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第二十七話 8月10日(2)


「この穴は……」


これは、かつての母さんの秘密か。

あの40過ぎの平凡な主婦だった母さん、寄る年波を気にしていて、家事をやや手抜き気味にこなしていた母さんが。

いや、それは多くの主婦に大なり小なり当てはまるだろう。母さんの特徴とは言えない。

……では母さんとは、どんな人物だったのか。


僕は母さんの何を知っているというのか、見てきたというのか。


新しい母さんの方にばかり気を取られていたが、そもそも以前の母さんはなぜ失踪したのか。それを考えてこなかった。思いだそうとするが、その像がなぜかおぼろげである。母さんについての記憶は厚みがなく、十数年の記憶のはずなのに、何度か会っただけの知人のように遠い。あるいは、そのようにしか記憶できない相手だったのか。


僕はスマホのライトを点灯させ、胸ポケットからライト部分を露出させつつタラップを降りる。


それなりに深い。10メートルはあるだろうか。

たどり着くのはコンクリートの打ちっぱなしになった空間。地下倉庫のような風情であり、大型のスチールデスクがひとつ、椅子が一つ、そして部屋の隅にはダンボールが一つ。

電灯のスイッチがあったので点灯させる。ジジジと蛍光灯が鳴って、空間を満たす光が目に染みる。


別の場所には電子部品のようなものが積み上げられている。電線がむき出しになった何か、筒状のもの、ネジやチューブのかけら。イカ墨のパスタのように積み上がっている。そして大きめのモニターが一つ。これは通電していない。


「これは……何だか殺風景だな。物置か、作業小屋みたいな……」


僕はダンボールの中身を見る。そこには数冊のノート。それは日記のようだった。


およそ一ページあたり一日分、細かな字で書き込まれている。

その日に何を食べたのか、どんなテレビを見てどんな本を読んだか、どこに出かけて誰とどんな会話をしたか、そして伊吹奇の様子はどうだったか。


「伊吹奇の……? いや、これは母さんの日記みたいだけど、伊吹奇のことだけ妙に詳しく書かれてる……」


何を買い与えたか、どんな発言をしたか、成長の様子、趣味嗜好、何時に学校から帰ってきて何時に眠ったか、どんな友人がいるか、伊吹奇のものの考え方についての考察、おかずをどんな順番で食べているか……。


「……」


伊吹奇の言っていたことを思い出す。

母さんは伊吹奇を特別な人間にしようとしていた、端的に言えば性的マイノリティであってほしいと思っていた。女の子である伊吹奇に男の子用のおもちゃや服を買い与え、誰かに紹介する時に性別を断定的に言わなかった。

それは価値観としては歪んでいる。性的指向など強制されるものではないし、尊重されることと特別であることは違う。それに、子供がどのように育つかは神のみぞ知ることではないか。


母さんがここで伊吹奇についての日記を……。

しかし、いくらなんでも地下室にこもって書くようなことだろうか、人に見られたくないなら鍵付きの日記を買うとか、小型の金庫にでも入れればいいのに。


それに、この電子部品……。


ライトを当てると細かい反射が返る。ガラス片が含まれているのだ。

それは筒状の部品の先にレンズの嵌められた機械。内視鏡のように小さく、小さなアンテナを生やした機械に接続されている。プラスチックケースの破片やボタン型電池が散乱し、そしてモニター、これらから連想するのは……。


「カメラ……これは監視カメラと、それをモニターする部屋……?」

「カラノスケ、そこにいるの」


声に振り向く。

黒い煙、最初はそう見えた。光源を中心に灰色に染まる部屋で、その中心で踊る影。

それが段々と輪郭を備え、色を持ち、黒髪の質感、柔らかな服の質感を眼が理解し、顔のパーツが記憶と照合され、母さんだと理解される。それは不思議な感覚だった。最初から母さんの全体が見えていたのに、それが母さんだと認識されるまでに時間を要したのだ。


「よかった、ようやく見えてきた・・・・・のね」

「母さん……」


中条深天ミソラ

ある日突然現れた、母さんと同じ名を名乗る人物。

彼女は怪人であるという、しかし僕は彼女のことを何も知らない、なぜこの家に来たのかも。

数十時間ぶりに会えた人間にも僕は感激できなかった。この地下室に宿るただならぬ気配、そして素性の知れない今の母さんを前に緊張していたのかもしれない。


「母さん、この部屋は何なの、ここに何があるというの」


それはこれまで避けていた質問。

すなわち今の母さんに、かつての母さんについてを問う質問。その二人が別人であることを示唆する問いかけ。あなたは何者なのか、かつての母さんについて何を知っているのか……。


