第三十五話 8月12日(2)
そいつは近付いてはこない。
かろうじて輪郭が見える程度に存在を示して、付かず離れずの距離を保っている。存在するのかしないのか、意思を持つのかどうかも不確かな、己の影のように曖昧な存在だ。
離れていても一瞬で僕たちをくびり殺せると言いたいのか、あるいは自分の姿を見せたくないのか。
おそらく後者ではないか、という気がする。あの「黒い人」の姿こそがキッドナッパーの本来の姿であり、見られること自体が弱みを晒すことになるのではないか。
なぜならここはあくまで中条空之助の妄想の世界。桁外れの怪人とはいえ僕と同調しなければ入ってこれないはずだ。中条の家で母親をやっていた頃の姿は仮のものであり、本来あいつには定まった姿など無いのではないか。ぬらりひょんの母さんに定まった名前や戸籍が無いように。
一歩、近づく。
気のせいか距離が変わらないように思える。奴も引いたのか。
開け放たれた中条家のドア、そこから放たれる光が道路を扇状に照らしている。
僕が立つのはその端。もしこの光から一歩でも出たなら瞬時に連れ去られ、永遠に全ての人の前から消える、そんな予感もある。
あいつが強引な行動を取れないのは、ここに母さんがいるからだ。あいつにとってはどちらも逃がせない、失えない……。
これは交渉というよりは、魂を削り会うような攻防。僕は闇に向かって声を張る。
「キッドナッパー、お前に僕を食わせてやってもいい。中条空之助の妄想に過ぎない僕でも、お前なら食えるんだろう」
闇は答えない。
「だが、中条の家には二度と近づくな。夏奥の町にも現れるな。今ここで誓え、それが条件だ」
闇は答えない。
「お前は分かってるはずだ、お前はかろうじて僕たちに認識できる程度の距離にいる。いるのかいないのかも明らかにしたくない、そうだろう? お前は本当はこの場所にも来ていない、そういうことにしたいはずなんだ。全ては僕の一人相撲であり、事態はとうの昔にお前の勝利で終わっていると」
闇は答えない。
「誰かにこう言えばいい、僕こそはお前の作り出した最大の成功例であり、全てはお前の勝利で終わったのだと。僕は中条の家だけ残せればそれでいいんだ。だがここで母さんまで喰らおうとするなら、僕は自分で命を断つ。それは……僕を手に入れられなかったという事実は。お前にとって致命的な意味を持つんじゃないのか」
闇は……。
闇の濃さが増す。
僕の周囲で夜が深みを増すかに思える。
それは錯覚ではない、僕の周囲で風景が消え始めているのだ。視野の左右から町の気配が失せていく。
「カラノスケ、これ……!」
母さんも息を呑む。
地面が泥沼に変じたかのように、あらゆる建物が沈んでいく。コンクリートの基礎が傾き、音もなく急速に、窓が埋まり、屋根までも。
町が沈んでいる。すべての家が、電柱が、遠景にシルエットとして見えるビルが、あるいは山すらも霧のように溶けて空気に拡散するかに見える。
「大丈夫、ただの脅しだ」
脅しでないなら、勝ちの目はない。
僕はもはや崖っぷちの賭博師。何一つ恐れることはない。ただただ無限にチップを重ねていくだけだ。
星も遠ざかる、月までも消えている、天地の感覚すら曖昧になって、完全な闇の中に中条の家だけが浮かぶように見える。
「ずいぶん必死なんだな、僕に何か行動を起こしてほしいのか。だが無駄だ、僕はこれ以上進まない、僕が欲しいならお前が来るんだ」
光の端で手を差し出す。全身の苦痛に耐えながら。
「分かったぞキッドナッパー。お前は完璧すぎる。だから完璧を崩されることを恐れている。ここで母さんに逃げられるリスクは負えないし、僕を失うこともできない。僕との交渉もしたくないんだ。だがもう時間がないぞ!」
「! カラノスケ、あなた……!」
母さんは気づいただろうか。僕の顔が青ざめてきたことに。息が不自然なほど荒くなっていることに。そして匂いに。ガムテープを何重にも巻いて押さえているその出血に。
陰腹を切る。
つまりは切腹。いざやってみると想像以上の苦痛だ。顔から汗は吹き出してくるし、体は燃えるように熱いし視界は揺らいで意識も朦朧としている。
だが、すぐに落命するほどではない。今から適切な治療を受ければ命は助かるだろう。この世界でそんなものが受けられればだが。
母さんの震える声が聞こえる。
「なんてことを……!」
「いいんだよ母さん。これでいい。そもそも僕に死なんか無いはずなんだ。僕は中条空之助の脳細胞の一部が生み出している妄想。ここで消えればまた空之助の一部になるだけだ。何も変わりはしない」
母さんの悲哀に満ちた嗚咽が伝わる。心まで砕けるような圧し殺した叫び。
「ここでキッドナッパーに食われるなら、僕は奴の一部になって生きてもいい。だが、そうでないなら僕は帰るよ。怪人としての生き方は選ばない。空之助の脳内に帰る、中条の家に……」
闇は……。
動かない。
こちらを見ているのかいないのか、人の姿をしたものが闇の最奥で佇むのみ。
こちらに何の意志も示すまいとしているのか。
僕との交渉など受けられないと言いたいのか。僕に選択肢を突きつけられたくないのか。悩みや葛藤を持っていたくないのか……。
そして。
上空に、何かが。
それは重量数万トンに及ぶ立方体。基部がボロボロに砕けているコンクリート製のビルだ。夏奥の中心にあったビルをここまで持ってきたというのか。
それが落下する。その巨大さゆえに奇妙にゆっくりと見える速度で、破滅的な破壊力を宿しながら。
「……そうか、すべて破壊する、それがお前の選択」
大丈夫、この天変地異のような攻撃は、これが僕の認識の中だけの事象だと分からせるためのもの。現実の夏奥の町には何も起こっていない。
「強引すぎるな、不格好だぞ、キッドナッパー」
お前は結局、何も選べなかった。
僕を手に入れるということは、母さんを失うということ。完全な怪人となった僕に対しては母さんの比重は軽かったはずなのに、お前は選ばなかった。わずかでも手に入らないものがあることに耐えられなかった。
もうお前はこの町にいられない。母さんも食えはしない。この攻撃はキッドナッパーの仕業ですらない。
お前は最初からいなかった。
この無人の世界を砕いて、最初からいなかったかのようにどこかへ消えるしかないんだ。せいぜいどこかの時間で、誰かに自分の勝利を語るがいい。
「――僕の」
僕の主観の中でなら、確かにこう言える。
「中条家の、勝ちだ……」




