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処の境界 拮抗篇  作者: 成橋 阿樹
第三章 内と外
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第9話 戯論

 黒僧が明鏡を振り向き、顔が見えると、回向が神祇伯を振り向いた。

「……親父」

 僕たちの少し後ろで一言も言葉を発する事なく、見守るようにじっと立っていた神祇伯が、呼び声に反応するように歩を踏み出し、回向の隣に並んだ。

 神祇伯は、真っ直ぐに前を見つめながら、回向が話すだろう言葉を待っている。

 回向にしても、自分が何を言おうとしているのか、神祇伯には分かっているのだろうと、口にする事を戸惑うように小さく息をついた。それは、神祇伯が言葉を返す事なく、静かに隣に並んだ事で察したのだろう。


 回向は、気を取り直すように表情を引き締めると、黒僧と明鏡に目線を向けながら、神祇伯に言った。


「因を調伏して滅する……それが親父の言っていた『業』なのか」


 回向の言葉に神祇伯は、そっと目を伏せると、静かに笑みを漏らした。

 ちらりと神祇伯を見る回向は、目線を明鏡に戻して言葉を続ける。


「業に基づく輪廻の界には善も悪もない無記だ。だが……業を成す事で果報が生じる。つまりは因果……それは始まりからなのか、終わりからなのか……いや。そもそも始まりは何処なのか、終わりは何処なのか……問えば問う程に、役に立たない無駄な問いになる、苦を生じさせるだけの戯論(けろん)。善か悪かを探求するよりも、救済の方便を尽くす事に意味を置く……それが覚りを得るという事だろ。救済の方便よりも先に因果を問うのは、苦から逃れる事の出来ない迷い……答えに辿り着く事なく、問いのみが繰り返され、それが聖道を覆う障害となり、末法を迎える要因ともなる……法は(すた)れ、救いを求める事も出来ない、廃仏同然の末法の世は、この世の終わりと終末論に転化される。だが……」

 回向は、一呼吸間を置くと、言葉を重ねていく。


「国を統治する王が、時を経てして代が変わる度、法が失われて行く。法とは正行の事だろ。権力争いの中で、正行は意味を履き違え、守るべきものの目的までが(わざわ)い回避と名目だけを置き、都合よく転化される。だが……」

 明鏡を見つめながら話す回向。

「親父は初めからそうしたかったんだろ? 物語に准えば、理解し難い現象も、記憶を引き出すようにも一致する。時はまた時を経て、救いのない時の中で、一切を救おうと努力する『聖王』が現れたなら、その聖王の元には『無上』の方便を持った『弥勒』が現れる……だろ?」

 黒僧と向き合う明鏡の表情に笑みが見えていた。

 その様子を見る回向は、ふっと笑みを見せたが、口にした言葉と同時に、少し寂しげな表情を見せた。


「俺の役目は……終わったのか……?」


 神祇伯は横目に回向を見たが、その目は直ぐに前を見る。

 そして、前を見たまま静かに言った。


「……その問いこそ、戯論だな」

「……そうだな」

 回向は苦笑しながらそう答えると、隣に並んだ神祇伯へと目線を向けてこう言った。


阿頼耶識(あらやしき)は善悪の種子の拠り所……もしも阿頼耶識自体が善であれば迷いは起きず、悪であれば迷いから逃れる事など出来はしない……」

 回向の呼び声に、神祇伯の目が回向へと向いた。

「通常、意識される事のない阿頼耶識は、眼、耳、鼻、舌、身、意、人という存在の根本となるその六識を含め、その最深層にある。だが、阿頼耶識は善でも悪でもない無記とされる。それは心であり、その心がどう作用するか……親父」

 続けられた回向の言葉を聞きながら神祇伯は、ふっと笑みを漏らしていた。


「そこに触れるとは、流石は……『瑜伽』だよ、親父」

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