火照る
クローゼットの扉にある隙間から、部屋の様子を見ることができる。
今日は月の明るい夜で、学習机も、ベッドも、本棚のあたりも、よく見える。
部屋の中央に置いたローテーブルと、その上のくまのぬいぐるみにも、今のところ変化はないようだ。
四角い箱のような部屋の中、淡い憧れや複雑な人間関係を小さな胸に秘めた少女の息遣いが、室内に飽和する。
部屋の中に置かれた全ての物が、シルエットとなって暗闇に同化する世界。クローゼットの中で体育座りになった十叶は、再び本を開いた。
(『かくれんぼ』って、何から隠れたらいいんだろう? 見つからないようにした方がいいんだよね?)
夜間、部屋の電気も消しているため手元も暗いが、どうにか月明かりの方へ本を差し出すようにすれば、文字は読めそうだ。
「えっと、続きは…。これで、恋の障害となる相手の生霊を呼び出す手順は全てです。朝まで待ち、朝陽の光を生霊に浴びせることができれば、霊は弱り、本体である人物の命を削ることができます。…え!? どういうこと…?」
あまりに突然与えられた情報で、頭が追い付かない。
というのも、十叶はこのおまじないの結末を、まだ知らないのだ。
「生霊を喚ぶなんて聞いてない! 一体、どういう…」
ポテン。
と小さな物音がして、十叶は慌てて身を縮める。今の音はなんだ? 何か軽い物が倒れたようだ。
しかし、本が倒れる音とも、ペンたてが倒れる音とも違う。
強いて言うなら、ぬいぐるみやクッションのような。
(ぬいぐるみ…!?)
なるべく物音をたてないように気をつけながら、十叶は今一度、部屋の中を確認する。
そこにあったのは奇妙な光景だ。とても不思議で、信じ難い光景。
部屋の中央のローテーブルの上に鎮座していたくまのぬいぐるみ。
それが今、消えた。
「いない…! 須藤さんがいない…!」
思わず声が出てしまって、意識的に自分の口を自分で押さえる。
テーブルの下、ベッドの上、本棚の前の床に、部屋の扉の前。クローゼットの隙間から見える範囲で探してみても、くまのぬいぐるみは見当たらない。
本当に生霊を喚んでしまったのなら、今は十叶の部屋の中を須藤さんがぬいぐるみに憑依して、動き回っているということだ。
それも無作為にうろついているわけではなく、十叶を探しているに違いない。
それは、一体なんのためか?
見つかるとどうなってしまうのか?
(見つかっちゃだめ…! 朝まで見つかっちゃだめ…!)
極力、物音をたてないように気をつけながら、クローゼットのさらに奥へと隠れる。
足下には帽子を入れた紙袋。シューズの箱が肘に当たる。ハンガーで吊るしたワンピースで、どうにか自分の姿を隠す。
それから、微かに自分の鼻が空気を吸い込んでいるのが確認できる程度の、浅い浅い呼吸を継続した。
須藤さんの生霊は、朝になれば朝陽を浴びて消えてしまう。そうすると須藤さん本人にも、相応の影響が出るということだろう。
まさか恋を叶える方法が、邪魔な人間を消すということだとは思いもしなかった。
(本を最後まで読んでおけば良かった…!)
息を殺してジッとしていると、部屋の中から物音が聴こえてくる。
スリスリと何かが絨毯の上を進んでいるようだ。それと同時に、コトンコトンと何かを引き摺るような音もする。
進んでくるのはぬいぐるみで、引き摺ってくるのは、テーブルに置いていたペーパーナイフだと、察しがついた。
(こんなことしちゃったんだもん。須藤さんに見つかったら、殺される…。 )
スリスリ… スリスリ…
コトン、コトン…
暗闇の中、狭いところでジッとしていると、急に底が抜けて落っこちるのではと不安になる。
なんか昔、そんな絵本を読んだことがあるのだ。しかし、現実にクローゼットの床板は硬く、だんだんお尻が痛くなってくる。
(朝まで見つかっちゃだめって、…須藤さんを見殺しにするみたい。でも仕方ないよね。こんな状況じゃ…!)
自分で自分が冷静ではないと思った。しかし、十叶も知らずに得た結果なので、まさか出ていくわけにもいかない。
スリスリ… コトトン…
と、音は続く。
どうやら歩幅はそれほどでもないようで、音の気配はまだ遠い。
しかし、確実にこちらに向かってきているのは間違いない。ベッドの下を探して、机の下を探したら、きっと次はクローゼットの中だ。
(朝まで持たない…。すぐ見つかる…。)
狭い場所に籠って服に埋もれて隠れているので、汗をかいてくるはずだ。ところが、体はどんどん冷えていく。
体の表面から順に温度が下がっていき、やがて足先が氷のようになっていく。
生きた心地がしないとは、まさにこのことだ。
そこで十叶は、あることに気がついた。
(そういえば、手に持ってるこの塩水、まだ使ってないよね…。つまり、本にはまだ続きがある?)
極力、音をたてたくないが、このままでは打開策もない。今、本は立てた膝の上に乗せていて、コップは手に持っている状態。
ここで開いても光がないので、本を読むことができないだろう。
鍵をかけた部屋の中、助けは当然、朝まで来ない。それに十叶はいつも自分の目覚ましで起きるので、お母さんが部屋に起こしにくるのも、寝坊している時だけだ。
『すぎなみ とうか…。 』
「ひ、」
本当に恐怖を感じた時の人間は、声も出ない。全身がガクガクッと揺れて、上の歯と下の歯が勝手にガチガチとぶつかり、変に深く息を吸い込む。
と、こういう状態になります。名前を呼ばれた。知っている声だ。
須藤さん。
呼ばれて返事をしてはいけない。
ゴトン、ゴトン
と音はふいに大きくなる。くまのぬいぐるみがポテポテ歩いていても、こんな音は出ない。
まるで、誰か家の中を家捜ししているような音だ。
バサバサと、本棚から数冊の本がまとめて落ちる。鉛筆が転がるような音もした。
「ひ…、ひぇ…。」
今、机のあたりだ。何も考えられなくなって、十叶は夢中で膝の上の本を持ち上げた。
月明かりに当てようとして、勢い余ってクローゼットの扉に内側から本を打ち付ける。
ゴンッ
と、そこそこ大きな音が出た。
(しまった。)
という思いは一瞬にして通り過ぎる。十叶のそのゴンッの音と同時に、家捜しする生霊の気配も止まる。
隠れ場所は気付かれたのだろう。わかっているし、もうそれどころではない。
十叶は本の続きを読んだ。