第三十三話 8月11日(3)
別れが長ければ辛さが募る。
僕は母さんを引き離すように腕を伸ばし、そして背を向ける。
「待って!」
「母さん、追わないでくれ」
僕はやぐらの梯子を降りて、最後の数段をえいと飛び降りる。
「これでいいんだ、こうあるべきなんだよ。大丈夫、僕は一人でも生きていける。母さんは本来のカラノスケと、家族を守ってあげて」
「カラノスケ……」
母さんの声は嗚咽が混ざっており、その声を聞くことは胸が軋むような苦痛だった。僕は提灯に照らされた参道を逆向きに戻り、石段を降りて境内の外に出る。
町を歩く、歩くごとに己の足音以外の音が遠ざかり、僕の周囲であらゆるものが死に往くかに思える。
一人でも生きていける。
そう言葉に出したものの、それはやはり、暗い夜の海に漕ぎ出すような不安もある。
気ままに生きればいいとは言うけれど、やはり色々とやらねばならぬことは浮かんでくる。服のこととか、入浴のこととか。
そういえばスマホを家に置いてきたなと思い出す。だがもう必要ない。どうせスマホは通話もできず、ネットにも接続できないだろう。
「家か……」
住む家を持たずに彷徨する、それは母さんの生き方とは真逆だなと思う。
僕は静かな世界を歩きながら、家族のことを思う。母さんのこと、父さんのこと、伊吹奇のこと、ラジオさんやミラちゃんのこと、あまり付き合いが深くはなかったが同級生のことも思う。
だがそれらも、すべて振り切らねばならない。
すべてを捨てて生きると選択したのだから。
「……」
気がつくと、夏奥高校の付近に来ていた。
夏休みの今は来ることもない、町の灯が消えている今ではいっそう寂しい闇色の箱。
「あれ……」
……なぜ僕はここに来たのだろう。
閉ざされた校門の前にたたずみ、門の隙間から校内をじっと見つめる。
一人になりたかった? 違う、僕はずっと一人だ。
闇が欲しかった? なら目を閉じればいい。
何かを探しに?
そんなはずはない、教科書もすべて家にあるし、もう学校など……。
心に去来する、名前。
「……伊吹奇」
そうだ、浮かぶのはその名前だ。僕の妹であり、真実に迫る力を持っている映画監督志望。
それは無意識の連想。
何かしらの理由があるはずだが、どのような順序でそれが浮かんだのかうまく説明できない。
だが、伊吹奇が。
僕の妹が、何か重要な意味を持つような気がする。
なぜ? 僕はもう町を捨てる。
一人きりの存在になって、世界に旅に出るつもりなのに、そのように選択したのに。
まだ説明はできない。
文字がバラバラにされた小説を見るような心境だろうか。文字がバラバラであっても、それが恋愛劇なのかホラーなのかが何となく察せられるように、僕は自分の連想から何かを連想しようとしている。自分が何に気付こうとしているのか知りたがっている。
その衝動が僕を突き動かす。あるいは完全に自由な、無敵の存在となったことが行動力を生んでいるのか、僕は正門を乗り越えて校舎の中へ。
伊吹奇にまつわる場所は教室ではない。中等部にある部室棟だ。歩くのが困難なほどに暗いが、僕は不思議な大胆さを纏って進む。
プレハブの部室棟、その3メートル手前まで接近してようやく存在が分かるほど暗い。僕はスライド式のドアを目指して歩き、到達すると同時に直蹴り。
プレハブの扉は脆弱な作りだった、何度か蹴飛ばしているうちに扉がレールから浮き、隙間が空いたところへさらに蹴り。やがて完全にレールから外れ、奥側へ倒れる。
ようやく電気をつける。暗順応していた目に強い刺激があった。
僕は室内をかき回すこと数分でそれを発見する。菓子折りほどの大きさの木箱だ。
中にあったのは伊吹奇のカメラとUSBメモリ。
いわく、「風景ロケハン1」「ワニ男」「風景ロケハン2(郊外)」「テスト撮影」「一年時文化祭」「小6修学旅行」「黒い人」「人物撮影1」「人物撮影2」
伊吹奇の部屋にあったメモリーカード。部室に移していたのだ。僕が勝手に見たから、部室のほうが安全と判断したのだろう。臨時の俳優以外には部員もいない部活だし、人目から隠すには一番安全だと言える。
……黒い人。
ワニ男は春先に撮られたモキュメンタリー、当時に町で噂になっていたワニ男とはラジオさんのことだという。
では黒い人とは何か? 僕が気になっていたのはこれだったのか。
伊吹奇のカメラを使って再生。一人きりの世界で映画が始まる。
人がまばらな学校のグラウンド、季節は冬なのか、街路樹は枯れている。
いや、ここは夏奥中ではない。遠くにはブランコやジャングルジムも見える、ここは夏奥の小学校か。
『黒い人とは夏奥の町に存在する噂だ。私は友人知人を辿り、それについての噂を集めた』
『黒い人のことですよね。知ってますよ。なんでも食べちゃうんだって』
『誰よりも強くて、どんな姿にもなれるって』
『子供を攫うんだって、怖いよねえ、小さい子が多いとか』
首から上が見切れた人物へのインタビューが続く。まだ動画編集のスキルを持っていなかったのだろうか。
『……以上、多くの生徒に取材を試みたが、断片的な情報が得られるのみだった。我々はさらに取材を続けようと思う』
…………。
短い内容だ。10分もない。
インタビューしているのも中高生ではない、みな小学生だった。視点が同じ高さだったから、インタビューしているのも小学生の頃の伊吹奇だろうか。これはかなり古い映画のようだ。
「子供を攫う……」
……それは連想せざるを得ない、誘拐犯だ。
では、知らず知らずのうちに伊吹奇はキッドナッパーの噂に触れていたのか。それは実際には僕たちの母さんだったわけだが……。
…………。
待て。
何かがおかしい。
それは本当にごくわずかな、無視しても構わないような違和感。だが背中を這い上がるような嫌悪を伴う違和感だ。
中条深天、本来の母さん。
どこかへ消えてしまい、僕たちの前に現れることもなくなった母さん。
稀有なる存在であり、新たな怪人を生み出すことを行動原理とする怪人。
本当にそうか?
