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サキ作品集

雨の季節の小休息

作者: サキ(原著) 着地した鶏(翻訳)

「ラティマー・スプリングフィールドさんを招待しておきましたからね。日曜日は我が家で一緒に過ごして、夜は泊まっていってもらいましょう」


 朝食の席でダーモット夫人はそう告げた。


「ラティマー氏は選挙で悪戦苦闘してるんじゃなかったか?」と夫が尋ねる。


「それは、もちろんそうだけど、今度の水曜は投票日でしょう。あの人、苦労人だからその日までに心身をすり減らして亡霊みたいになっちゃうと思うの。こんなひどい土砂降り続きの中で選挙活動をするのを想像してみてごらんなさいな。二週間、来る日も来る日も、ぬかるんだ田舎道をとおって学校に顔を出して、雨漏りのする教室でじめじめした聴衆に向かって演説するのよ。だからラティマーさんには、日曜の礼拝堂への顔見せを朝のうちに終えてもらって、その後すぐに我が家に来てもらうのよ。政治がらみのことはみんな追いやってしまって、十分に休養を取ってもらいましょう。いったん政治のことは忘れてもらいたいから、階段のところの『長期議会を解散させるクロムウェル』の絵は外しておいたわ。それに喫煙室の馬の絵も。あの絵、ラダス号の馬主は自由党の党首だったローズベリー卿でしょう。そうそう、それからヴェラちゃん」とダーモット夫人は十六歳になる姪に向けて続ける。

「髪飾りのリボンの色にも気を配るのよ。間違っても、青や黄色は選んじゃダメよ。敵政党の色ですからね。翠緑色エメラルドグリーン橙色オレンジも同じくらいよろしくないわ。今回の争点はアイルランド自治法案についてだから、それを連想させる色はダメよ」


「ちゃんとした場では、髪飾りはいつも黒いリボンと決めてますから」とヴェラは威圧的に答えた。



 ラティマー・スプリングフィールドは、少しばかり陰気な年寄りじみた青年であり、普通の人が半喪服で過ごす時のような気持ちのまま、政治の世界に足を踏み入れたのだった。けれど、熱狂的な性格ではないものの、かなり熱心な努力家ではあった。選挙の間はずっと重圧に押しつぶされそうになりながら働いていた……と、そこそこ近くでラティマー氏を見てきたダーモット夫人は力説する。女主人が強く勧めてきた安らかな小休息を、ラティマー氏も手放しで歓迎したものの、それでも完全に頭を空っぽにするには、大戦おおいくさを前にした神経質な気持ちのたかぶりが大きな足枷あしかせになっていた。



「票を稼ぐために、夜半よなかに起き出して最後の演説の準備を始めるのはわかってるんだけど」とダーモット夫人は残念そうに呟く。

「それでも、昼下がりから夜更けまでの間は、政治のことからは距離を置かせてあげましょうね。それ以上はどうしようもないですからね」


「それは、そのときにならないと分からないんじゃないかしら」とヴェラは呟いた。ただし、心の中でだった。



 ラティマー氏は寝室の扉もほとんど閉めずに、演説原稿や選挙公報パンフレットの山に没頭していた。そして、万年筆と手帳を取り出して、使えそうな事実と控えめな絵空事を整理する。そして作業を始めてから三十五分ほどった頃だろうか。屋敷はさながら神に捧げられたにえのように大人しく、田舎らしい健康的な眠りに浸っていた。だがそのときだった。廊下の方からキィキィと息苦しそうない甲高い鳴き声と何かが暴れ回る音が聞こえてきて、そのまま誰かが扉を大きく叩く。


