須郷綾音、来訪
5日目の朝。
俺はいつも通り、早朝のトレーニングをするために外に出た。
ピティもよちよちと着いてくる。
今日行うのは初日にもやった腕立てだ。
「うっし。気合い入れよう」
腕立ての態勢を取り、今まさに開始しようとしたその時だった。
誰かが俺の前に立った。
見下ろすような視線を首筋に感じ、俺の体は硬直する。
……誰だ?
俺は腕立てを中止し、素早く立ち上がった。
ピティも俺の頭の上に登ってくる。
「何だ、あんたは?」
女だ。
黒の背広を着た女がそこにいた。
艶やかな黒髪は肩まで伸び、明るみを増していく日の光をはね返している。
こちらを見つめている女は、漫画の世界から飛び出してきたかと思うくらいにスタイルが良く、すれ違った男は全員振り向くに違いない。
が、彼女の顔を見ればナンパする気なんて失せてしまうだろう。
彼女の顔は整っているものの、どこか話しかけづらい雰囲気を放つ吊り上がった目と三白眼を持ち、そこから凍てつくような視線が放たれている。
雪女のような雰囲気だった。
美しいことに間違いはないが、若干近寄り難さを感じる。
女は黙って俺を見ていた。
あまりにも異世界に不似合いなその格好は、気味悪ささえ感じる。
「何か用か?」
沈黙。
俺は負けじと話しかける。
「まだ中で人が寝てるんだ。あいつらに用があるならもう少し──」
「……開いた穴を塞ぐために、現地の人間との暮らしを取ったか」
女が突然口を開いた。
「可哀想にな」
可哀想。
こうは言うが、決して同情しているわけではないと俺は悟った。
この女の口調には、深い嘲りが混ざっている。
見下されているような気分になり、俺は顔をしかめた。
「……何の冷やかしだ? そもそもあんた……」
「そんなものじゃ、満足できないんじゃあないか?」
俺を遮るようにして女は言った。
「私は知っている。お前の精神状態は極めて不安定だ。こんなもので心は治せない。自分でもわかっているだろうに、現地人に依存しようとする。だから可哀想だと思った」
「……」
「お前の心の傷は、死んだ親友と元の生活が戻らないと癒えない。そうだろう?」
「!」
俺ははっきりと、驚愕を表情に出していた。
この女は今、死んだ親友と口にした。
何で知っている。
少なくとも俺にこの女との面識はない。
それなのに、何で見ず知らずの女が俺の心の痛みを知っている。
「疑っているようだな。ともかく、私は君を知っている。君が何に悩み、何に怒るのか。全てわかってあげられる」
「…………もう一度聞く。何の用だ」
「話がある」
女は口角を上げて、不気味な笑みを作る。
俺はこの瞬間、本気でこの女を幽霊の類だと思った。
「お前に、傷を癒す方法を伝授したい」
起床したトゥピラ達も、突然の来訪者に気づいた途端に慌て出したが、俺に用があって来た人だと伝えると多少は落ち着いてくれた。
みんなで布団を畳んでいる最中、ゾーリンゲンが俺に耳打ちしてきた。
「キレーな人だぜ……。お前もそう思うだろ? ん?」
「どうだかな。俺はちと不気味に感じる。生きてる人間じゃあないみたいだ」
「おいおい、なんてこと言うんだよお前。美人と美少女には最高レベルの敬意をだな……」
ゾーリンゲンの垂れるご高説を右から左に聞き流しながら、俺は窓の外からこっちを見ている女に視線を向けた。
布団を畳んだらトゥピラ達はギルドに食事を取りに行くので、それまで待ってくれるよう頼んだのだが、あっさりオーケーしてくれた。
それにしても、気味が悪い。
あれは何の感情もこもっていない顔だ。
俺の傷を癒す方法を伝授しに来たと言ったが、本当の目的は何なんだ。
警戒する必要がありそうだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
トゥピラ達はいつも通り、ギルドへ赴いた。
俺は彼女らを見送った後、女を小屋の中に招き入れた。
「ちっぽけな家だな」
「俺に言われても困るよ……」
ぶつぶつ言いながら、俺は彼女のために椅子を引いた。
女が座ったのを確認すると、俺は彼女の向かい側の椅子に腰掛ける。
途端に、ピティが俺の頭から飛び降り、彼女の膝に乗っかった。
「……」
彼女は、膝に乗るもふもふを赤子をあやすかの如く優しく撫でた。
「名は?」
俺達はテーブルを挟んで向かい合い、視線をぶつけ合った。
「そういえばまだ名乗っていなかったな」
女が言った。
「私は須郷綾音。この世界に来る前は、警視庁で刑事をやっていた」
言い終わるのと同時に、彼女は警察手帳を取り出して俺の前に掲げる。
なるほど、確かに警視庁のものだ。
須郷綾音というのも偽名ではなさそうだし、階級は警部補とある。
警察官で間違いないだろう。
「……なるほど。俺は──」
「名乗る必要はないよ、木佐岡利也くん」
もう驚く気にもなれなかった。
この女がなぜ俺の名前を知っているのかは気になるが、本題はそこではない。
「……驚かないか」
「あとでじっくり問い詰めてやる。それよりも、ここを訪ねてきた理由を教えてもらおうか」
「まあ、そう焦るな。せっかちな男を避けたがるぞ、女という生き物は」
俺は眉をひそめて、須郷の顔を睨みつける。
須郷は感情の読み取れない表情を保ち続けていた。
「1番気になっていることだと思うが、私に敵意はない。むしろお前のことを好意的に見ている方だ」
