第36話 門跡
「お前の滅罪経……使ってみてくれよ。その法を誹謗した者も含めて……な?」
そう言った羽矢さんを振り向く明鏡。
その表情に感情は見られなかった。
「その法……ですか……あなたという人は……」
無表情の明鏡に、何も思う事はないのだと思っていたが、どうやら感情を抑えていたようだ。
その声色に、僅かにも震えが見える。
ゆっくりと動かす手は、自身の衣へと伸び、その衣をグッと握り締めた。
「藤兼さん……あなたが探しても見つからないはずです。当然……総代が立ち入る事も出来はしないでしょう。寺もなければ、小さくもひっそりと思いを巡らす庵もない……」
明鏡は、紫衣を握り締めたその手で、自身の頭にそっと指を触れた。
「全ては僕のこの中に注ぎ込まれた、各々の思念でしかないのですから。その無数の思念は執着を生み、その存在の成就を願う……元々の存在理念は、存在現象の有り様で区分され、そして、個々の区分とは縁起によって示される……」
明鏡の目線が蓮へと向いた。
「それでも……あなたのようにその存在を、個として理解し、受け止める事が出来るのは、輪廻という概念に捕らわれる事がないからでしょう。随分と大切にされているようですね」
明鏡は、ちらりと僕に目線を向けたが、その目線は直ぐに河原へと向いた。
そして、河原をまた見つめながら、明鏡は言葉を続けた。
「呪いだ祟りだと結びつければ、縁起を疑い、それでもそれは自身には関わりのない事だと遠避ける……それも一つの象徴でしょう。厄祓いという象徴です」
水を掻き分けて、こちら側へと舟が近づいてくる。
神祇伯が舟を漕ぎ、その隣には住職がいた。
舟は河原を分断するように、真ん中辺りで止まった。
「……何故、気づかれたのですか?」
河原を見つめたまま、明鏡は羽矢さんに訊いた。
「その法を持っている事は間違いないだろうが……違っているんだよ。その使い方が微妙にな。それとも、わざとそうしているのか?」
「だから……この河原で試してみろと……ふふ……そうですか」
「お前……少しは人の話を聞いた方がいいぞ。悉く人の話、素通りしやがって。言っただろ、ジジイは遁世していると。それがどういう意味か分かるかと俺は言った」
「……」
羽矢さんの言葉に明鏡は無言になる。
「そもそもは、同じ門からなんだよ。その門を出てから、ジジイは自身で門を開いたんだ。霊山界といっても、それは同じに浄界を示している。ただ、その領域に棲む仏尊が違うだけだ」
明鏡は、河原に目線を向けたままで、羽矢さんの言葉に答える事も、頷く事もなかった。
言葉を投げ掛けても響かない事に、羽矢さんは少し困った顔を見せたが、ゆっくりと口を開き始める明鏡をじっと見つめた。
「……継承とは……何を維持するものなのでしょう。そこにある象徴も、時の都合で変わる……ただそこに根強くもしがみ付いているものは、血統だけです。それが例え落胤であろうとも、興起の役に立つなら表にも出す……」
「だったら……言えばいいだろ。その紫衣……着けたくて着けている訳じゃねえってな」
羽矢さん……?
「……残念ですが」
明鏡は、ふうっと長く息をつくと、羽矢さんを見て、言葉を続けた。
「そもそも、この紫衣こそが僕の存在理念なのですよ。例え……」
明鏡の手が、紫衣を払うようにスウッと滑る。
「その色を変えても……ね……?」