 ラティマー氏が返事をする暇も無く、大荷物を抱えたヴェラが部屋に飛び込んできた。そして、こんなお願いを一言。

「これ、ここに置かせてもらってもいいでしょうか?」


「これ」というのは小さな黒い豚と、頑健さを絵に描いたような黒赤混じりの軍鶏シャモだった。


 ラティマー氏も人並みには動物好きだったし、特に経済的な観点で小型の家畜の飼育には興味を持っていた。実際、そのとき取りかかっていた選挙公報パンフレットの一つでは、この田舎村の養豚および養鶏産業のさらなる発展について熱弁をふるっている。だが、いくら寝室が広いとはいえ、鶏舎と豚小屋のサンプルと過ごすのは、できることなら遠慮願いたかった。


おもてかどこかの方が、その子らも嬉しいんじゃないでしょうかね?」

 ラティマー氏は、豚と鶏に配慮する姿を見せつつ、言葉巧みに自分の要望を告げてみた。


おもてなんてありません」と耳を疑うほど強く、ヴェラは言い放った。

「屋敷の外は、渦巻く濁流で水浸しです。ブリンクリー村の貯水池が決壊したそうですわ」


「ブリンクリー村に貯水池があるなんて知りませんでしたよ」とラティマー氏。


「ええ、もちろん今はもうありませんけど。貯水池の水は元気にあちこちと広がってしまいましたから。それに、この屋敷はひときわ低い土地に建ってますの。ですから、ここは今ちょうど内海うちうみの真ん中なんです。ほら、川の水が堤防から溢れ出ているのが見えるでしょう」


「ありがとう、もういい分かった! それで、亡くなられた方は?」


「言わせてもらいますと、死屍も累々(るいるい)ですわ。二番女中セカンド・ハウスメイドもビリヤードルームの窓の前を流れていったご遺体を三つほど見つけてます。ですけど、その若いむくろは三人とも自分の婚約者だ、女中メイドさんは言うんです。きっと、ここら一帯の男性みんなと次から次に婚約しているか、まったく見分けがついていないかのどちらかでしょうね。ああ、もしかしたら、同じご遺体が何度もぐるぐると同じところをただよってるのかも。考えてもみませんでしたけど」


「それよりも、外で人命救助をすべきでは?」

 地元民の注目を浴びたい一心で、国会議員候補の本能がラティマー氏の口をついて出てきた。


「できませんよ」とヴェラはきっぱり断った。

「うちに小艇ボートはありませんし、住宅街とは激しい水流でさえぎられてますもの。叔母さまは、お客さまが部屋で大人しくしてくれて、これ以上混乱を増やさないことを切に望んでおりますわ。でも、この軍鶏シャモの『ハートルプールの奇蹟きせき』を一晩預かっていただけたら、親切な方だと叔母さまもお喜びになるでしょうね。ご存知のとおり、当家には他にも軍鶏が八羽いて、一緒にしたら癇癪女みたいに荒れ狂って喧嘩を始めるんです。なので、寝床は一羽ずつそれぞれ離しておかないといけません。ですけど、鶏小屋はまるごと流れてしまいましたの。それと、このちっちゃな仔豚も預かってくれたら嬉しいんですけど。この子、可愛らしいところはあるんですけど、お行儀の方が悪くて、母豚ははおや譲りなんでしょうね……いえ、なにも豚小屋で溺れ死んだ母豚ははおやのことを悪く言うつもりはありませんわ。かわいそうに。この子に本当に必要なのは、ちゃんとしつけてくれる大人のしっかりとした腕なんです。私も力ずくで組み伏せようとしてみましたが、部屋のチャウチャウを抑えつけるので精いっぱいでした。うちの犬、豚と見るとところかまわず飛びかかるんです」


「その豚、浴室に置いとくことは叶いませんかね?」

 ラティマー氏は弱々しく聞いてみた。願わくば、寝室の豚の件についてはチャウチャウのように断固とした立場を取りたかった。


「浴室ですって?」

 ヴェラは甲高い声で笑った。

「お湯が出ているかぎり、あそこは朝までボーイスカウトでいっぱいですよ」


「ボーイスカウトですと?」


「ええ、まだ水が腰の高さくらいのときに、ボーイスカウトの方が三十人ほど救助に来てくださったんです。でも、水面はさらに三(フィート)も上がってきてしまって、逆に私たちが救助する羽目になりました。今は何組かに分けてお風呂に入ってもらって、服は乾燥機で乾かしてます。ですが、服はびしょ濡れなので、もちろんすぐには乾きません。廊下や階段には裸の青年が並んで、それこそテュークの描く海辺の絵のような様相になってまいりましたわ。その中でも二人の男の子には、ラティマーさんのメルトン生地の防寒外套オーバーコートを着させてますわ。きっと喜んでそうなさると思いまして」


