形少女は俺の掌の上に着地するや否や、ペタンと腰を下ろした。
「情けない話ですが……どうやら……魔力を、使い過ぎたようです。私の最大魔力量は、自分で思っていたよりも遥かに低かったみたいですね……」
「誰だって、上手くいかない事くらいあるさ。……そんなことより、魔力切れって魔導人形にとっては結構大変なんじゃないのか?」
『魔導人形』への造詣は水溜まりの如き浅さではあるが、そんな奴にでも『魔法を使うには魔力が必要』という大前提は解る。そもそも身体を動かしたりするのにも魔法を使っているのだとしたら、魔力切れなんてのは文字通り致命的……であっても何らおかしくはない。
「……その通りです。暫くはあらゆる動作に支障が出るでしょうし、仮に魔力を完全に使い果たせば、私はただの人形に成り果てるでしょう。しかし、私には人と同じ《意思》があります。時間を掛ければ、やがて魔力も回復しますよ。……私を作成した人に回復してもらえれば、一番手っ取り早いのですが」
「作成した人、か。この辺りにはいないのか?」
そう言いながら、思わず周りをキョロキョロと見回してしまうが、この魔導人形の持ち主とも言える作成者の姿はおろか、やはり単なる人影すらも見当たらない。
「恐らく、いないでしょう。何しろ私は、先程貴方に足蹴にされた時に初めて目覚めたのです。それ以前の記憶や、私を作った人については、何も……」
人形少女の伏せられた目からは、僅かに不安の色が読み取れるような気がした。きっと、俺も人のことは言えないのだろうが。
「……君も記憶喪失?」
「その言い方……まさか、貴方も?」
自分の掌の上からこちらを見上げる人形少女に、こくりと頷きを返す。薄々勘づいてはいた事だ。俺には、それこそ先程想起していた、理解し難い出来事たち以外の記憶が思い出せない。あの白黒の世界で影と話す以前、自分が一体何をしていて、何処に居たのか、まるで分からないのだ。そんな自身の状態を指し示す語彙など、俺は"記憶喪失”以外に知らない。
俺が諦め悪く脳内の記憶を漁っている間、何事か考えている様子であった人形少女は、おもむろに顔を上げてこちらを向くと、とある提案を持ち掛けてきた。
「私達は今、自身のことすら分からず、見覚えのない土地に二人きり……そうですね?」
「…そうだな」
「であれば、ここは互いに協力しませんか?」
「…協力?」
「私が魔法と知識で、ここからの旅路をサポートします。ですから、貴方の行く先に私のことも連れて行って欲しいのです」
「そういうことなら、俺からもよろしく頼みたいな。……正直、一人じゃ心細いと思ってたんだ」
人形少女の提案は、至極妥当なものだった。明らかに損得の比率がおかしい提案をしてこない辺り、この人形少女の人格の良さが滲み出ている気がする。
目的地すら定めることは出来ないが、俺も人形少女も、とにかくここから動いてみるしかないのだ。さもなければ俺には野垂れ死にの運命が待っているし、人形少女がどうなるのかは不明ながら、やはり提案をしてきた以上、何かしら理由があるのだろう。
有り体に言えば、その中での頭脳担当と労働担当、というような感じか。丁度、互いに足りないものを補い合えそうなのは全くの僥倖だ。前提として、果たして俺がどのくらい運動が出来、この腰に吊ってある剣をどのくらい自在に操ることが出来るのかは全くの未知だが……。せめて、人形少女の能力に釣り合えるくらいの力があって欲しいと思わずにはいられない。
「記憶喪失の魔導人形と、記憶喪失の人間の二人旅ですか……。自分で言うのも何ですが、些か不安になる組み合わせですね」
そう言いながら、人形少女はくすくすと笑う。よく考えてみれば、中々笑えそうにない状況の俺達ではあるが、それでも二人であることには間違いない。これがもし、自分一人だったら。そう思うと、むしろ暑いくらいの陽射しの中でも背筋がゾッとする気がした。
「まぁでも、俺のことはともかく、頼りにしてるよ……えーっと……」
名前を呼ぼうとして口篭る。思えば、出会い方が衝撃的過ぎたのと俺が魔導人形という存在を知らなかったおかげで、出会いの後は当然存在する自己紹介という過程を、俺達は物の見事にすっ飛ばしていたのだ。そんな事実を知ってか知らずか、少しの沈黙の後、人形少女は素っ気なく口を開いてくれた。
「──ファルセ。私のことはそう呼びなさい」
「分かった、頼りにしてるよ、ファルセ。俺のことは」
そこまで口にして、俺は自分の名前すらも思い出せないことを自覚して口を閉ざす。どうやら、ファルセよりも記憶喪失の度合いが激しいらしい。
こんな事になるなら、あの色々と詳しそうな様子だった『影』にでも聞いておくべきだった。未練がましくそんなことを考えていると、たった二つの文字が、ポンと頭の中に湧いて出てきた。それが自分の名前であることを、俺は何故か確信する。
───実は影と喋っていた中で話に出ていた? いやそれとも、たまたま今になって思い出したのか……?
うっかり暴走し始めそうになる思考を無理矢理せき止める。何にせよ、抱いた疑問について問い詰められる相手はもう居ない。であれば今は、自分について考えるよりもまず、目の前に居る新たなパートナーとの交流に力を注ぐべきだろう。
「──ルカって呼んでくれ」
「ルカ、ですか。何だか、初めて呼ぶ気がしませんね」
「……案外、俺がファルセの作成者だったり?」
「有り得ません」
「ぶっっっ」
あまりにも即座な否定に、俺は堪らず吹き出した。そんな即断しなくたって……。
「……さ、軽口を叩いている暇があるなら、前に進みませんか? 私は人形ですから飢えも渇きもありませんが、貴方はそうではありませんよ」
そう指摘しつつ、ファルセはふわりと浮き上がり、瞬く間に森林の林冠を優に越えようかという高度まで上昇する。そして何かを確かめるとスーッとこちらに戻ってきて、「失礼します」と言いつつ俺の左肩に優しく着陸し、そしてちょこんと腰掛けた。
愛玩動物よろしく、思わず手で撫でたくなる衝動が首をもたげるが、そうして機嫌を損ね、こんな至近距離で顔の側面に魔法を撃ち込まれたりすれば流石に洒落にならない、などと思い直す。
「この辺りの地形を、少し把握してきました。ここから北西に、つまりこの目の前の森林を真っ直ぐ突っ切ることが出来れば、どうやら集落らしき場所には辿り着けそうですよ。随分遠くの方ではありましたが」
「……魔導人形って、凄いな」
「当然です、魔導人形ですから」
正にファルセ様々である。というか浮遊魔法があまりにも便利すぎる気がしないでもない。色々ファルセに対して思うところはあるが、ともかくこれで当面の目的地は定まった訳だ。
「それじゃ、進もう」
白砂が敷き詰められた浜辺を数歩歩くと、地面の性質が様変わりしたということが、踏み出した足を通じて伝わってくる。それは正に、海辺と森林の境目を跨いだ証拠だった。潮風に代わって草の香りが辺りを満たし、薄緑の天蓋が眩い程の陽光を殆ど遮っている。
その下の道無き道を歩きながら、にわかに萌した冒険の予感に、少し胸を躍らせてしまう自分が居た。
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