第六話 7月7日(1)
翌日。
僕は光の速さで弁当を食べ終え、視聴覚室へ。
学校のPCは申請すれば自由に利用できる。もっとも閲覧したページがすべて記録されるし、サイトの閲覧制限もきつめだ。積極的に通う生徒もあまりいない。
持ち込んだメモリーを差し込み、いくらかの操作を経て再生してみる。どうやら無事に再生できた。
「いくぞー」
「いいよー」
近所の河川敷だ。おそらくは三脚に固定されたカメラが僕と伊吹奇を映している。
互いにミットを持ち、野球のボールを投げ合う、何の変哲もないキャッチボールの映像だ。
少し早送りしてみるが、遠くて顔がよく見えない。一旦消して別の動画ファイルを開く。
「とれよー」
「うーん」
あれ、またキャッチボールだ。
そしてまたカメラが遠い。二人を同時に収めるためなのは分かるが、15メートルぐらい離れていて、声もほとんど聞こえない。このときの僕は10歳ぐらい、伊吹奇は7歳ぐらいだろうか。僕はやや直線的に投げられるが、伊吹奇は山なりに投げて、どうにか届くというところだ。
そういえば一時期、弟とよくキャッチボールをしていた。弟がその様子を撮影していた気もする。
それは覚えているが、他の場面はないのだろうか。
動画ファイルは11個。プロパティによれば僕が9歳から10歳にかけて、弟は6歳から7歳にかけてか。
驚いたことに全部キャッチボールの光景だった。
「なんだこりゃ??」
父さんと母さんの映った動画がない。僕のワンショットも、弟の自撮りもない。
これは何だろう。いらないデータをこのメモリーに集めておいたのか?
そうだとしてもこんな動画に何の意味が……。別に弟とはキャッチボールしかしなかったわけでもない、公園で遊んだり、駄菓子屋で買い食いしたり、弟が上級生にいじめられてたとこを助けたこともあったのに。まあ常にカメラを持ってた訳でもないけど。
メモリーを間違えたのだろうか。しかし、それっぽいタイトルのものはこれだけだった気がするが……。
「でも、なつかしいな……キャッチボールかあ」
そういえば弟はそれを気に入ってたような気もする。今日はいつ行くのか、早く準備しろとせっついて、僕も真夏だろうと雪の日だろうと、ちょっと雨が降っていようと付き合わされたものだ。
それである日、野良犬に……。
「あ……」
思い出してしまった。犬に襲われた件だ。
飼い主がリードから手を放してしまい、大型犬が一直線に弟に向かってきた。犬はグローブに食らいつき、すごい力で手を振り回す。やがて手がすっぽ抜けたが、弟はわんわん泣いていた。
犬は興奮しきっており、食べ物とでも間違えたのか、グローブをめちゃくちゃに噛み始める。僕はそれを止めようとして……。
手を見る。まだ跡が残っている。その犬に思いきり噛みつかれた跡だ。
「痛かったなあ……」
ようやく思い出にできるほどには過去のこととなったが、それから数年は犬がトラウマになっていた。
弟は手首を捻挫していたが数日で完治。僕は何針か縫ったが3週間ほどで目立たなくなった。怪我が治ってからキャッチボールに誘ったが、弟は確か、こう言った。
――あのグローブ、もう捨てちゃったよ、穴が空いてたもん
それなら仕方ないか、とのことで、キャッチボールもそのまま行われなくなった。
まあ、そのような思い出話はともかくとして、家族に関しての情報には何の収穫もなかった格好である。
「……まいったなあ」
僕は視聴覚室を出て屋上へ向かう。窓を震わせる陸上部の掛け声、それより遠くから風に運ばれてくる蝉の叫び。もう時間がない、誰か結婚してくれと必死の絶叫。
『そうか、まだ見つかってないんだね』
ラジオさんにこれまでのことを報告する。アルバムや過去の記録、そのようなものが見つからなかったことを告げると、少し考えるような沈黙があった。
『……カラノスケくん、君の家では家族写真を撮らなかったのかい?』
「はい、あんまり」
『家族旅行や、外食や買い物なんかは?』
「たまにありましたけど、写真は撮らなかったですよ」
『そうだね……そういう家庭ももちろんある……』
びゅう、と屋上を吹きすさぶ風の音。砂ぼこりの混ざった強い風が校舎の屋上を襲い、建物に沿って折れ曲がってグラウンドに吹き下ろす。
『カラノスケくん、君の家では、その……家族が一緒に入浴することは稀なのかい?』
ラジオさんの言葉は何か言いよどむ風だった。別にプライベートな問題でもないと思うので、僕は素直に答える。
「はい、風呂が狭いですし、必ず別々に入るようになってました。ごく小さい頃は母さんと入ってましたけど、7歳ぐらいからずっと一人でした」
『それは弟さんも?』
「そうですね」
『……』
数秒、沈黙があったが、ラジオさんはころりと口調を変えてこう言う。
『まあそんなことより、伊吹奇さんが水をかけられたらしいね。そちらを検討しよう』
「はい?」
その事も説明はしたけど、なぜそっちを優先?