「……」
俺は黙って須郷の言葉に耳を傾けた。
「敵意があるなら、この場で即座に拳銃を構えてぶっ放し、脳の組織をぐちゃぐちゃにしている。それをせずに、しかもこんな無防備な状態で、銃を持つお前……さらに言えば、戦闘のプロであるお前が居座る住居に踏み込んでくる敵がいるか?」
「いたら相当なクソ間抜けだな」
「だから、信用してくれて構わない」
頷くが、こいつは本心ではない。
ここで気を許せば、それこそクソ間抜けだ。
しかし、須郷は俺の心を見透かすかのようにすっと目を細める。
「……私はお前を助けに来たんだ。そんな相手を信用しないでどうする?」
「お宅ら警察の言う通りにしてるだけだ。詐欺師は甘い言葉を使ってくるって、啓発ポスターに書かれてた」
「おっと、これは……」
須郷は苦笑した。
「まあ、詐欺だと思うなら思えばいいさ。後悔する結末を迎えたいなら止めない」
「……ますます詐欺師くさいな」
話を遮った俺を無視して、須郷は言葉を続ける。
「この世界、特にこの国は面倒な状態にある。安全保障、経済、文化、全ての分野で問題を抱えている。この手の世界にはありがちな魔王の侵攻だけではないんだ。今は何もわからないと思うが、じきに『さっさと帰りたい』と思うだろう」
「……」
「私も訳あって日本に行きたくてな。お前と私、目的はおなじ。そうだろう?」
「……ちょっと待て。何が目的だって?」
「真面目に聞いてないのか?」
そんなつもりはない。
須郷だってわかって言っているのだろう。
人を小馬鹿にするような口ぶりだ。
「いいか、私の目的はこの世界を脱出し日本へ行くこと。これは私が果たすべき使命であり、お前のぶっ壊れた心を治す唯一の手段だ。だが、お前は日本に帰るだけでは立ち直れない。そうだろう?」
「……」
「私はな、知っているんだ。この世界を出る方法、お前の失った友人を生き返らせる方法。こんな方法知りたくもなかったが、それを知るように私の運命のレールは敷かれていたようでな」
須郷は深いため息をついた。
その瞬間、俺の脳内に膨大な情報──否、記憶と言うべきか──が流れ出す。
テロ発生を報じるテレビ。
無差別の銃撃を浴びる国民。
大荒れするネット。
治安出動が発令されないことに怒る同僚。
そして、駐屯地で経験した悪夢。
俺は思わず身を乗り出した。
須郷の整った顔がぐんと近くなった。
「知ってる? あんたが?」
「そうだな。確実に戻れる保証はないが、知っている」
「やり方は? どうやったら日本に帰れる! どうやったら佐原は生き返る!」
「なるほどな、ご友人は佐原というのか」
「それはどうでもいい。早く教えてくれ。俺に、この俺に! この世界を脱出できる方法を! 俺は自衛官だ! 日本が危機的状況にある中で、こんなところでうかうかしていられないんだよ! 一刻も早く戻らなきゃならないんだ!」
須郷は目を閉じて考える素振りを見せた後、ぽつりとつぶやく。
「鍵だ」
「鍵?」
「そうだ。今から話すのは、協力者からの受け売りだから、そこは留意してほしい」
俺が頷いたのを確認すると、須郷は語り出す。
「これは神話の話になるが、この世界には、向こうとこっちの世界を繋げる"扉"があるとされている。それがどこにあるのかは私にもわからない。古代魔法の類なのかもわからないし、なんのために作られたのかもわからない。そもそもあるのかもわからない。何せ神話だからな。そして、その神話の結末は、扉を通れるようにするための鍵が何者かに壊されて、2度と開かなくなってしまったということになっている」
「それじゃあ、詰みなんじゃねえの?」
「ところがな、破壊された鍵は15個の破片に分裂し、各地に散らばった。そして、選ばれた15人の体の中に入り込んだ。鍵の破片が入り込んだ15人は他人が身につけられないような不思議な力を手に入れた」
須郷は一拍の間を置いて、こちらを窺うような視線を送ってきた。
「当然、こんな話を信じる奴はいない。こっちと向こうを繋ぐ技術は確立されていないも同然。だが、私は違う。私はその与太話を信じ、私的な目的で技術を確立したいと考える。そのために鍵の破片の保有者を全て見つけて、体内の破片を手に入れる。破片の所持者は殺してもいい。破片が壊れさえしなければどれだけ弾丸をぶち込んでも構わない。やってくれるよな?」
何も言えなかった。
ただ、この女の口から飛び出してきたおかしな話を、頭で理解しようと頑張ることしかできなかった。
黙っていると、須郷は小さくため息をつき、立ち上がった。
ピティはそれに合わせて床に飛び降りる。
「お前は私を完全に信用しきれていないな。疑っているだろう? 私が何者かまだわかっていない」
「……」
「今夜にでも、敵が来るだろう。それを乗り越えれば嫌でも私を信用するさ」
「敵だあ? 何のことだよ」
「今夜のお楽しみさ」
須郷はニタリと笑ってみせる。
雪女のように凍りつきそうな、不気味で美しい笑み。
そんな彼女を、俺はどうしても信用することができなかった。
今夜やってくるという敵についても、だ。
【国家神聖法】
王国でかつて起こった内戦の最中に、臨時政府によって樹立された国法。共産党党首ガルージンが草案。科学技術の全面的な禁止や徹底した平和主義、国民の人権の保護等を定めている。最近では国粋主義者を中心に改正の動きが出ている