第二十五話 8月8日(2)
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西の彼方に夕陽が落ちる。
今日は暑気も和らいだ過ごしやすい日で、僕はリビングのガラス戸を押し開け、そこから足を下ろしている。
「お父さん寝かせてきたよ」
伊吹奇がソファにぼすんと座り込む。どこかでヒグラシの声がする。
「だいぶ良さそう。もう「治療」は必要ないかもってお母さんが」
「そうなのか、良かった」
浅めとは言え、催眠状態を続けるのは負担も大きいらしい、治療は最低限で抑え、あとは父さんが自然と中条家の一員となっていくのを見守るべきだと聞いていた。
伊吹が足をバタバタさせる気配があり、誰にともなくつぶやく。
「でもお父さんが治ると……お父さんの仕事はどうなるのかな?」
「ラジオさんがツテをたどって話をつけてるらしい。この町は一人で守るには荷が重いからって、もう何人か派遣してもらえるようにって」
考えてみれば父さんの乗っていた公用車、ドライバーの姿が見えなかった。
あれもまた何かの怪人か、一般的ではない特別な技術が使われていたのか。
世界には怪人がいて、町を守るヒーローもいる。
それはまだ完全に理解できたわけじゃない。どこか遠い世界の話に感じることは変わっていない。父さんがヒーローになったと言っても、家族がそれに直接関われるわけではない。
今は父さんをどう支えていくか、それに専念すべきなのだろう。
「お父さんケガして帰ってくるのは心配だなあ。というか、区役所の方にお父さんの治療してくれる施設とかないの? なんかベッドに手錠ついてて、真上にドリルとか丸ノコがついてるやつ」
「よく分からんけど伊吹奇のイメージ古くないか」
政府がヒーローをどのように生み出しているのか、怪人のことをどのぐらい把握していて、どのぐらい本腰を入れて取り締まっているのかも分からない。それはまるでパラレルワールドのように、僕の生きてきた世界にかぶさって存在するもう一つの世界だ。おそらく僕には調べようもなく、本来は一生気付くこともなかった世界。僕たちは父さんやラジオさんを通じて、その世界を垣間見るだけだ。
漠然とした事を考えていると腹の虫が鳴る。そんなことより夕飯まだ、と体が言っているようだ。
「夕飯って何だっけ」
「まだ一時間ぐらいあるよ。お母さん特製の黒酢の猫耳朶だって」
小麦粉で作るラビオリのような麺料理らしい。それは楽しみだ。
台所の方を見ると、母さんがテーブルいっぱいに麺打ちの準備をして小麦粉を練っている。
「じゃあもうちょいお腹空かせてこようか。買い物行こう」
「ん、いいよ。何買ってくるの」
「物置にある救急箱、中身がスカスカだったからな、色々買ってこよう。父さんに必要になるだろうし」
いいね、と伊吹奇が指を鳴らす。
そして買い物。
予算は数千円だったので吟味を重ねる。伸縮性のある包帯、新しい軟膏と消毒液、防水の絆創膏、テーピング用のテープと冷却スプレー、とげ抜きと小さなはさみ、文房具なども用意しておく。マルチビタミンのサプリとか保存の効くクッキーも。
「なんとか予算に収まったな」
「うん、私も応急手当の勉強しとくよ」
まだ色々と大変なことが起きそうだけど、備えるだけの時間はある。
恐れることはない。
今は家族もいるし、頼れる人々もいるのだから。
ふと、全身を打つ大気の気配。
突風だ。山の向こうから降りてくる熱気が津波のように押し寄せ、道に沿って折れ曲がりつつ僕に吹き付ける。腕を構えて土ぼこりの混ざった風から眼を守り、押し寄せる熱気に背中にじわりと汗をかく。
「……っと、強い風だったな、台風でも来てるのかな」
そういえば雲の流れが早い。
そろそろ夕映えに差し掛かる空を、王国のような雲の群れが流れていく。空気に潜む湿気と熱。上空の、人の知らぬ領域ではさらに苛烈な、破壊的な風が吹き荒れるのだろうか。
「夕立でも来たら事だし、急いで帰り……」
脇を見るが、伊吹奇がいない。
すぐ近くにいたと思ったが、距離が離れたのか。
それとも猫でも見かけて撮影しているのか。
まあ日も落ちきってないし、家も近いし、探すほどではないだろう。
家にたどり着く。玄関は開け放たれており、奥側の庭からの風が家を通り抜けている。リビングのガラス戸を開けてるとこうなる。
「母さん、帰ったよ。伊吹奇、戻ってるか」
返事はない。僕の声はいんいんと反響して庭へと出ていく。
「……」
何だろう。この感覚。
不穏な空気? 危うい気配? ただならぬ予感?
何も感じない。
ただ、無人というだけ。
その事に、少し心が圧迫される。
それはあまりにも自然だった。違和感があってしかるべきなのに、体臭や人いきれのようなものすら消えてるかのように、漠たる無人。
数秒、リビングに立ち尽くす。
そしてようやく焦りが足から這い上がってきて、僕は大股に歩いて父さんの部屋へ。
「父さん! 開けるよ!」
引き戸を開ける。誰もいない。
敷かれていた夏布団がはね除けられてるぐらいで、他に何の痕跡も見られない。
「ラジオさん! ミラちゃん!」
彼女らは二階の、伊吹奇の部屋に泊まっていたはず。階段を駆け登ってドアを開けるがやはり誰もいない。
壁にはラジオさんの使っていたラケット。ハイアライとかいう球技のものだ。捕球部分に何個か金属球が入れられており、その上からネットがかけられている。
ミラの鱗はどうか。ミラはラジオさんによって七割ほどの鱗を剥がされたが、背中や太股などにまだかなり残っていた。全体の半分を切っていれば暴走もしないようだと分かり、強引に剥がさずにいたものだ。
床に這いつくばって探すが、その欠片も見当たらない。
床に汗が落ちる、焦りのためだ。
何が起きている。
家族のすべてが消失、そんな馬鹿な、家を空けてたのは一時間もない。それにラジオさんとミラちゃん、母さんに父さんという四人の怪人がいたはずだ。
先刻の、体を突き抜けるような熱風。あれが何かを狂わせたように思える。世界が裏返ったかのような。
「どこへ……」
僕は一階へ降りてトイレと風呂場も探すが、やはり誰もいない。物置も、箪笥までも探す。
かのマリー・セレスト号のような悪夢の眺め。食卓の上に残された麺打ち棒、練った小麦粉の入ったボウル。開け放たれたガラス戸、何もかもが生活感を色濃く残したまま固定され、争った痕跡もない。
あらゆるものが僕を通り過ぎて消えた。
その概念が実感として到来する。焼きごてを当てられても、どれほど焦っても覚めてくれない悪夢。
世界が裏返る。
そのことを想う。
何が起きているのか、誰も語らず、示唆も残さず、ただ煙のように消える。
あるいはそれはまた起きたことか。
世界が一変して、僕だけがそれを認識するかのような。
「父さん! 母さん! 伊吹奇!」
叫ぶように呼ばわる。
答えは帰らない。中条家を満たす夏の残熱が震えるのみ。
「……」
認識せずにはいられない。
僕は拳を握り、それをだんと壁に打ち付けて、忌々しき名を口にする。あるいはその名を呼ぶことで、怪異なるものに近づこうとするかのように。
「誘拐犯……」
ここまでが二章となります、次の章が最後の予定です。
一気に完結まで書き上げたいのですが、どうなることやら……




