第三十四話 8月12日(1)
世界に最初から一人であったなら。
その人物は、孤独を感じるだろうか。
そうではあるまい、その人物は己が孤独であることすら理解しない。
一人で生きる怪人とは、一人を選んだ怪人のことだ。
それはつまり、振り切る強さを持つ怪人。
群衆の賑わしさも、恋人や友人から受ける示唆も、家族の安らぎすら振り切って旅立つ強さ。
この僕、世界で一人きりになってしまった僕に必要だった最後のピースとは母さんだ。
僕を最後まで認識し続け、僕自身の意思でそれを振り切るべき関門となれる人物なのだ。
それが、キッドナッパーが用意したものだったなら。
「母さん……僕は家を捨てるべきと思った。たった一人の存在になるべきだと。でもこれだけは、その前にどうしても確認しなきゃいけないんだ」
いつしか日付も変わろうとする刻限。僕は中条家の灯に照らされ、最後の戦いに挑む。顔には熱帯夜のためだけでない汗が浮かび、鼓動も早くなるかに思える。
起きうることの全てが怪人の手の上、そういうことだって考えうる。
しかし、抵抗を放棄することはできない。
誘拐犯とは何者で、何ができて、何を望み、僕たち中条家に何をしたのか。それを考えなければ。
全てを見通すことなど不可能。
だが、それでも抵抗はできる。行動を選択することはできる。ならば、結末に変化も生まれるはずなのだ。
この異変が中条家と誘拐犯との戦いだとすれば、何をもって怪人の勝利となるのか……。
「母さん、僕は伊吹奇の撮影した映画を見た。キッドナッパーに関する噂を集めた映画だ」
「……?」
「それによれば……キッドナッパーは子供を拐い、どんな姿にもなれて、どんな相手でも食べてしまう存在だという。もちろんこれはただの噂。でも伊吹奇の集める噂には力があるんだ。真実に向かおうとする力が」
「それは……私もキッドナッパーの噂は聞いてる。でもあれは何だか要領を得なくて、おそらく人間には理解不能なほどの怪物……」
「そうかも知れない。もしまったく理解の外の存在なら僕たちに勝ち目はない。だけど僕たちに理解できる範囲で考えるなら、そいつは行動が一貫してない。キッドナッパーは怪人を生む、ならなぜ子供を拐うのか。何にでもなれるというのは何なのか。ミラちゃんのように他の組織に干渉して怪人を作らせたり、自分の手で育てたり、方法が一つでないのは何故なのか」
母さんは、ぬらりひょんである彼女は僕の言葉に何かを連想するのか、はっと息を飲む気配がある。
「こういうことじゃないかと思う。キッドナッパーとは、怪人を食べる怪人」
「……!」
それは真実とは程遠いのかも知れない。
だが、この連想には意味があると思える。もし僕の考えが全くの的はずれだとして、それが何だというのか。もはや僕の考えを笑ってくれる人もいない。ならば出来る限り考えを推し進めるべきだ。
僕は奥歯を使って舌を噛み、苦痛に耐えつつ言葉を続ける。
「怪人を食べて、その力を取り込む怪人。あるいは怪人を支配下に置いて操る怪人。だから子供を拐って怪人に変える。どこかの組織に干渉して怪人を作らせる。もっと言うなら己のいる町に怪人を集める。キッドナッパーにとって他の怪人はすべて餌か手駒、自分を強大にするための糧なんだ」
ラジオさんとミラちゃん。
彼女たちもまたキッドナッパーの犠牲者なのか。大いなる運命にすら干渉する怪人により、彼女たちは人生を狂わされたのか、あるいは引力に引き寄せられたのか。
伊吹奇がミラを見つけたこと。
あるいは、僕がラジオさんと知りあったことすら偶然ではないというのか。
そして、僕の前に存在する扉は二つ。
一つは茨の道、もう一つは奈落への穴が開くのみだ。
「可能性は二つなんだ。最初から母さんは別人になどなっていない。どこかで取り込んだぬらりひょんの姿と力を使って、別人になったように見せかけた。全ては最初から演技であり、さっきの別れをもって僕が完成した後は、その僕をも取り込むはずだった」
「そんな、はずは……私はあなたを騙してなんか……」
