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第二十八話 8月10日(3)





縁側にて夕涼みをする。


蚊取り線香からの煙はまっすぐに伸び、天井のあたりでどこかへ去るかのように薄まる。


夕景の町、世界のどこにも人の気配を感じない。いつもなら前の道を通る車や、話をしながら行き過ぎる学生の気配があるのに。駒のない将棋盤を眺めるような奇妙な気分だった。


蝉の声が生み出す薄幕、その向こうに耳を済ます。

やはり何も気配もない。飛行機も飛ばず、隣家の犬が吠える気配もない。そもそも犬はいるのだろうか。おそらくいないだろう。


「カラノスケ、スイカ切ったわよ」


母さんはそう言って僕の横に座り、間にスイカの入った盆を置く。四分の一カットが二つだ、それと木のスプーン。


「多くない?」

「スイカ好きでしょ? 大丈夫よ水と同じなんだから、いくらでも食べられるわよ」


母さんは膝の上に新聞紙を置き、その上にスイカを置いてスプーンを突き立てる。豪快な食べ方である。僕も真似をする。


「……ねえ母さん、伊吹奇や父さんはどこへ行ったの」


何となく恐ろしくて聞けなかったことを、ようやく尋ねる。


これは怪人の仕業なのだろうか。世界から全ての人間を消し去る力。まさか本来の母さんにそんな力が。


「カラノスケ、焦っても解決しないわよ」


そう答える。それしかし秘密にするというよりは、何と説明するべきか悩んでいる様子に思えた。ややあって言葉を続ける。


「みんな無事よ。伊吹奇もお父さんも、ラジオさんもミラちゃんも」

「みんなはどこに?」

「説明しにくいの。ああ、ラジオさんはミラちゃんを連れて行ったわよ。信頼できる施設に預けるとか」

「え……そうなの」


もう少し父さんの様子を見てからと言っていたが、もう十分と見たのだろうか。しかし唐突な話だ。お別れの挨拶ぐらい交わしたかったのに。

僕たちは並んでスイカを食べる。夜の巨人が東から西へと向かい、世界はゆっくりと暮れなずむ。


やがて、母さんがどことなくニュートラルな姿勢で言った。


「カラノスケ、花火買ってこようか」

「え、花火?」

「せっかくだもの、お母さんあれがいいな、ピストルになってるやつ」

「いいけど……」


そして僕たちは町へ出る。

母さんが駅前にあるおもちゃ屋がいいと言ったので、そこまで30分ほど歩いて向かう。夕飯とスイカが体の中で程よくこなれる気がした。

やはり誰とも会うことはない。車も通らない。


母さんはこの現象の理屈が分かっているのだろうか。なぜ母さんだけが存在できるのだろうか。

怪人だから? それとも母親だからだろうか。


僕たちはおもちゃ屋に入り、手提げ花火の大型のやつを二つ、噴き出し花火を10個も買う。落下傘の入っている打ち上げ花火も買った。


「こんなたくさん買ってもやりきれるかな」

「大丈夫よ、いざとなったら奥義使うから」


奥義ってまさか両手で10本ぐらい一気にやることだろうか。


「庭でやるの?」

「うーん、どこかいい場所知らない?」


それならと、僕たちは家からバケツを取ってきて、河川敷に向かう。

そこは伊吹奇に教えてもらった場所だ。近くの工場に灯はなく、住宅街も遠く、夜の刻限に至れば闇の濃くなる町の死角。

なんだか不思議な夜だった。日が暮れてからすべての時間を花火のためだけに使う。どこか心が浮き足だって、贅沢な時間を過ごすような気がしてくる。


バケツに川の水を汲み、防虫スプレーを振りかけて、いざ花火の宴。


「ほらカラノスケ、これ色の変わるやつよ」

「母さん、走ると危ないよ」


手提げ花火も多種多様である。激しく火花を散らすもの、バーナーのように火を噴くもの、弓なりに火花の川を生み出すもの。

母さんは実に楽しげだった。回転しながら自分を光の輪で包み込んだり、花火の火力で地面に文字を書こうとしたり、蝶のように羽ばたくような動きをしたり。普段はどこか超然とした美人なだけに、自然な笑顔が一層まぶしく思える。

