第34話 大乗
『俺の名は親父が付けたんだ』
走りながら僕は、頭の中で言葉を繋ぎ合わせていた。
瑜伽……回向。
それは仏道に於いて、その道を進む者であれば知らない言葉ではない。
二派同時に行われた断壊。一派は法則通りに、もう一派は厭魅を加えて行った。
法則通りに断壊を行ったのは、水景 瑜伽……今は神祇伯だ。
だが、断壊を使える神祇伯は、その当時には僧侶であった事は間違いではない。それも断壊を使えるとなれば……高僧だ。
だとしたら、元より験者であったという矛盾は、確かに生じる。
験者も呪力と法力の両方を使うが、それは思想の基礎を追求するよりも、『術』として成り立つ験力を求めるものだ。
回向にしても、神仏分離後の修験禁止令で、寺に属したと言っていたが……。
それでも、回向も神祇伯も、呪力も法力も使える事は事実だ。
ああ……だけど。
神祇伯は回向にこう言っていた。
『もう……隠れる必要もなくなったか、回向』
あの言葉の意味って……。
回向へと向かって指を差したままの黒僧に、敵意を感じない訳がない。
明鏡にしたって……回向に敵意を向けていた。その紫衣を引き継いだ事に、答えはあるのだろう。
黒僧の手が回向へと伸びる。
「や……め……!!」
焦りが言動よりも先に行動を促すが、回向と羽矢さんは黒僧の直ぐ近くで倒れていて、僕の位置からでは間に合わない。
辺りを包む炎が勢いを増して、僕の行手を阻んだ。
燃え盛る炎が目前に広がって先に進めない。
先に進めず、僕の足が止まると、炎の勢いが弱まるが、再び足を進めようとすると、また大きく炎が上がる。
「羽矢さんっ……!!」
目を開けて……黒僧を止めて……!
黒僧の手が回向の腕を掴み、じっと見つめた後、ふっと笑みを見せる。
もう片方の黒僧の手に炎が浮かび、回向の腕へと近づけていく。
回向の腕に刻まれた種子字を焼くつもりなのか。
歩を進めれば、大きく膨らむ炎。
こうなったらもう……。
僕は、両手をグッと握り締め、炎を抜けようと歩を踏み出す。
行くしかない……!
そう決心した瞬間、声が走り、僕の足が止まった。
流れた声に安堵が溢れる。
「だからなんだ? そんな事、とっくに知ってんだよ」
「羽矢さん……!!」
地に伏せたままの体勢でありながらも、羽矢さんは、黒僧の手をグッと掴んで、回向から引き離そうとする。
黒僧は、回向へと向けた炎を、今度は羽矢さんへと向けた。
だが、その手が別の手に掴まれる。
……回向……!
「……験者だろうが……半俗だろうが……僧侶だろうが……還俗して神職者だろうが……俺の名は『回向』だ……名付けって……意味を持って付けるだろ。俺の名は親父が付けたんだ。親父がそうしろと俺に託した……それだけだ」
黒僧の手を掴んだまま、回向は立ち上がる。
炎を放つ黒僧の手を掴んだ回向の手に力が込められると、回向の腕に刻まれた種子字が真っ赤に色を放ち、炎が吹き飛んだ。
その勢いで、黒僧との距離が多少作られた。
回向の手が大きく動くと、黒僧の周りに炎が回る。
「焼かれてたまるかよ。二度はないと言っただろう。悪いな……」
回向の足が力強く地を踏み締め、その震動が伝わって地を震わせると、また別の炎が上がり、辺りを囲む炎を吹き飛ばした。
炎が消え、うっすらと白い煙が霧のように漂い、一瞬だけ視界を曇らせたが。
それが晴れると、はっきりとその姿を浮かび上がらせる。
回向のその手には、檜扇が握られていた。
クスリと笑みを漏らすと回向は、止めた言葉を続けた。
「炎を操るのは、得意なんだよ」