「もう薄々分かってるんじゃないの」


母さんは切れ長の目を細めて言う。そこには怪しい美しさがある、人間の世界と隔絶した者だけが持つ妖艶さなのか、人間のせせこましい社会など歯牙にもかけぬような奥深い微笑。


「あなたの本来のお母さんは普通ではなかった。けして特別な強さがあったり、不思議な力を使えたわけではないけれど、人の社会を超越する人格を持っていた。己の望むままに人生を生き、他者を自分の思う通りに操ろうとする。それは親としては珍しくないのかもしれない。でもあなたのお母さんは並外れていた。ある意味では人生の達人、何もかもを一瞬で喝破する天才。あなたの世界から・・・・・・・・全ての人間が・・・・・・消えて・・・、私もようやく確信できた、あなたのお母さんは」


息を呑む。

いつからそれを予感していたのか。

この地下室を見つけたときから、それともこの異変が始まったときから、あるいはもっと昔から。


中条深天を名乗る怪人は、なにか想像上の怪物を呼ぶかのように、ひそやかにその名を告げた。


「怪人、キッドナッパー……」







「母さんは何者なの?」


ハンバーグの焼けるいい匂いがする。母さんは丁寧にひき肉をこね、叩いて空気を入れてから二人分を焼き上げていく。


「私は言ってみれば、家族の隙間に入り込む怪人かしら。世の中ってね、ときどき家族が欠けることがあるでしょう? 別居したり、離婚したり、あるいは死別したり。もしくは最初から片親だったり、子供ができない夫婦がいたり」

「うん」

「そういう家に私は行くの。そして何食わぬ顔でその家に上がり込んで、家族として過ごすのよ。子供の頃はいろいろな家で娘をやってたの。楽しかったわ」

「ど、どうしてそんなことを?」

「あら、他人の人生を体験する、それが最大の娯楽と考えることは普通じゃないの? 小説だってゲームだって根底は似たようなものでしょう。私はいろんな家族を経験したし、これからもいろんな人になるでしょうね。もう少し体が成長すれば、企業や組織にも入り込めるでしょう」

「子供の頃から……?」

「そうよ。私には戸籍もないし、本来の親のことも忘れてしまった。たぶん最初からいなかった気がする。必要ないのよ。こうやって生きているのが私なんだから。本来の私を持っていないのが私なのよ」


想像の及ばない世界だ。他人になりすまして生きるというのとも違う。ごく自然に、疑問を抱かせず、あるいは疑問があったとしても自分の存在を受け入れさせて家族の一員になる、そんな怪人がいるとは。


……ん?

あれ、でもなんかそういうの、聞いたことあるような。


「ねえ母さん、それって、ぬ」

「次にどの町へ行けばいいかはカンで分かるの。この町に自然に足が向いて、そして中条の家を見つけた。母親がいなくなってたから潜り込んだのよ。まさかこの町に他にも大物がいるとは思わなかったけど」

「それはいいんだけど、母さんってもしかしてぬ」

「ほらカラノスケ、ハンバーグ好きでしょ、今日はクルミとかも入ってて香りがいいのよ」

「妖怪の」

「サメの頭にはロレンチーニ器官ってのがあって圧力とか電位差とか温度とかを物凄い精度で察知できるらしいけど嗅覚も凄くてきっと私にもそんなのあるんじゃないかなと」


どうも言及されたくないようだ。

だがもう連想してしまったし、それで母さんの立ち位置を明確にしないと居心地が悪いのでちゃんと指摘しよう。


それは日本に伝わる妖怪。

あるときふいに上がり込み、家族の一員であるかのようにその場に存在するだけの妖怪。その不気味さと得体の知れなさのせいか、あるいは水木先生の気まぐれか、妖怪の総大将のように扱われる存在。


ぬらりと出てきて、ひょんと居座る者。

母さんがハンバーグのそばに茹で野菜を盛りつけ、指で形を整える一瞬のすきを突いて言う。


「ぬらりひょんだね」

「あーもー!」


茹でたニンジンを投げつけられた、熱っ!


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