第10話 図画
骨骸を絡め取っていた回向が、急に羂索を解いた。
どうしたのだろうと、不思議に思う中、回向は直ぐに印契を結び始めた。
印契を結んだ手を振り切ると、捲れた衣の袖から種子字が現れ始める。
回向は更に腕を振り、現れた種子字を空間に放った。
その様子に蓮がクスリと笑みを漏らした。
「成程ね……」
深く頷く蓮に羽矢さんも納得を示す。
「理解出来ない者には、理解出来る法で開示する……強みだな」
「ああ、これは最強だろ。羽矢」
「そうだな。この処にも無かったもの……それを開示するとはね……」
「まあ……これは回向にしか出来ねえもんだしな」
空間に放たれた種子字が、洞穴の岩壁に張り付き、刻まれていく。
それを見つめながら羽矢さんが呟く。
「図画……か。だが……」
羽矢さんの目線がちらりと明鏡を見た。
岩壁に種子字が刻まれると、回向が法を説き始める。
「|説一切法清浄句門《せいっせいほうせいせいくもん 》 所謂……」
振り上げた手を止めると同時に、回向の声が止んだ。
明鏡を振り向く回向は、手をゆっくりと下ろす。
岩壁に全て刻まれる前に、種子字が消えてしまった。
回向は、思い直すようにも深く息をつくと、明鏡の元へと歩み寄った。
明鏡は、顔を伏せ、両手をギュッと握り締めている。
「弥勒……」
回向が明鏡の肩を掴んだ。
「やっぱり……お前がやれ」
回向の言葉にも明鏡は顔を上げる事なく、ただ手を握り締めているだけだった。
「お前がやれよ、弥勒」
「……深読みする事もなく、それがこの処にとって最も適しているのだと……だからその一つを手に入れたかったんだ」
「分かっている……設害三界一切有情 不堕悪趣……だろ」
「ああ。だけど……」
ゆっくりと顔を上げる明鏡。回向は、明鏡の肩をポンポンと軽く叩いた。
……それでも迷いはあるのだろう。
正しい導きが途絶えた、この処の因がはっきりと見えた時に、回向が持っているものでなければ適わないのではないかと……。
何処からともなく、バサバサと翼を広げた鳥が、天蓋の上を飛び回り、ギャアギャアと耳に障る鳴き声をあげた。
「なんか……乱れてんなあ……。羽矢、お前の言った通り、試されたな」
蓮が天を見上げながら、そう呟いた。そうは言っても、のんびりとした口調が余裕のある事を示している。
「ああ。武装し、兵となろうとも僧侶は僧侶だ。然暁の門弟であるなら、灌頂は受けているだろうからな」
「腐っても鯛、的な。か?」
ははっと笑って言った蓮の言葉に、羽矢さんの表情が、苦笑を交えて引き攣った。
「蓮……俺、そういうのあんまり好きじゃない……。微妙だが、それ……褒め言葉だって知ってるよな……?」
「ははは。確かに微妙なもんだな。僧侶という名に品格があるなら、その法名が諡号同様、鎧となるんじゃないのか?」
蓮は、ニヤリと意味を含めた笑みを見せる。
「それ……いい意味で言っていないよな? まあ……感覚的に理解出来るがね」
「ふん……だが、末法を危機的に感じていたなら、主な理由はここにあったって事だろ。なあ……羽矢」
蓮は、見上げたままの姿勢で羽矢さんに言う。
「後一つってさ……渡さないんだったよな? だが、それを知らない訳ではないんだろ?」
「まあ……渡さないと言うより、そのままでは渡せないって事だ。言うならば、問いを理解しようとせずに、単純に答えだけを求める。釈経だけって事だよ」
「釈経だけ、ねえ……それは面白くねえな。人の道具借りて仕事してんのと変わんねえしな」
「まあな。だが、そもそもの秘密は文字だけでは理解出来ない。図にして文字を理解し、文字にして図を理解する。それが回向の持つ中でも最強の図画……曼荼羅だ。蓮、お前だって言っていただろ。理解出来る者にしか理解させない、それが秘密だってな」
「ああ、そうだな」
明鏡が天を仰ぎ、意を決したように深く息をつく。
天蓋の周りを飛び交う鳥たちの鳴き声が、心地よい響きをもって音を奏でるようだった。
明鏡の様子が変わった事に、蓮と羽矢さんはふっと穏やかな笑みを見せた。
羽矢さんは、明鏡を見守るようにじっと見つめると、こう言った。
「門を開く者は、他門の方が優れているとは思いはしない。自身が決めた道に迷わない事だ」




