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第二十四話 8月8日(1)




朝の光が採光窓から差し込み、中条家の食卓を照らす。


そこに漂うのはコーヒーの香りだ。どこにでもあるインスタントのコーヒー、特別なものではないけれど、いつもと同じ朝だと感じさせてくれるような、どっしりと芯の通った図太い香り。


僕は食卓に腰かけて待つ。そこにあるのは二人ぶんの朝食。少し焦げたハムエッグとアボカド入りのサラダ、それにトーストという簡単なものだ。


準備は十分に整っている。

あとは順調に「治療」が進むかだけだ。


「おはよ……」


のっそりと、朝の食卓に現れるのは中条烈火。ケチャップ色のシャツを着た幼女だ。先日の傷はすでに完治している。

しかし少し様子が違う。ぼんやりと半分眠ったような眼をしていて、ゆっくり歩きながら新聞を手に食卓につく。


「ええと……母さんはどうした? それに伊吹奇も」

「何言ってるの父さん、母さんは病院だよ。それに伊吹奇って誰?」

「え……」


その幼女は眼をぱちくりと動かして、きょろきょろと左右を見る。


「もう何日も前から入院してるでしょ、もうすぐ妹が産まれるからって」

「そうだったっけ……」


なんだかしっくり来ないようだが、今の父さんは複雑なことが考えられない状態だ。少しぼんやりした後に手を合わせ、コーヒーをすする。


「なんだか久しぶりだな、コーヒー飲むの」

「そう? 毎日これだよ」

「そうだったな。うん、そうだった、ような……」


と、その時けたたましく鳴り出す家の電話。僕が素早く出る。


「はい中条です。はい、はい……え、今からですか、はい」


がちゃりと受話器を置き、気迫のこもった声を放つ。


「父さん! 母さんが産気付いたって! すぐ産まれてもおかしくないらしい! 病院行かないと!」

「え、病院って、いったい何の……」

「柳橋の産婦人科に決まってるでしょ! 早く準備して! いやもういい! すぐそこだから走って!」


父さんの手を強引に掴み、立たせて玄関へと引っ張る。


「お、おいカラノスケ、何の話だ。産気付いたって何のこと」

「寝ぼけてるの! 僕に妹が産まれるんでしょ!」

「妹……」


父さんは幼児の姿のままでビーサンを履き、家から200メートルあまりにある産婦人科へ。ここは僕と伊吹奇が産まれた産院でもある。


「産まれる……伊吹奇が」

「どうしたのほんとに、夢の中にいるような顔だよ」


父さんは混乱している様子だったが、僕の言葉に少し眼を開き、何かを飲み下すような数回のまばたき。


僕の台詞は暗示の一部だ。

これは夢かもしれない、と意識させると、時系列の矛盾や細かな記憶との齟齬を無視しやすくなるのだとか。


「中条ですけど、入院してる中条深天が産気付いたとか」

「ええ、すばらしい安産で、もう産まれていますよ、こちらへどうぞ」


受付にいた看護師さんはベテラン風の熟女である。銀縁の眼鏡を光らせてそう言う。なぜか婚活パーティーみたいな完璧な化粧をしていた。


看護師さんは映画の撮影だと認識している。ここらへんの協力を取り付ける手腕はさすが伊吹奇というべきか。


そこへ医師が登場。長身で色素の薄い肌と、青に近い瞳を持つ女医だった。

ラジオさんである。ここのお医者さんに出演を頼むには演技力に不安があったのだ。

ラジオさんはなぜか緑の手袋をして手術着姿で現れ、手に抱いた赤子を差し出す。


「体重2984グラム、元気な女の子ですよ」


その子も伊吹奇の友人のツテで出演を依頼した子だ。一歳と二ヶ月ぐらいで体重は八キロほどある。どう見ても新生児ではないが、ラジオさんは神妙な顔と朗らかな笑顔が同居するような、絶妙の顔でその子を手渡した。


父さんはまだ混乱を顔に宿しつつ、タオルにくるまれたその子を受けとる。

実際の新生児との対面とかけ離れ過ぎてるが、そこは母さんの暗示が効いているのか、あるいは父さんが幼児らしく細かいことを考えないのか、その子を受け取り、顔をじっくりと覗き込む。