「あれはおろし立ての外套オーバーコートだったんですよ」

 ラティマー氏は心底嫌そうな表情を顔いっぱいに浮かべていた。


「それで、ハートルプールの奇蹟の面倒は見てくださるんですよね?」とヴェラ。

「この子の母鶏ははおやはバーミンガムで三度も一番に輝き、この子自身も去年のグロスターでは雄鶏おんどり部門で二番になったんですよ。たぶん、ベッド下の手摺てすりを止まり木にすると思いますわ。お嫁さんを何羽か連れて来た方が、羽根をもっと伸ばせますかね? 雌鶏めんどりはみんな食糧庫に押し込んじゃいましたけど、一番お気に入りのハートルプール・ヘレンなら連れてこれますわ」


 ハートルプール・ヘレンの件についてはラティマー氏も遅まきながら固辞してみせた。ヴェラもこれ以上食い下がることはなく、とりあえず軍鶏を即席の止まり木にえて、仔豚に愛情のこもったお別れを告げると、そのまま部屋を後にした。

 仔豚は落ち着きもなくあちこちを探検しようとするが、灯りさえ消えてしまえばそれも収まるだろうと思い、ラティマー氏は服を脱いで全速力でベッドに潜り込んだ。居心地のいい藁床わらどこの豚小屋の代用品としててがわれた部屋ではあったが、散策してみても仔豚の興味を惹くものは出てこなかった。だが、豪奢に仕立てられた豚小屋でもなかなかお目に掛かれない逸品を、悲嘆に暮れるこのけだものは不意に見つけてしまったのである。何かというと、ベッドの台座のとがったかどの部分だ。丁度いい高さにしつらえられているものだから、仔豚はうっとりしながら背中やお腹をゴロゴロとその角に擦り付けはじめた。背中の丸め方にはこだわりがあるらしく、痒いところに手が届いた瞬間には間延まのびした歓喜の豚撫ぶたなごえを鳴らすのだった。文句を垂れることしかできないラティマー氏を横目に、軍鶏の方は松の木枝こえだに揺られる夢でも見ているのか毅然とした堂々たる姿でベッドの揺れに耐えていた。

 豚の胴体に何度か平手打ちをかましてみるラティマー氏だったが、それがゴロゴロへの非難や停止勧告だとは豚の頭も理解せず、単にサービスで気持ちのいい刺激をくれていると思ったようだった。どうやら、この問題に対処するには人の固いこぶし以上のものが必要らしい。豚を思いとどまらせようと、ラティマー氏は武器を探しにベッドから這い出した。部屋の灯りは消えていたものの、仔豚がラティマー氏の行動を察するには十分な明るさだった。そして溺死した母豚から受け継いだ素行の悪さが遺憾なく発揮されることになるのだった。寝室の征服者が脅迫的に何度か鼻を鳴らし、顎を奮わせてカチカチと歯音を立てると、ラティマー氏は跳び上がるようにしてベッドに戻らざるを得なかった。そして仔豚は、熱意も新たに按摩術マッサージを再開した。

 眠れぬ長い時が続く中、目下ベッドの下で繰り広げられている問題から目を背けようと、ラティマー氏は恋人に先立たれた二番女中に真っ当な同情の念を寄せるなどしてみた。だが気付いてみれば、何人のボーイスカウトが自分のメルトン地の防寒外套オーバーコートを借りているのかということばかりが頭の中を巡る。乞食に衣服をいて施したと伝わる私心無き(マルグレ・リュイ・)聖マルティヌス(サン・マルタン)の役はお気に召さないらしい。


