第40話 真妄
神祇伯と黒僧の様子を見守る中、羽矢さんの雰囲気が、蓮と回向に比べて少し違う事に気づく。
真剣な表情で神祇伯の言葉を聞いているのは、皆、同じであったが、何か思うものがあるのだろうか、僅かにも翳りが見えた。
神祇伯の問いが、落ち着いた口調で静かに流れる。
「記別を与えたにも関わらず、出口へと向かえないのは何故でしょうか」
神祇伯はそう問うと、黒僧に答えを求めるように、ゆっくりと瞬きをした。
黒僧が神祇伯に答える。
「空、仮、中の三諦の理を以て実相とする。つまりは存在を示す要素的存在が、互いの障りなく溶け合うという円融。それを知らずして、覚りは得られない」
「それは、師僧を含めての事と、問わざるを得ません。然し乍ら、師僧が教主の身としての役割を得てとの事であるならば、機根を疑うべきものは何処にありましょう」
機根を疑うべきもの……その能力と性向、つまりは気質を疑うと……こんなにも直接的に問う事が出来るなんて……。
流石は……というべきなのだろう。
堂々とした立ち振る舞いは、今までも見てきたが……怖いくらいだ。思わず息を飲む程に。
問いの中に疑問があるのは当然だが、神祇伯は理解を求める為のものではなく、境界を含めての問いをしている。
おそらく、この後に口にする言葉は、その境界を明らかにし、対比しながらも結びつけるものとなるはず……。
そしてそれは。
否定する事が出来なくなる。
神祇伯の問いに黒僧が答える。
「ならば、差別の現象は諸法に於いてのものと知れ」
「諸法……。では……私は『実相』の真妄を明らかにし、頌を示し、顕色を添え、可能力を示す諸法をここに顕しましょう」
神祇伯のその言葉に、黒僧の表情が怪訝にも眉を顰めて歪む。
同時に、羽矢さんの目がピクリと動いた。
全ての存在のありのままの真実の姿を、ここで明らかに……?
差し出すように動いた神祇伯の手。深緋の衣の袖が、存在を示すようにバサリと音を立てた。
回向にしても思うものがあるのか、神祇伯をじっと見つめる回向の息遣いが深く、長い。
だがそれは、心を落ち着かせようと、不安を見せるものではなかった。
僕から見ていても、黒僧と対峙する神祇伯との間に、緊迫は感じられない。
余裕の顕れとは違う、この感覚は……。
「瑜伽……」
そう口にしたのは、回向だった。
回向は、神祇伯の手の動きを見つめながら、ゆっくりと静かな口調でこう呟いていた。
「分けられない結合関係……同一の処に存在する存在要素……色声香味触……眼耳鼻舌身……地水火風空……」
これが……。
圧巻だった。
新たに五輪塔が現れた。
水景 瑜伽。
その力の大きさを改めて知る。
印契を結ぶ手と共に唱えられる真言が、声の響きを持って、その存在を顕現するようだった。
「 阿毘羅吽欠」
そして、羽矢さんの表情の変化の理由が明らかになる。
それは、次に唱えられた真言によっての事だった。
「唵阿密㗚多帝際賀羅吽」
あ……。
羽矢さんがゆっくりと背を向ける。
「おい、羽矢。なんでそっちを向くんだよ?」
「呼ぶな、蓮。放っておいてくれ」
「あ? なんでだよ? だって……お前、『師僧』……」
「だから、言うなって」
「やめてやれよ、紫条。まあ、依を式神同然に扱っているお前には、違和感もないだろうがな」
「回向。お前こそ、その言い方やめろ」
「はは、そうだな。悪かった」
緩やかに流れゆく風が揺らす……黒衣。落ち着きを持った、穏やかな風貌が真の強さを物語る。
神祇伯への元へと向かう足取りは、地の感覚を掴むようにもゆっくりとした足取りだった。
足を止めると手を合わせ、黒僧へと向かって頭を下げる。
神祇伯に並ぶその姿をじっと捉える黒僧は、睨むような目を向け、その名を口にした。
「……奎迦」