「そうそう、こんな感じの子だった、父さんによく似てるだろ」


全力で突っ込みたかったが、腿をつねりながら耐える。


「妹ができたんだ、しっかりしないとな、カラノスケ」

「……」


はっと。

僕の記憶に呼応するものがある。


覚えてるはずはない。

本来は僕はこのとき4歳だ。

妹が産まれたときはどこにいたのか思い出せないが、産院に来た記憶はない。たぶん家で留守番だろう。


それ以降つい最近まで、妹だとも知らされなかったのだ。


しかし、確かに今の台詞には聞き覚えがある。伊吹奇のことを、僕の妹だと……。


「はいオーケー」


ちりん、と鳴る鉄風鈴の音。


瞬間。

父さんがぐらりと傾き、ラジオさんがさっと子供をすくい取ると、僕は後ろから抱き止めて父さんを支える。


「おおむね良好ね」


そこに現れるのは現在の母さんと、中学生になった妹の伊吹奇である。

伊吹奇はカメラを構え、映画撮影でよく見るカチンコを持っていた。その後ろでは数人の看護師さんや掃除のおばさんなどが遠巻きに見ている。


「映画ってこうやって撮るんですねえ」

「あの子が父親役ってなんだか不思議というか、どういう設定なのか分からないけど、すごく真剣に演じてて感動しました」

「どこで見られるんですか? 完成したらディスクに焼いてくれます?」


わいのわいのと、ギャラリーが騒ぎ出すのを伊吹奇が引き受け、何やらそれっぽい解説をしている。


「次は何?」


僕の問いかけに、母さんは台本を開いて言う。母さんはレンタルの和服を着ていた。次の場面に合わせた衣装だろう。


「えーと、次は伊吹奇が小学校に上がるとこね。出演は伊吹奇と私とミラちゃん。カラノスケ、小学校まで行ってミラちゃんのメイクをチェックしといて」


父さんは、すでに七度の眠りと覚醒を繰り返している。

具体的な暗示としては一つだけ、鉄風鈴の音を聞くと眠ることだ。催眠深度としては2、夢うつつで判断力や思考力が低下し、大過去の記憶や本能的な思考が表に出てくる状態だという。これによって、多少不自然な過去の回想を受け入れられている。


母さんの催眠で直接的に記憶を戻すことも検討したが、それは危険なのだという。幼児の体と精神のギャップは埋まりかけており、それ自体は元に戻すべきではない。

すなわち、父さんは現在の体のままで母さんとの出会い、結婚、僕たちの生誕と成長というイベントをやり直す必要があるのだとか。


ただし、母さんとの場面はいずれも短く、居間で軽い会話を交わすだけのものだった。母さんとどういう付き合いをしていたのかは調査できなかったのだ。それはこの「治療」の入り口に過ぎないため、あまり厳密さを求めなくてもいいのだとか。


そしてまた父さんは目を覚まし、インスタントコーヒーの香りが出迎える。

僕なりに再現したハムエッグとサラダの朝食。本来の母さんにどれほどこだわりがあったのか分からないけれど、中条家の朝食はやはりこれなのだろうか。それなりにしんどい日常を予感させる苦味と、活力を与えてくれるコクと香り、それが父さんにとって一日のスタートラインだったのか。


場面は移って、ここは夏奥小学校の正門。和服姿の母さんがカメラを構える。


「三人とも笑って、撮りますよ」


父さんの左右にはランドセルを背負ったミラと、男装した伊吹奇。つまり伊吹奇が小学4年生の僕をやり、ミラが小学1年生の伊吹奇を演じている。


「二人ともしっかり大きくなれよ、それと(くす)の木は登るんじゃないぞ、父さんは昔落っこちて腕を折ったからなあ」


……。


「カラノスケくん、どうかしたかい?」


おおよそ出番の終わったラジオさんが問いかける。


「いえ、思い出しちゃったなあと」


父さんは、だんだんと本来の記憶を取り戻しつつある。

さっきの病院でもそうだった。今もだ。


「あの台詞。楠の木に気を付けろってやつ、当時も言ってたんです。同じ台詞を」

「そうなのか、不思議だね。お父様にとっても遠い記憶になってるはずなのに、同じ台詞が出てくるなんて」


本当に不思議だ。当時の入学式とは何もかも違うのに、父さんの中では何かが同じように噛み合って、同じ台詞が生まれてくる。

それは中条烈火という魂のカタチか。

姿が変わっても、心が変わっても、中条烈火という人物の生きてきた過去までは変わらない。それは魂のカタチとして残っており、何度生まれ変わっても同じ生き方を貫くのか。


「人間は不思議だ。みんな同じように生きているのに、よく見れば一人として同じ人はいない」


ラジオさんは独り言のように言う。


「そして一個人には七彩の表情があり、無限の感情があるのに、それはやはり同じ個人なんだ。どれほど触れ幅があっても他人にはならない。興味は尽きない」

「そうですね」


ラジオさんは、だから人間に興味があるのだという。

その本質は、感情の起伏を感じとるという父さんと同じ、世界の片隅で一つのアンテナとして立ち、無数の声に耳を傾ける怪人なのだとか。


「そういえば、ミラちゃんの引き取り先が見つかったよ」

「本当ですか」

「うん。非政府筋で信頼の置ける施設だ。怪人の事情にも通じてる。もう少し烈火さんの様子を見届けたら、送り届けようと思ってる」


怪人。世界に密かに息づく、社会の外側を生きる人々。


父さんを入れれば、僕たち兄妹の回りに四人もいる。ずいぶんよく見るものだ。



(……だけど、あるいは)



あるいは、怪人たちを引き付けて止まない。

それほどに歪んでいるのか、この町は。




あるいは、中条家は。


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