第36話 弘誓
ここが地獄であるという事も忘れてしまったかのように、和やかにも感じていたが。
「弘誓に依ての要門、等しく通じ得たか」
空気を震わすような閻王の低い声が流れた後、目の前の光景が変わり、僕たちは閻王の前にいた。
閻王は、先程まで目を通していたのか、鬼籍を閉じるとジロリとこちらを見たが、その目線は住職へと向いている。
真っ直ぐな目線に言葉を感じ、住職は閻王の方へと歩を進めて行く。
閻王の真向かいに立つ住職は、一礼すると閻王に答える。
「通じ得たかは、その鬼籍を見ればお分かりかと。ですが閻王……そう仰るのならば、既にお分かりだったのでは? もしくは、それがお望みであったかと」
閻王は、ふふっと笑うと住職に鬼籍を渡す。
「そうだな……中々に面白いものが見られたが……」
満足そうな閻王に住職は、鬼籍に目を通しながら、ふふっと笑みを漏らした。そして、鬼籍を閉じると閻王に言う。
「……閻王。浄界を望むが故の観想は、弘誓、つまりは誓願にあり、その誓願は等しく救うというもの。我が門に於いての誓願は、他門に於いての要ともなり、浄界に通ずる要の門……故に要門と言い、それは弘誓と対となるのも当然の事。そしてその弘誓は、どの門に於いても、同様のものを掲げているのですから、通る事の出来ない門ではありませんよ」
「ふふ……奎迦。随分と広い門を開いたものだな。生きとし生けるもの全て……死後に於いての追善も担うのも、また生よりの執念か……?」
随分と広い門を開いた……黒僧も同じ事を言っていた事を思い出す。
クスリと、揶揄うようにも意味ありげな笑みを見せる閻王に、住職は穏やかに答える。
「念が潰えれば、継承も潰えるというもの……あるべきものを失う事もまた、法難と言えるでしょう。閻王……地獄というこの処と我が門は、切っても切れ得ない相対……故に、我が門が掲げる誓願は、閻王あってのものですから」
閻王と話す住職を、じっと見つめる羽矢さんの表情は誇らしげだった。そんな羽矢さんを見る蓮の表情にも、笑みが浮かんでいた。
「奎迦……その継承は、事象に於いての因果を早期に見抜いていた。正に我の鏡も同然……我にとっても手放せぬ」
閻王の言葉に住職は、ふっと笑みを漏らすと振り向く。
「羽矢」
住職が羽矢さんを呼び、羽矢さんは住職の元へと歩を進めて行く。
住職は、羽矢さんに鬼籍を手渡し、羽矢さんも鬼籍に目を通すと、僕たちを振り向いた。
「黒僧……法名『然暁』諡号は多々あり、元よりの俗名は出家と同時に捨て去ったが為か、その名が記されていなかった事に疑念があった」
え……?
確か羽矢さん……黒僧の俗名を見ていたはずでは……。じゃあ……その俗名って……。
『複雑な上に、厄介だったよ。出家し、僧侶となった上で法名を持つが、あんた……遁世する以前に一度、還俗しているんだな。その時の俗名も見つけたが……』
「諡号に法名は、その身に纏う鎧のようなものでもあるが、鬼籍に記されていた名は、還俗させられた時に与えられた俗名。だがそれは……」
それは元より、生を受けた時に与えられた名でもなく、法名でもない。
羽矢さんが続けた言葉に、僕は驚いていたが、蓮は、その言葉を聞くに至った事に、安心したようにもふっと笑みを漏らした。
ああ……そうだ、蓮も羽矢さん同様、分かっていた事だった……。
「俗名といえども、『罪名』」




