第五話 7月6日(4)
からから……
ガラス戸をなるべく音を抑えつつ開く。
そして抜き足差し足をしつつ進む。やってることは泥棒のようだ。廊下には踏むと音が鳴るポイントがあるので回避しつつ、両手両足で猫のように階段を登って二階へ到着。
二階には二つの部屋が並んでおり、階段を登って奥側が伊吹奇の部屋だ。いちいち弟の、妹のと意識するのがなんだか混乱してくるけど、ともかく伊吹奇の部屋である。
そういえば三年ぐらい中に入っていない。飾りっ気のない部屋だった気がするが。
鍵はないので、そっとドアを開ける。内部は薄黄色の布団のかかったベッド、ライトグリーンの壁紙。枕の周囲を飾るのは大量のぬいぐるみである、伊吹奇がクレーンゲームで集めてきたものだ。海外モデルのカレンダーにポップな印象の置き時計、机はレースのテーブルクロスの上から大きめのアクリルの下敷きがかけてある、なんだかお洒落な印象だ。
伊吹奇の部屋はめったに入らないが、なんとなく少女趣味が加わってる気がする。あの伊吹奇が偽物なら、少しづつ内装を変えてるのだろうか。
「えーっと、そういえば動画ってどうやって保存してるんだろう。ビデオテープなわけないと思うけど」
パソコンでもあればそこを調べるのだが、我が家にはパソコンというものがない。家族全員でスマホを持っているので、ネットはそれでやることになる。
学習机の引き出しはプリント類だけだった。
三段の小さなタンスがあったので開けてみる。初段はシャツとか短パンとかの衣服。二段目は靴下とか手袋とか小物が色々、三段目は空だった。
ん、いや、よく見れば三段目だけ妙に浅い。これは二重底だ。さてはここに、と思って僕は中板を外す。
パステルカラーの下着がもわっと出てきた。
「うわっ!?」
カラフルなもの、黒や赤のビビッドな色のもの、なんだか高級そうなレースのものもある。
こ、ここは違うか。え、でもなんで二重底に下着を? これは妹の方の伊吹奇が持ち込んだものか? し、しかし大量にあるけど、ちゃんと衣装は持参して来たんだな。
ええと、じゃあベッドの下だろうか。
そして見つかる。積み木が入ってるような木枠の箱に収まるのは、合皮のケースに収まった伊吹奇のカメラだ。見た目は普通のハンディカメラだが、アマチュア映画なら十分なレベルでの動画撮影が可能らしい。
そしてUSBメモリも出てくる。安売りのときにまとめて買ってきたもので、内容が書かれた付箋が貼られていた。
いわく「風景ロケハン1」「ワニ男」「風景ロケハン2(郊外)」「テスト撮影」「一年時文化祭」「小6修学旅行」「黒い人」「人物撮影1」「人物撮影2」ええと他には……。
あった、「家族オフショット」と書かれたメモリ。これだ。
「何してるの」
心臓が口から飛び出すかと思った。
「なっ……」
振り返って目を見張る。そこにいたのは中条深天、そう名乗る女性だ。
彼女はバスタオル一枚を巻いた姿で、漆黒の日本髪から水滴を滴らせながら立っていた。しっとりと濡れた髪が首のラインに沿って張り付いている。思いのほか驚異的なボディラインが張り付いたタオルで強調されている。
前髪が片目にかぶさっており、何も感情を見せない瞳が僕を見下ろしている。
まるで気配がなかった。
いや、気持ちが高ぶってたからだろうか。しかしドアを開ける気配も感じないなんて。
「どうしたの、妹の部屋に勝手に入っちゃダメよ」
その眼。切れ長で薄く開いた眼が僕を見ている。顔立ちや体つきはまだ成人していない女性の丸みを残しているが、その佇まいに隙のなさが、つま先から肩まで芯の入った印象がある。まるで映画で見た侍のような。あるいは彫像のように静かな立ち姿で、表面的な感情が見えない。
まるで追尾型の監視カメラに見つめられるような無機的な感覚、冷ややかな底知れなさ……。
どうしてここに。
僕が出掛けていないのに気付いた?