「あの、ラジオさん、僕は本当の家族のことを……」
『カラノスケくん、基本的に、僕が君の家族について答えを言えるとは思わないでくれ』
「え……?」
『まず、互いにどこにいるかも分からない他人の関係であるというのが一つ、その状態で不確定なことは言えない。あとは、そう、解悟のようなものだね』
「かいご、って何ですか?」
『悟りを開くことだよ。いいかい、禅の思想において悟りとは言葉では伝えられない。どのような考えに至れば悟りなのかは、悟った本人にしか分からないんだ。では禅僧が悟りに近づくためにはどうするのか、悟りに至った人の行いを真似るしかない。だから過去の高僧がやったように食事に制限を加え、修行をして、同じテキストを学ぶんだよ。他の人間からこのような思想が悟りです、と説明されても、それが正解かどうか解るはずがないんだ』
「ど、どういうことです」
『いいかい、その事態は君だけの、君の家族だけの問題なんだ。君自身の力で解決せねばならないんだ。そのために僕は方法だけは伝えてあげられる。家族の抱える問題に寄り添うことだ』
「寄り添う……」
『作品が気に入らないから撮り直す、立派なこだわりだ。しかし、バケツの水をかけられるのは穏やかじゃないし、このままでは映像研究会が廃部になってしまう、そうだろう?』
「そ、そうです」
『ではそれを解決するんだ。出演していた三人の女生徒と伊吹奇さんを和解させ、撮り直すか、あるいは現行のものにオーケーが出るように説得する。君にしか出来ないことだ』
予鈴が鳴り響く、もう行かなくては。
「ラジオさん、何か変ですよ、何かに気づいたんですか?」
『いいかい、カラノスケくん、人生とはロングレンジで見れば喜劇であり、クローズアップで見れば悲劇だ。チャップリンの言葉だよ』
「はい?」
『喜劇の薄皮を剥ぐならば、そこには悲劇の果肉あり。だが恐れてはいけない。いつかは必ずその実に触れなければ……』
がらんがらん、と強風によりアンテナが揺れ、ラジオさんの言葉が聞き取れなくなる。
ばさあ、と屋上の防水シートがめくれあがり、フェンスがぎしぎしときしむ。何かがカンカンとフェンスへの衝突を繰り返し、閉まっていた屋内への扉がばあんと開く。
僕は一瞬の戦慄を覚える。建物の中から怪物が飛び出してきたかのような錯覚。客観的にはノブが錆び付いており、カンヌキがしっかりかかっていなかったための挙動だ。
だがドアは内部で爆発すよるうに一気に開き、蝶番が限界までしなり、吹き戻しの風に煽られて破滅的な音とともに閉まる。ばがあん、という音が天空に拡散していく。
もう行かねばならなかった。僕はラジオさんに別れを告げて立ち上がったが、ラジオさんの声はよく聞こえなかったし、何か言ってるのかどうかも分からなかった。
防水シートの剥離。それにより屋上が閉鎖されると聞いたのは、その日のホームルームでのことだった。