第二十六話 8月10日(1)
カーテンの隙間から陽光が差し込み、薄手の布団をじわりと熱しはじめる頃に目を覚ます。
ゆっくりとした覚醒の中で、慎重に世界の音を聴く。もう鳴き始めているセミの声。あまりに四六時中鳴きわめくので、初めて経験する外国人などは頭がおかしくなると言うが、今日も盛大にわめいている。
わずかな風の音。カーテンがばたつく気配。遠く北側に逸れて通りすぎた台風が、まだ余韻を残しているらしい。
それ以外には、特に何も聞こえない。
ベッドを降りて一階へ向かう。洗面所には誰もおらず、僕は歯を磨いて顔を洗う。
そして台所へ、冷蔵庫からボウルに作りおきしてあるサラダを皿に盛り、レンジオーブンでトーストを焼き、ハムエッグを作ってコーヒーを入れる。
「いただきます」
食卓には僕だけ。がらんと広がった印象の中条家の食卓。味をあまり意識せずに胃に流し込む。
食べ終えてからゆっくり後片付けをして、ジーンズと柄物シャツという姿になって外に出た。
町には誰もいない。
よく玄関先を掃いてるお婆さんも、プールを目掛けて力の限り走る小学生も。
僕は300メートルほど歩いてコンビニへ。
やはり誰もいない。カウンターに店員はおらず、他の客の姿もない。
駐車場に車は停まっているが、その持ち主の姿はない。買い物をせずにどこかへ行ってしまったのだろうか。あるいは車だけがアイスでも買いに来たのか。そんな冗談を思いついて自嘲ぎみに笑う。
お菓子と、朝食用のハムと玉子、それにインスタントコーヒー、食パンなどをカゴに入れる。
レジにどさりとカゴを置き、しばらく待つ。
「……すいません」
返事はない。
「すいません、誰かいませんか、レジをお願いします」
やはり声は返らない。昨日は何軒の店でこれを繰り返したことか。
「……くそっ!」
カウンターの奥に入り、吊られているレジ袋を取って自分で突っ込む。
そして大股に歩いて店を出ようとして。
足を止める。
振り返ってまたレジの奥へ。自分でレジ打ちをして代金を払い、お釣りももらう。
店員が名札のバーコードを入力しないとレジが操作できないコンビニもあるが、この店にはそんなシステムはない。だからここに来た、というわけでもないが。
あの熱風を浴びてから、40時間ほど。
町から人間が消えていた。
僕以外の中条家の家族が消えて、ラジオさんやミラも消えたと思ったあのとき。
この夏奥の町から全ての人間が消えたのだ。
昨日の僕は、半狂乱になって町中を走り回った。
あらゆる店を訪ね歩き、交番や駅舎にも飛び込んだ。大通りの真ん中で、スーパーマーケットで声を枯らして叫んだ。
だが、誰も出てこない。
車はそれなりに見かけるが、動いているものはない。
バスも電車もやってくることはない。
テレビは真っ黒で、何も映りはしない。ラジオからの声も聞こえない。
何もかもが理解を超えた世界。人智を超えた現象。
だが、奇妙に存続してることもある。
電気と水道は生きており、町の信号はきちんと作動している。
多くの店内には明かりがついており、コンビニの冷蔵庫も稼働している。
町は息づいている。そこに人間だけがいない。
僕はあまりそれを意識せずに歩いた。
丸一日の混乱と、走り回った疲労とで精神が磨耗していたことは確かだが、この現象に立ち向かう気力を失うには早い気もする。
それはおそらく、言霊信仰に近い。
そんな恐ろしいことを口にして、もし現実になったらどうするんだ、という考え方。
今の僕に当てはめるなら、これ以上走り回って、本当にどこにも人間がいなかったらどうするのか、となる。
異変を受け入れざるをえない状況、その時に味わうであろう絶望が怖かった。
誘拐犯。
その名を一瞬だけ思い浮かべて、すぐに思考から追い出す。
ありえない。
どんな人間にこんな真似ができると言うのか。全ての人間を消してしまうだなんて……。
家に帰るとナマ物を冷蔵庫にしまい、ペットボトルのお茶とお菓子を持って二階へ。
ふと伊吹奇の部屋を覗くが、やはり誰もいない。
僕は自室に戻ってくる。朝起きてから買い物をしただけなので、まだ陽は登り始めたばかりだ。
テレビの下にあるゲーム機を久々に起動し、プレイを始めた。
思えばゲームをやるのはしばらくぶりな気がする。画面の中では僕の操作する兵士が短機関銃を操り、どこからか湧いてくる敵兵を撃ち殺していく。中条家にオンラインゲームというものは無いので、敵兵はすべてNPCだ。やり慣れたゲームなので苦戦はしない。物陰に隠れて敵の一連射をかわし、手榴弾を放り込む。
そういえば昔はずっとゲームをしていた気がする。特に他の趣味もなく、社会のことにもあまり関心はなく、ただ部屋で漫然とゲームをしていた。
特別に上手いわけでもなく、達成感を求めるでもなく、負けて悔しいわけでもない。それが普通のことだと思っていた。