 夜明けが近づくと仔豚も幸福な眠りに落ち、ラティマー氏もそれに続きたいところだった。だが、時を同じくして寝呆ねぼまなこのハートルプール野郎が興奮のき声を上げる。そしてガタガタと音を立てながら床に着地するなり、衣装箪笥の鏡に映る自分に向かって果敢に決闘を挑み始めるのだった。この鶏の世話を多少なりとも引き受けていたのを思い出したラティマー氏は、挑発的な態度の鏡にバスタオルを被せてハーグ仲裁裁判所の役を買って出たものの、もたらされた平和というのは局地的なもので短命に終わった。

 勢いのやり場を失った軍鶏だったが、今のところ無害な眠っている仔豚への奇襲と絶え間ない攻撃という形で新しい捌け口を見つけてしまう。続いて起こった決闘はいかなる仲裁の可能性も絶たれた、死に物狂いの惨々たるものだった。羽根を持った闘士は、たとえ強く突き飛ばされてもベッドに退避でき、戦況にも自在に適応することができた。仔豚の方は軍鶏と同じ目線に立つことは決してできなかったが、その高いところに身を投じようと幾度いくどとなく突進を続けていた。


 両陣営ともに決定的な勝鬨かちどきを挙げることはできず、女中メイドが目覚ましのお茶を持って現れる頃には、決闘は事実上の停戦状態となっていた。


「あらら、お客さま」

 女中は驚きを隠すつもりもなく大声を上げた。

「お部屋に上げたがるほど、そのけだものがお好きでいらしたんですか?」


 お好きなわけあるか!


 長居をしたことに気付いたかように仔豚は扉から飛び出し、軍鶏は堂々たる態度でそれに続いた。


「大変、あの豚がヴェラお嬢さまの犬に見つかってしまったら……!」

 女中は叫びながら、大惨事を避けるために急いで立ち去った。



 ラティマー氏が窓の方に歩み寄りブラインドを上げると、冷酷な疑念が心を覆った。軽く小雨は降っていたものの、川が氾濫した痕跡などはほとんど見当たらなかった。


 三十分ほどしてラティマー氏は朝食の席に向かう途中でヴェラに出会った。


「君が故意に嘘をついたとは思いたくはありませんが。時として、やりたくないことをせねばならんこともあるでしょう」とラティマー氏は冷ややかな目線を向けた。


「どうあれ、夜通し政治に没頭することにはならなかったでしょ」とヴェラは答えた。


 それは、もちろん、確かにその通りだけど。


原著:「Beasts and Super-Beasts」(1914) 所収「The Lull」

原著者:Saki (Hector Hugh Munro, 1870-1916)

(Sakiの著作権保護期間が満了していることをここに書き添えておきます。)

翻訳者:着地した鶏

底本:「Beasts and Super-Beasts」(Project Gutenberg) 所収「The Lull」

初訳公開:2021年1月1日



【訳註もといメモ】

1. 『雨の季節の小休息』(The Lull)

 「The Lull」の邦題としては、古くは新潮文庫の「休養」(中村能三・訳)やサンリオSF文庫の「ひと休み」(中西秀男・訳)などがあり、新しいものとしては白水Uブックスの「休養にどうぞ」(和爾桃子・訳)がある。ただし、英単語「Lull」のそもそもの意味は「凪、小やみ、小康」であり、どちらかというと「雨や風がおさまる」「状況が落ち着く」といったニュアンス方が強い。なので既邦題の「休養」というのは直訳というよりも、本文中の「The restful lull(安らかな小休息)」からの転用(意訳)の意味合いが強い。

 また、この短編の欠かせぬ舞台装置に「雨」がある。「雨が小降りになる」という「Lull」のニュアンスを活かしたいと思い、拙訳では「雨の季節の小休息」を邦題とした。既邦題の中では中西秀男の「ひと休み」が「Lull」に近いかもしれない。