恐ろしい。
今、自分の考えていることが恐ろしい。
そうだ、僕が戦おうとしてる相手はキッドナッパー、その力はあまりにも完璧。おそらく僕がその怪人に瑕疵を与えることは不可能。あるいはこのように思い悩み、東奔西走する姿すらも母さんの手のひらの上かもしれない。
だが、もはや連想してしまった。
だから僕は行動せねばならない。
そして夜を歩き、中条の家。
家には灯がついている。僕に認識できるということは、母さんが帰っているのだ。まだ同調は維持できているようだ。
「母さん!」
呼ばわる。なるべく大きな声で、無人の町に声がいんいんと反響する。
玄関のドアが開き、ライトで照らすように室内の光が僕の方に浴びせられる。僕は逆光の中にいる母さんを見つめる。
「カラノスケ! 帰ってきたのね。さあ、中へ……」
「母さん、聞きたいことがあるんだ」
僕の差し迫った様子に察するところがあったのか、母さんは押し黙り、拳を胸に当てて身構える様子を見せる。
「母さん、母さんから見ても誘拐犯はかなりの格上、そうだよね」
「? ええ、そうね……おそらくかなり歳上なこともあるけど、噂で聞く限りでは、まったく全容が知れない怪物だとか……」
「母さんはどうして中条の家に来たの」
「え……それは、私は何かが欠けた家族を埋める怪人だから、この町にふらりと立ち寄って、そしてこの家を見つけて……」
「おかしいと思わないの。伊吹奇から聞いてた話では、以前の母さんが家を出てから半日も経っていない。それで家を捨てたと断言できるわけがない」
「それは……私にはそういうことが察せられて……」
母さんにはわずかな混乱が見える。いつも落ち着いていて聡明そうで、万能感を備える母さんには珍しいことだ。
「母さん、この町にはいつ来たの」
「確か……7月6日」
「それ以前はどこに?」
「カラノスケ……どうしたの、急に何を……」
「いいから、よく思い出して、中条の家に来る前までどこにいたのか」
母さんは虚空を見上げ、己の記憶に潜るかに思える。それは数瞬のことだが、奇妙に引き伸ばされて感じる深い思考だった。
「……分からない」
頭を振る。鈍痛に耐えるようにこめかみを押さえ、身を屈める。
「私は、過ぎ去った家のことはあまり覚えていない……。たくさんの家を通り過ぎてきたし、前の家の思い出に囚われすぎると、新しい家族に順応することが遅れるから……」
「母さん、可能性は二つあると思う」
「……?」
どちらの可能性も茨の道。
あるいは僕はこの追求をすべきでないのかも知れない。いま思い描いている疑問を忘れ、家族と町を忘れて、一人きりの怪人として永遠に彷徨うことを選ぶほうが幸せなのかもしれない。
だが、僕に残った最後の矜持。
人間を嫌い、人間から遠ざかってしまった僕が、最後にすがりつくのは中条の家。
それを守りたい。それだけが、僕の最後の役目。
「一つの可能性は母さん……母さんが、キッドナッパー本人であるという可能性」
「……!」
「そして、もう一つは……全てが最初から仕組まれていたということ。本来の母さんは、この町から消えるときにあなたを残した。僕を完全な怪人とするための最後の鍵。キッドナッパーはそれすらも用意することができたとしたら、つまり……」
「……」
「家族の愛……それこそが、怪人を生むための最後のピースとしたら……」