いつからだろう、そうではなくなったのは。
おそらくはあの日、家族が全員見知らぬ美少女になっていると思った日からか。
では、また元に戻っただけなのか。
誰もいない家に、虚無の町に。
何かしら理解を超えたことが起きているが、とりあえずは食べて寝て、ゲームで時間を潰せている。またその生活に戻っただけなのか。
操作する兵士がドアを調べる。鍵のかかっているドアなので爆薬を仕掛けないといけない。メニュー画面を開いてアイテムを……。
「……ん」
何かを、連想した。
それはウサギが背中を這い上がるように、数秒をかけてゆっくりと浮上する鈍足の連想。僕はコントローラーを膝に置いて考える。
そうだ。あのドア。
一階にある、母さんの部屋へのドア。
母さん……中条深天と名乗る女性は部屋に鍵を取り付けていた。この家に来た当初、僕と伊吹奇の動きを警戒していたフシもあった。
あの部屋に、何があるのだろう。
僕はゲームの電源を落として立ち上がる。
そして物置からドライバーと金槌を持ってきて母さんの部屋へ。
鍵は数十分の作業でなんとか破壊できた。慣れていない作業だったが何とかなるものだ。
ノブのあった穴にドライバーを突っ込んで扉を開ける。
中にはやはり、誰もいない。そこは畳敷きの和室であり、隅には畳まれた布団。化粧台に箪笥。女性向け雑誌がいくらか入っている小さな本棚、そんな平凡な部屋だ。
「……母さんは布団で寝てたんだな」
ぼんやりと呟く。そういえば父さんとは一緒に寝ていないのか、ふとそんなことも考える。部屋が別々なのだから当たり前だが。
両親の夫婦生活のことまで考えるのはさすがに嫌だったので考えを切り替え、部屋を捜索する。
捜索は数時間に及び、途中でカップラーメンを食べながら昼過ぎまで続いた。
見つかったのはそれなりにたくさんの服とアクセサリー、何の変哲もない雑誌類はやはり特別なものではなく、畳の下にも何もない。断熱材が敷かれているだけだ。
化粧台と箪笥を解体して詳しく調べる、鏡までひっぺがして裏側を見るが何もない。布団も服も念入りに調べ、窓のさん(溝の部分)や、ランプシェードの内側までも。
僕は少なからず落胆して深い息をつく。遺跡を探す考古学者のような気分だろうか。
何かがあると思ったのに、かすりもしないとは。
畳は全部庭に出してしまい、年末の大掃除みたいな有り様になった中条家を見て途方に暮れる。これをまた戻す作業は倍はくたびれそうだ。
「……。じゃあ、なぜあの母さんは部屋に鍵をかけたんだ? 部屋で何かやってて、それを見られたくなかった?」
いや、それなら風呂に入ってる時にも警戒してたのはおかしい。
「……鍵はフェイク、部屋に何かがあると思わせて、秘密にしたいものはすでに他の場所に移した」
それもおかしい気がする。何かを隠したなどと思わせる意味がどこにあるのか。見せたくないものがあるなら、銀行の貸金庫にでも入れればいい。
どうする、どうせ誰もいない中条家、壁も床もひっぺがして探してみるか。
「……でもそれもおかしい。いくらなんでも息子が部屋の床を剥がし始めるなんてことを想定するはずがない、あの母さんが隠したものは、すぐに見つかるもののはず……」
自問自答。しかし考えれば考えるほど分からなくなる。
いったいこの部屋には何があったというのだ。あの母さんは、何を隠したと……。
「……ん」
待て。
その前提は正しいのか?
何かを隠したのが、あの若くて美しい方の母さんであると。中条深天と名乗る和風の美少女のほうであると。
その推測が、違っていたなら?
何かを隠したのは、かつて存在した方の母さんではないのか。新しい母さんは、それを僕らに見せまいとした。
「……そうか」
すべて繋がった。
僕は家を出て、自転車を走らせて近くのホームセンターへ。
やはり店内には誰もいない。僕は大きめのツルハシをひっ掴むと、代金をレジに置いて帰宅。
そして母さんの部屋へ。床の断熱シートを見下ろし、決意を固める。
もし間違っていたら?
大した問題ではない。床に大穴が空くだけのこと。どこの家庭でも起こりうることだ。
そしてツルハシを叩きつける。樹脂製の断熱材があっさりと凹んで少しちぎれる。
手応えとしてはかなり固めの発泡スチロールか、道具がやや大袈裟だが、体力のない僕には丁度いい。
新しい母さんは、僕達からそれを隠そうとしたのではなく、完全に封印したのだとしたら。
封印のために時間が必要だったので、部屋に鍵をかけたのだとすれば。
この断熱材は元々の仕様ではなく、僕たちからそれを遠ざけるためのフェイクだとしたら……!
そして現れる。
部屋の中央部に空いた大穴と、そこから奥へと伸びる、タラップを備えた縦穴のトンネルが……。