2. 『長期議会を解散させるクロムウェル』(Cromwell dissolving the Long Parliament)

 十七世紀の英国、清教徒革命における一場面。議会改革を巡って軍部と長期議会は長らく対立していたが、その対立は激化の一途を辿る。軍を後ろ楯にしていたオリヴァー・クロムウェル(Oliver Cromwell, 1599-1658)は軍部の意向に逆らえず、武力による長期議会の解散に踏み切った。1653年、長期議会の議場でクロムウェルは「もう潮時である、諸君らがそこに座っていられるのももう終わりだ(It is high time for me to put an end to your sitting in this place)」と大立ち回りを演じ、軍隊を率いて議場から議員たちを追放した。長期議会を解散させた後、クロムウェルは護国卿に就任し独裁政治が始まる。

 この場面を題材とした絵画には、アンドリュー・キャリック・ゴウ(Andrew Carrick Gow, 1848-1920)の「Cromwell dissolving the Long Parliament」(1907)や、時代は少し遡るがベンジャミン・ウエスト(Benjamin West, 1738-1820)の「Oliver Cromwell dissolving the Long Parliament」(1789)がある。


3. 『ラダス号の馬主ローズベリー卿』(Lord Rosebery’s ‘Ladas’)

 ローズベリー卿とは、19世紀末に英国首相を務めた第五代ローズベリー伯爵アーチボルト・プリムローズ(Archibald Philip Primrose, 5th Earl of Rosebery, 1847-1929)のこと。ラダス号はローズベリー卿が所有していた競走馬(二冠馬)で、1894年の2000ギニーステークスとダービーステークスで優勝したものの、セントレジャーステークスでは二着となり、英国クラシック三冠を惜しくも逃した。


4. 『アイルランド自治法案』(Home Rule)

 1801年のグレートブリテン王国によるアイルランド併合以来、アイルランドでは民族自治の要求が高まっていた。1886年と1893年の自治法案は庶民院で可決されたものの貴族院で否決され廃案。だが1911年に制定された議会法によって「庶民院の優越」が定められて、1914年に「自治法案(Home Rule Act)」こと「アイルランド自治政府法案(The Government of Ireland Act 1914)」が可決された(ただし第一次世界大戦の勃発に伴い施行停止)。

 自治法案が取り上げられた選挙と言えば1910年の英国総選挙である。この選挙で自由党と保守党に次ぐ第三党となったアイルランド議会党は自由党支持を条件に自治法案の議会提出を勝ち得た。そして1914年、アスキス内閣の下で上述の通り自治法案が可決する。

 ちなみに作中でダーモット夫人がヴェラの髪飾りで注意している「翠緑色や橙色」はアイルランド国旗の色である。また、敵政党の色が青(保守党)や黄色(自由党)なので、ラティマー氏が所属しているのはは緑(アイルランド議会党)か赤(労働党)の政党なのだろう。


5. 『ブリンクリー村』(Brinkley)

 ブリンクリー村はイングランド東部ケンブリッジシャーカウンティの小さな村で、近くには競馬で有名なニューマケットがある(余談、上述のラダス号が優勝した2000ギニーステークスはニューマーケット競馬場で行われる)。ブリンクリー村に貯水池があったからは定かではないが、周辺には川が何本も流れており、ケンブリッジシャー自体が低地に属するので、河川の氾濫というヴェラの嘘も真実味を持って受け止められたのだと思う。


6. 『ハートルプールの奇蹟』(Hartlepool’s Wonder)、『バーミンガム』(Birmingham)、『グロスター』(Gloucester)

