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第三十話 12月31日 Another(2)



――中条深天ミソラ


その名を意識する、かつては肉親だったはずなのに、それが自分に属する名前だと思えない。何かもっと大きくて混沌としたものを呼ばわるような気がする。


伊吹奇は靴の中で親指を曲げ、冷たい地面をぎゅっと掴みつつ身構える。


「お母さん……どうして、さっきまでは別人だったはず」

「あまり重要な問題じゃないわ」


目の前の男性の姿が揺らいで見える。それは変装なのか、何らかの手段で遺伝子レベルから別人になれるのか、あるいはその体は器ですらなく、別人の姿を借りて話しているのか。


「大したことではないと言ったでしょう、伊吹奇」


硬い棒で体を突かれるようなプレッシャー。己が嵐の差し迫る路傍の花のような気がする。重心が体のどこにあるのか分からず、地面が水平かどうかも定かではない。考えを読まれているという認識が思考をかき乱す。


「私がどんな姿だとしても、どうでもいいことよ」

「ら……ラジオさん」


一瞬だけ背後を見る。そこに黒ジャケットの女性が倒れている。攻撃を受けたのか、だとすればどのような方法で、彼女は怪人を狩る側の存在だったはずなのに。


「ラジオさん、に、何を……」

「復元可能な程度に壊しただけよ」

「どうやって、何もやった気配はないはず……」

「だから、方法にこだわっても意味ないのよ、伊吹奇」


中条深天は面倒そうな声を出す。伊吹奇の眼には、その姿が白いひらひらとした布のように見えた。掴みどころがなく、明確な姿が分からない、少なくとも今は40がらみの主婦でもなければ、アラブ系の男性の姿でもない。悪夢でも見ているかのように白い塊にしか見えない。布をかぶった幽霊、そのような形容が浮かぶ。


「そっちのハンターも同じ。名前をつけただけで相手を分かったつもりになっている。町の噂話に真実が含まれていると思っている。それこそ傲慢というものじゃないの。私たちは理解できないから怪人と呼ばれる。実際はその呼び方もまるで正しくない。正しい呼び方なんか一つもない。どんな生き物で、どんな攻撃を行うのか理解できるようでは二流もいいところ。名前をつけることは理解の第一歩であるという人もいる。でもそれはスタートラインであってゴールではない。覚えておきなさい」


けして威厳があるとか、格式を備えた話しぶりではない。ある意味ではぞんざいに、天気の話でもするかのように話している。だが、別の星の人間と話しているかのように言葉が遠い。


「な、なぜ、私たちの前に……」

「だから、あなたに忠告するためよ」


物分かりの悪い子だ、とでも言いたげに鼻を鳴らす。その姿はますます形象を失っているように思える。後から思い出しても、この時の中条深天の姿が思い出せない。


「噂を集めて映画に仕立て、物語的な必然性を使って怪人を見つける。ある程度はそれでうまくいくでしょう。でも怪人の理解からは程遠い。ハンターになりたいのなら、カメラに頼りすぎてはダメよ。モキュメンタリーだったっけ? それって撮影者が死んでオチがつくものばっかじゃない」

「う……」


我知らず、カメラを背後に下げる。録画状態ではあったが、おそらくこれには何も映っていないだろう、そんな確信だけが靴底の小石のようにはっきりとある。


「お母さん……お母さんは、今まで何人の怪人を……」

「あまり意味のない質問ね。どの範囲まで私が育てたと言えるか疑問だし、あなたたちの母親やってた17年ほどの間も、他にいくつかの人生を生きてたし」


言葉がどこかすれ違っている。互いに背負っている世界観の規模が違いすぎて、伊吹奇の問いかけが響かない。あの新しい母親、ぬらりひょんとも桁が違う。よしずいから天井を覗く、この中条深天という人物を、人間の尺度で説明することなど可能なのか、そのようにも思える。

伊吹奇の呼吸は荒くなっている。今が12月だとは思えないほどに体が熱い。熱病にうなされるような意識の中で自我の輪郭が曖昧になり、言葉が心の奥底から引き出される。


「……あなたは何なの。どうして私をあんな風に育てようとしたの。私は女の子なのに、あんな格好なんかしたくない、車や光線銃で遊ぶのは好きじゃないのに……」

「そうね、そのことは残念だったわ。あなたは空之助カラノスケのことが好きになったからね。だから思うように育てられなかった。何人も育ててきたけど、本当に失敗だったと言えるのはあなただけよ」


失敗、という言葉が胃の中に落ちた鉄塊のように感じられる。


「違う……私は失敗なんかじゃない。私を育てたのは中条の家であって、あなたじゃない。あなたの意志なんか関係ない。私にはお父さんもいるし、お兄ちゃんも……」

「だから中途半端なものが生まれてしまったわ。怪人にもなりきれない、人間として生きていく覚悟もない。そこで倒れているハンターも同じ。引きこもりでいればいいのに、趣味がこうじて人助けに目覚めた、だから正義の味方とやらになっただけ。本来、怪人を退治しても人間に良いことなど何もないのよ。バランスを取っているのはこっちなのに」