「そう、きっと騙してなんかいない。もし全てが演技なら、もう僕に勝ち目なんか存在しない。だからこの可能性は考える必要がない」
「……?」
母さんもさすがに困惑している。
僕の方は喋るうちに考えがまとまってきた気がする。必要なことは事態の看破などではない。僕に何ができるのか、この事態における中条家の勝利とは何か、ということだ。
「僕たちに勝ち目があるとすれば、母さん、あなたがキッドナッパーに操られているという場合だけだ。あなたはどこかでキッドナッパーに破れ、操り人形にされている。そしてキッドナッパーの去った後の中条の家を維持させ、僕に能力が目覚めた後は、その完全な覚醒を促す。それなら、わずかに勝ちの目がある。キッドナッパーにとって最良のシナリオを崩すという意味での、灰のような勝利が」
「まさか……」
「母さん、母さんなら自覚すればできるはず。自分が操られているのか、いるとすればどうやって操っているのか。催眠か、薬か、母さんの力ならそれを破ることもできるはず」
勝利条件とはすなわち、中条家に母さんを残せるかどうか。
もし母さんがキッドナッパーの変装ではなく、別個に存在する怪人なら勝ち目はある。母さんをキッドナッパーの呪縛から解き放ち、中条の家に残せるという、針の穴よりも小さな可能性が。
洗脳やマインドコントロールにおいて、覚醒を促す最大の要因は「洗脳されている自覚」だという。
だがそれは剣の林を歩くような苦痛。洗脳とは解ける寸前が最も苦しいのだ。狂っていた自分を認めることになるから。
「私、は」
人間を超えるほどの力を持つ母さんでも、やはり簡単なことではないのか。廊下に膝をついて倒れ、浅く速い呼吸をしている。
「母さん、よく思い出して。できるはずなんだ。誰に命じられてここへ来たのか。過去の自分との間に一貫性はあるのか……!」
「私は……」
母さんがこの家に現れたタイミングはやはり不自然。どうか当たっていてくれ、そうでなければ……。
「……そう、かもしれない」
苦痛に眉を歪め、胃を焼かれるような苦痛を現しながら母さんが言う。
「可能な限り思い出した……普段は思い出さないこと、眠っている間のことまで思い出しても、どうしても数十分の記憶の欠落がある……。もしかして、私はそこで……」
「その欠落の直後、この家に来たんだね」
「ええ……吸い寄せられるように足が向いて、でもそれは、いつもそんな風に無意識で行き先を決めていることだけど……確かに、どこか自然ではないような、何かの誘導を受けて中条の家に来た……ような気が……」
揺らぎは見えた。ここからだ。
心は昂っている。全身の細胞が焼けるように熱くなるかに思える。僕は目に力を入れて言葉を続ける。
「母さん、中条家にとって最大の勝利とは、中条家が四人とも揃っていることだ」
「……? ええ、もちろん……」
「このままでは、僕が消えた後の中条の家は安泰ではいられない。伊吹奇はともかく母さんはキッドナッパーに狙われるかも知れない、あるいは父さんも……」
「カラノスケ、一体何を言ってるの、何だか怖い……」
「だから僕は!」
ひときわ大きな声が暗闇の町を震わせる。母さんがびくりと身をすくめ、僕は激しく息をつきながら周囲の気配を探る。
「僕の命で家族を救う! 出てこいキッドナッパー! お前が手に入れられるのは一つだけ! この僕だけだ!」
気配が。
それは僕が気付いたわけではなく、向こうから放った気配だろうか。
暗がりの奥。
僕の眼には、あるいは僕と同調している母さんの眼には、町の灯がなく星明かりだけが照らすかに見える世界。
道の奥に影がある。闇よりもなお暗い。見通せない夜の中でもさらに視線を遮るような暗憺たる影。
人影だ。
だが小さい、子供のような、人形のような。
あるいはひとかたまりの球体のようにも見える影。
若く美しい今の母さんにはない粘っこい気配、何百年も生きる魔女のような独特の異臭、これが。
「誘拐犯。会いたかったよ……。元、母さん」