 ハートルプールはイングランド北東部ダラム州の港街で、第一次大戦の頃は鉄工と造船で栄えていた。バーミンガムは産業革命の頃に発展したイングランド西部ウエスト・ミッドランド州の工業都市。グロスターはイングランド南西部グロスターシャー州の州都。いずれもイングランドの地名であるが、イングランドにおける闘鶏は1835年以降「動物虐待に関する法(Cruelty to Animals Act 1835)」で禁じられていることに留意したい。物語の舞台が1910年の英国総選挙の時期だとすると、この一羽の軍鶏がハートルプールでどのような奇蹟を起こし、母子ともどもバーミンガムやグロスターで開かれた何の大会で勝利を勝ち得たのかは気になるところである。闘鶏は禁じられているのだから品評会というのが無難なところだが、闇闘鶏かもしれない。ヴェラの口からは何も語られないのが、さらに怪しさを増している。


7. 『ボーイスカウト』(Boy Scouts)

 英国の軍人ロバート・ベイデン=パウエル(Robert Stephenson Smyth Baden-Powell, 1st Baron Baden-Powel of Gilwell, 1857-1941)がボーイスカウトを創設したのは1908年のことで、ちょうど物語と時代を同じくする。創設の発端は英国軍がゲリラ戦に苦しめられた南アフリカのボーア戦争で、マフェキング包囲戦での士官候補生部隊(Mafeking Cadet Corps)の働きぶりに着想を得たことによる。


8. 『テューク』(Tuke)

 ヘンリー・スコット・テューク(Henry Scott Tuke, 1858-1929)は英国の印象派の画家。海と裸の青年の絵を得意とし、代表作は「八月の青(August Blue)」(1893/1894)。


9. 『私心無き聖マルティヌス』(Saint Martin malgré lui)

 聖マルティヌスと呼ばれる聖人は数多くいるが、フランスの聖人でかつ外套マントに関するエピソードを持つのは、ヨーロッパ初の聖人として知られる「トゥールの聖マルティヌス」だろう。マルティヌスは三世紀のローマ人であり、軍人時代にガリアのアミアンに派兵されていたときの出来事が「マントの伝説」として今に伝わる。アミアンの城門の傍で裸同然の乞食を見かけたマルティヌスは衝動的に自分のマントを半分に割いて乞食に渡した。後にこの乞食がイエス・キリストだったことを知り受洗した、という伝承である。

 ちなみに仏語の「malgré lui」は直訳すると「彼自身に関わらず(despite himself)」であり、「いやいやながら」と訳されることもある。キリストとは知らずにマルティヌスはマントを割いたので、「私心無き」と意訳してみた(仏語はよく分からないので、もっと良い訳があれば教えてほしい)。


10. 『ハーグ仲裁裁判所』(Hague Tribunal)

 ハーグ仲裁裁判所(Hague Tribunal)こと常設仲裁裁判所(Permanent Court of Arbitration)は国際紛争の仲裁・調停を目的として1899年の第1回ハーグ平和会議でオランダのハーグ平和宮に設置された国際仲裁法廷である。同じくハーグ平和宮にある国連の国際司法裁判所(International Court of Justice)もHague Tribunalと呼ばれるが、こちらはハーグ仲裁裁判所とは別機関であり、また第一次世界大戦後の1922年に設立した常設国際司法裁判所(Permanent Court of International Justice)を前身とするため、サキの存命中には存在していない。


11. 『ヴェラ』(Vera)

 「ヴェラ」という名の少女は以下の五つの短編に登場する。


「The Open Window」(Mrs. Sappletonの姪として)

「The Lull」(Mrs. Durmotの姪として)

「A Touch of Realism」(Vera Durmotとして)

「The Quince Tree」(Mrs. Bebberly Cumbleの姪として)

「The Almanac」(Vera Durmotとして)


 同一人物かはどうかについて明言は避けるが、次の「The Open Window」の一文から推して知るべきだろう。


 Romance at short notice was her speciality.

 (作り話を即興で話すこと。それがこの娘の得意技だった。)

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[一言] 内容を知らないまま指摘された単語の「日本語」の意味からちょっくら雨宿りと言ってしまいましたが、 この内容だと「雨宿り」とは違う気がしてきました。余計なことを言ってしまいました。 「文脈からT…
2021/01/02 11:30 (ちょっくら)雨宿り
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