「勝手なこと言わないで!」


混濁してくる意識を振り払うように、腹筋から声を放つ。


「あなたは失敗した! 私をちゃんと怪人にできなかったし、お兄ちゃんは育てることも放棄した! あなたのいない中条の家は別の人が来てちゃんと回っている! そもそもあなたは私たちの実母ですらないんでしょう!? なぜかって私たちにあなたみたいな邪悪さはない。家族を壊して、世の中を壊して平気にしているようなそんな神経はない。私たちはあなたの子供なんかじゃない。私はそんなこと信じない! どうせ戸籍でも他のどんな書類でも、あなたが関わってる以上はそんなものに信頼なんか置けない! だから私は拒絶するだけ! あなたは私たちのお母さんなんかじゃない!!」


誘拐犯キッドナッパー

その名が意識の中で浮上してくる。勢いのままに吐き出した言葉ではあったけれど、口から滑り出たそれは確固たる実体を持つような気がした。怪人の存在する世界で、この人物が自分たちの母親だと証明する手段は存在しない。だから拒絶もできるのだと――。


「伊吹奇、あなたが根本的に勘違いしていることが一つある」

「え――」


混乱させようとしている。

そう考え、身を守るかのように腕を口の前に構える。中条深天は、ついと虚空を見上げて言った。


「私にとって、最大の成功例が空之助カラノスケよ」

「なっ――」


ハッタリだ。

理性より、具体的な思考よりも先に、電光石火で拒絶の意志が走る。


「そんなはずない! お兄ちゃんはただの人間! あなたの影響なんか受けていない!」

「伊吹奇、私はいろいろに呼ばれたの。怪人だとか、魔女だとか、商人だとか魔獣だとか呼ぶ人もいた。私をどう呼んで良いのか私にも分からない。私にあるのは好奇だけ。私以上に奇妙なものを生むのが役割。それだけを意識して生きている。それは技術であったり、考え方であったり体質であったりもする。私は、私の理解できないものが見たい。それだけが望み」

「……何が言いたいの」

「私にも空之助に何が起きたのか説明できない。あの子は私の見ることのできない景色を見た。私に経験のできない世界を体験して、どこかへ行ってしまった。それは喜ばしいことよ。伊吹奇、そもそも怪人のことを知ったからって、怪人に関わって生きていく義務はない、そうでしょう?」

「え……」


何が言いたいのか、どんな答えを求めているのか分からぬ問い、伊吹奇は困惑の中で目に力を入れて、目の前の人物の圧に耐える。


「空之助はきっと、家族の悩みでも怪人でもない、まったく別次元の物語を経験している。それが喜ばしい。あのぬらりひょんが干渉したことは計算外だったけれど、きっと上手くやっていくでしょう。だから伊吹奇、怪人のことなんか忘れて平凡に生きなさい。あなた才能ないんだから」

「……」


今、わかった。

この人物は中条伊吹奇に何かを言おうとしたわけではない。ただ自分の言葉を垂れ流したかっただけ、それがこの人物にとっては何かしらの勝利宣言であり、概念を定着させる行為なのだ。

自分は、成功したのだと。


(――それなら)


中条深天は元のアラブ系の男性の姿になっていた。特別な時間など流れていなかったように、急に寒さが戻ってきて鳥肌が立つ。


「じゃあね、伊吹奇」


言葉が浮かびかける。

何かを、言わなければ。


おそらくもう二度と、中条深天が自分の前に現れることはない。

だから今、何かを言わなければ。

彼女の世界観を壊さなければ。


(お母さんは。私に何かを宣言したかった)


(それは、お兄ちゃんのこと)


(お兄ちゃんに何が起こったっていうの、あの夏から今まで、何も変わらな・・・・・・かった・・・のに)


中条深天の影が遠ざかる。まもなく年が変わろうとする12月31日の夜に、その姿が溶けつつある。


(お兄ちゃんが)


(どこかに行って、何かを経験した?)


(そんなことは、起きていない)


(いえ、違う)


(仮に起きていたとして)


――起きていたとしても。


眼を見開く。


「帰ってきたよ!」


伊吹奇の言葉が、凍てついた石畳の上を走る。

その届く先で、中条深天は足を止めたのかどうか。


「お兄ちゃんは帰ってきた! 私たちのいる、今の中条の家を選んだ!」


その時。

一瞬だけ、ぞっとするような寒気が全身を走る。

細胞の一つ一つが恐怖に震えるような、氷の針を全身に突き立てられるような感覚。それは凍てつく風。無数の幽鬼が世界を駆け抜けていくような感覚。


そして、沈黙。

途端に、周囲に気配が戻ってくる。


いつの間にそこにいたのか、通行人や、ベンチに座る若者たちの姿が認識される。


「うぐ……何だ今のは、急に意識が……」


背後で、ラジオ氏の起き上がる気配もする。


伊吹奇はまだ足が震えていた。

今の恐怖、吹きつけるブリザードのような殺気。もし5秒も持続していたなら絶命したと確信できるほどの――。


「ラジオさん、私……」


そして息を吸い、肺の中で吸気を固め。

疲れ果てたような顔で、中条伊吹奇はわずかに笑ってみせた。




「……勝った、よ」



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