その時の母さんはとても幼く見えた。あるいはそれは彼女の本質に近い表情。家族に成り代わるという彼女の本分から少しだけ離れた、年齢相当の少女らしい表情にも見える。


――怪人。

その存在を知ってまだ何日も経ってはいないけど、幸運なことに、僕の出会ってきた怪人たちはみな優しくて親しみやすい人々だった。

彼女たちはけして人間から隔絶した怪物ではなく、ある意味ではずっと純粋で自由な心の持ち主なのではないか。そんな風にも思える。


噴き出し花火、トンボ花火、ヘビ花火、煙花火まで。最近はご近所に遠慮して庭でやれなくなった花火を連続で解き放つ。


そして三時間ほども経っただろうか。僕たちは背中に汗をかいて川面に座っていた。護岸のコンクリートに腰かけ、川面に触れるか触れないかの位置で足を揺らす。


「こんなに長いこと花火したの初めてかも」

「うん、私も。花火っていいわよね。体が煙くさくなっちゃったけど」


母さんもさすがに遊び疲れたのか、どことなく脱力した印象がある。河川敷のこのあたりは極端に暗く、ロウソクの火が消えれば母さんはシルエットしか見えない。


その母さんの手が、僕の手に重なる。


じわりと汗をかいた、暖かな手。

それは柔らかで包容力のある手であったけれど、やはりそれは少女の手だった。皮肉なことだ。互いの姿が見えなくなるこの闇の中で、母さんの擬態というか、母親に成り済ます力がわずかに削がれ、少女としての本来の体温を感じることができる。


「母さん、ありがとう」

「……」

「僕を気遣ってくれたんだね。僕の気持ちを晴らそうと」

「そうじゃないわ。私も遊びたかったからよ」

「うん、分かってる。母さんはとても自由な人だ。誰かの為に生きることを苦としていない。欠けた家族に寄り添うことに心からの充実を感じてる。本当に素晴らしい生き方だと思う。尊敬する」


母さんのような怪人が、世界のどこかに息づいている。

家族の欠けた家にやってきて、欠けた部分を補ってくれる。

それは素敵な想像だった。世界に起こる理不尽な不幸。どこかで生まれてしまう悲劇、母さんはそれを癒やす世界のシステムなのではないか。血小板が傷口を塞ぐように、樹皮の傷から樹液が噴き出して傷を塞ぎ、やがて琥珀となるように。世界にはそんなシステムが存在したのだ。なんと喜ばしいことではないか。


「だから、大丈夫だよ」

「……」

「僕に何が起きたのか、キッドナッパーは何をやったのか、僕は必ず受け止めてみせる。だから話してくれ、聞いておきたいんだ。母さんがそれを言い出せなくて悩んでいることが申し訳ないんだ」

「カラノスケ……」


そっと、闇の中で母さんと抱き合う。

それは親愛に満ちた抱擁だった。互いを認めあい、互いの一部を委ねあうような抱擁。誰も知らぬ夜の底での祝福。魂の交わり。

僕が母さんを頼るように、母さんも僕を頼ってくれてる。これから告げる事実を受け止めてくれと願っている。それに応えたいと思った。

そして僕と母さんは抱き合い、母さんは熱い息とともに言う。


「カラノスケ、あなたの眼に、世界はどう見えてる?」

「誰もいない」


僕は母さんの肉と骨を感じ、その体を強く抱きながら囁く。


「誰もいないんだ……人の気配がなく、動いている車もない。駅には電車が来ない。ラジオとテレビも沈黙している……」

「そう……やはりそう見えているのね」


母さんは魂の熱を吐くように言う。


「カラノスケ、キッドナッパーとは恐ろしい怪人なの。誰もその成すことを止められなかった。けして世界の滅びなど望んでいたわけではないけれど、その所業は常識の枠を超えて、多くの人々に深刻な影響を与えたの」

「……」

「彼女はおそらく怪人を生み出そうとしていた。そういう行動原理で動いていたの。多くの子供を恐ろしい怪物に仕立てた。本人が手を下したわけじゃなく、何らかの組織を操って生み出すこともあった。ミラちゃんもそう、あの子を生み出した組織はキッドナッパーに操られていた」

「ミラちゃんが……」

「そして、あなたも例外ではないの。カラノスケ」


――僕が。

では僕は、怪人だったというのか。

しかし僕は母さんに特別な教えを受けた記憶などないし、母さんのことなどろくに覚えてもいないというのに……。


「おそらく、あなたの本来の母親は、あなたに無関心をもって接した。生まれ落ちてからずっと」


無関心。

言われてみれば、その言葉はしっくりと当てはまる。僕という個人が形成される過程において、どの時期にも必ず散見される言葉だ。


「そして中条家はおそらく居心地の悪い場所だった。伊吹奇への仕打ちと、それを止められないお父さんがくろぐろとした闇を生んで、中条家を満たしていた。それはあなたの精神に影響を与えた。あなたは自分の世界に閉じ籠るようになったはず。何も見ないようにしようと。家族と関わらないようにしようと。世界から自分以外の人間を意識しないようにしようと」


それは。

それは、まさか、そんなことが。


「誰も消えてなどいない」


母さんは、悲痛を涙に変えて言う。


「あなたも無視しているわけではない。あなたはちゃんと毎日を過ごして、伊吹奇と言葉を交わし、お父さんを見送り、ラジオさんやミラちゃんと話をしていた。あなた・・・にそれが認識できないだけ」


では、ここにこうして、存在するは。


「それがあなたに生まれた怪人の力。あなたは真っ当に生きていながら、誰も存在しない世界を手に入れてしまった」




「自分しか、存在しない世界を……」




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