なぜ追ってきた。
口封じ。
今ここで。
肩甲骨のあたりで筋肉がひきつる。感情が渋滞して身動きが取れない。
ぽたぽたと、彼女の足元に水滴が垂れるのを見て、咄嗟にそこに意識が向く。
「か、母さん! びしょ濡れじゃないか!」
「……そうね、ごめんなさい」
彼女のことも便宜上、母さんと呼ぶしかないだろう。
母さんはバスタオルをほどき、それで頭をがしがしと拭く。
「うわ!?」
咄嗟に目をそらす。少女の名残をとどめる薄桃色の肌が意識野の大半を埋める。
母さんはそのまま脇腹や背中も拭いて、足をあげて腿や足の裏も拭く気配がするが、僕はダンゴムシのように背骨を丸めたまま硬直している。
さらに床も丁寧に拭いて、ようやくバスタオルを巻く気配がしたので、おずおずと顔を上げる。
「泥棒かと思ったのよ。慌てて出てきちゃったわ」
母さんはそう言うが、さすがにその言葉をそのまま信じられない。
おそらく、僕の動きを警戒していたのだ。
どうするつもりか、このメモリー、もしや彼女たちにとって都合の悪いものでは……。
「用が済んだなら早めに出なさいよ」
そして去っていく。
……。
え、それだけ?
極限まで高まっていた緊張が、一気にしぼむ感覚がある。
なぜあっさりと帰ったのだろう? 僕を慌てて追いかけてきたのではないのか?
僕は少し迷ったが、「家族オフショット」のメモリーをポケットに入れて部屋を出た。
心臓はまだばくばくと鳴っていた。そして彼女の肌もしっかりと記憶に留まっていて、僕は複雑で理不尽で、こんがらがった感じの罪悪感にさいなまれる。
「母さーん、帰ったぞー」
と、そこで一階から声がする。あれは中条烈火、父さんだと名乗る謎の小学生だ。
「うわ母さんどうしたバスタオル一枚で、宅配の兄ちゃん誘惑ごっこか」
どんなごっこだ。
「何でもないわ、空之助が伊吹奇のパンツ盗もうとしてただけ」
「してないよ!」
さすがにそれは大声で否定し、どたどたと階段を降りる。
「か、買い物行ってくるから」
「そうね、お願い」
烈火は……父さんはと言うと朝と同じケチャップ色のシャツと黒の短パンという姿で、コンビニのレジ袋を持っていた。
「なんだ買い物か、じゃあコーヒーゼリー買ってきてくれ、100円で3つ入ってるやつ」
「う、うん……」
「お父さん、給料日でしょ、まず渡してくださいな」
「はいこれ」
と、レジ袋から何かを取り出して母さんに渡す。
本当に稼いでいるのか?
いったいどこで、何の仕事を、というか学校はいいのかこの小学生は。
そこも大変に気になるところではあったが、このときの僕は一刻も早く家から、中条深空の視線から逃れようとしていた。
僕は父さんの日焼けしたうなじと、そこにかぶさる茶色がかった髪をちらりと見つつ家を出た。むっとするような夏の空気が流れこんできて、その熱気をかきわけるように外に飛び出る。
何かに追われるように走り、角をいくつか曲がったところで、溜め込んでいた緊張がどっとせり上がってきて息を荒くする。
「どうなってるんだ……」
頭が痛くなってくる。突如として空が緑色に変じたような不安。恐るべきことに、この生活はどうやら成立しつつあるのだ。
奇妙な安定感を持ちつつ、本当に日々の生活が回ろうとしている。生活費を父さんが稼ぎ、母さんが家事をして、伊吹奇は学校生活と部活をこなす。そして僕には何もできない。僕以外の誰もこの異変を指摘してくれない。
あるいはこの絵図に乱れがあるとすれば、それは僕の違和感だけなのだろうか。
実は僕が錯覚しているだけであり、家族は昔からあの構成だった……。
そんなはずはない。
僕は錯覚などしていないし、今の家族はあまりにも不自然だ。
ポケットの中のものが証明してくれるはずだ。弟の伊吹奇が残した、このUSBメモリが……。