第28話 疑侮
ふと、以前に高宮が蓮に言った言葉を思い出した。
『あなたは……何も、誰も傷つけないんですね。時の流れに従って、無理に推し進めようとはしない』
その言葉が頭の中に流れた瞬間に、僕の顔に笑みが浮かんだ。
……蓮。
蓮の言葉に明鏡が立ち上がった事も、僕の表情を緩ませた。
種子字が浮かび上がった水が、縄のように黒僧を縛り付けようと輪を縮めるが、あと少しというところで止まり、黒僧を縛るまでに至らない。
「チッ……」
舌打ちをする回向の隣で、羽矢さんは数珠を手に、経を唱え続けている。
再度、回向の手が動くが黒僧には届かず、縄のように伸びた水がバシャンと音を立てて、河原に叩きつけられるように落ちた。
……回向の力でも調伏出来ないなんて……やはり、黒僧と言われるだけの事はある。
法と法のぶつかり合いだ。
黒僧にしても、断壊を使えたくらいなのだから、調伏をもって返してくるだろう。
明鏡の足が河原へと進み始める。
僕と蓮は、明鏡の背を見送るように見つめた。
明鏡が河原へと向かった事に気づいた回向が、肩越しに明鏡に目線を向ける。
その目線は直ぐに河原へと戻ったが、回向の口元に笑みが浮かんでいたのは明鏡にも気づいた事だろう。
明鏡の手が自身の衣をなぞるようにスッと滑ると、黒衣に変えていた衣が紫衣に変わった。
そして、河原に姿を浮かべる黒僧へと、払うように手が向けられ、黒僧の顔半分を隠していた霧が消えたが、直ぐにまた霧に包まれた。
一瞬の事で、その顔をはっきりと見る事は出来なかったが、明鏡の衣が紫衣に変わった事に、黒僧の目線が明鏡へと動いた事は分かった。
紫衣と紫衣。
時を経てしても、変わる事のない無上の化法。
黒僧にしても明鏡にしても、そこに変わりはない。
黒僧の様子に変化が見られた事に、蓮が目を見張りながら口を開く。
「三界を有するこの身こそ、その地獄を留まらせる……か。ふ……さあ……どう出るかな」
そう言いながらも、蓮には見えているのだろう。
羽矢さんたちの背後、僕と蓮の前に炎があがった。
大きく膨らみ、煽るように動く炎が、ここにいる僕たちを飲み込もうとする。
……この炎……。
三界を有する……そうか……。
霊山で対峙した時にあがった炎は、この霊山全てを焼き尽くすような勢いだった。
……やっぱり羽矢さんは凄い人だ。
あの時の言葉が、ここに収まる。
『地獄の業火等しく、よく燃えてんな? 自ら地獄を作ったか?』
蓮は上衣を脱ぎ、炎を振り払うように投げた。
蓮の上衣が炎に飲まれ、焼けてしまったかと思ったが、バチッと弾ける音が響くと共に、羽矢さんたちと僕たちの間にあがった炎が断ち切られる。
羽矢さんたちの姿が捉えられた時には、回向の持つ種子字が黒僧に絡みついていた。
黒僧の動きが封じられると、バシャバシャと水を掻き分け、明鏡が黒僧に近づきながら言葉を発する。
その言葉は、以前に回向が明鏡に向けて言っていた事だ。
だがそれは、黒僧にしても、明鏡にしても、共に持つ法を示しているものだ。
「その領域には、元より邪鬼が棲みつき、惑わし、争いを生み、死を呼び込む……その処から連れ出すには、自らの意思をもって自らの足で抜け出す事を悟らせる。中に飛び込み、無理にでも手を引き、連れ出す事も出来る……」
……中に飛び込み……無理にでも……。
明鏡の手が黒僧へと伸びた。
「こう申せば疑侮は晴れますか。欲したものを与えると諭して……望むものを遥かに満たすものであろうとも、例え、望むものよりも劣るものであったとしても、その処から離れさせる為に伝えた言葉は……」
その手が黒僧を掴むと同時に言った明鏡の言葉に、蓮はふっと笑みを見せた。
「虚偽ではないと……お答えします」




