第二十二話 8月4日(1)
黒い網の中にいる。
中条家に蚊帳があったことに驚いた。物置の奥にしまってあったものを、母さんが見つけたのだという。
目の前にはタオルケットを腹にかけて寝そべる父さん。もうすべての傷は癒えて、今は寝息を立てている。
母さんは着流しのような和風の寝巻き姿となって、うちわで父さんを扇いでいる。
「伊吹奇、遅いわね、泊まってくるのかしら」
時刻は深夜0時を回っている。
伊吹奇の帰宅を待っていたが、その気配はない。僕は妹の事が心配で寝付けず、入浴もせずにまんじりと待っていた。母さんも23時ごろまで父さんの看病をしていたが、やがてその身柄を布団に移す。今日はリビングに布団を敷いて、そこに寝かせた。
「やっぱり、探しに行くよ」
僕が立ち上がろうとするのを、母さんが裾を引いて止める。
「ダメよ。見つかるわけないし、危険だから」
「でも、伊吹奇だって危険に……」
「待ってれば手懸かりが手に入るんじゃないの、お父さんが『呼ばれる』とか」
「そもそも、父さんってどんな基準で出動してるのかな」
「頭のここ」
母さんが指でとんとんと叩く。
「何かの受信機があるわ。この位置は恐怖や怒りに関連する部位。おそらく町で生まれた強烈な感情の起伏を感じ取れる仕組みね」
「どうしてそんなこと分かるの……?」
「テレビ見てたら分かるわよ」
「分かるわけないよ」
多少、ムキになって反発する。母さんはうちわを扇ぐ方向を変え、僕にそよそよと涼しい風を送りつつ言う。
「分かるわよ。テレビを見てれば世界の技術力の程度が推測できる。人間は脳手術もできるし、脳の活動を電磁波として捉えてアンテナで受けることもできる。だからこの程度の仕組みは作れるでしょう」
「……」
一を聞いて十を知る、みたいな話だろうか。どうも母さんの言わんとすることは僕の尺度と食い違ってくる。
「……母さんは何者なの?」
「ん、そうね、ぬ……」
と、そこで言葉を切り、うちわで口元を隠してしまう。母さんにしては妙に慌ただしい動作だった。
「まあ、怪人ってやつかしら。人間社会の仕組みを逸脱した人のことね」
……ぬ?
「怪人って……母さんは何かの犯罪者だって言うの。何かから逃げて、この家に……」
「怪人イコール犯罪者なわけじゃないわ。透視とか、時間停止の超能力が使える人が、必ずしも犯罪に手を染めるわけじゃないでしょう?」
「会ったことないから分かんないよ……」
「私もないわ。というか時間停止あったらやっぱり何かやるわよねエッチなこととか。例えが適切じゃなかったわ」
「話を進めて……」
ぱたぱたと、うちわで腿のあたりを叩きつつ、母さんが話を切り替える。
「私なんかのことより、お父さんのことを心配しなさい」
「父さんの……?」
「だいぶ無茶な造りのボディね。おそらく人工的な肉体に記憶を移して生まれた怪人。でもたいして強くない。この体で強めの怪人とやりあってたら死んじゃうわよ」
「よ、弱い、のかな……?」
母さんは指を伸ばし、父さんのほっぺたをつまむ。餅のように弾力があった。
「じゃあカラノスケ、警察が本気になってお父さんを追いかけたら、お父さんは勝てると思う? 銃弾の雨をかいくぐって、柔道の有段者ぞろいの警官隊を蹴散らせる?」
「……そうは見えない」
想像する。この小さな手足が実は十万馬力を秘めていて、音速で動きながら警官隊を投げ飛ばしていく。
それはイメージできない。どこか直感として、父さんの強さはそこまでではないと感じている。
「社会から逸脱するというのはね、公権力の持つ暴力装置を『ものともしない』というのが第一条件なのよ」
「……」
「つまり本当の怪人は警察よりも強い、だから父さんでは勝てない、そういう不等号の理屈ね」
しかし。
父さんには役割があるはずだ。この町に潜む怪人を倒すという役割。それは果たせないということなのか。
「キッドナッパーには、勝てないの……?」
「その名前は噂で聞いたことがある。ネームバリューだけなら私よりずっと上よ。まあ勝てないでしょうね」
「じゃあ、父さんは……!」
「別にヒーローなんて辞めちゃえばいいでしょ。仕方ないじゃない弱いんだから。これって一種のサイボーグ化だから、特訓で強くなるって感じでもないし」
「辞められるの?」
「まさか消されるってこともないでしょう。その辺の手続きはちゃんと用意しておくのがお役所ってものよ。問題は……」
と、母さんは寝息を立てる少女の頬を撫でる。そこには何かしらの親愛さが感じられる。
この母さんは、元の母さんとは別人。それだけは間違いないのに、そのにじみ出るような愛情の気配は何なのだろう。ひどく自然で、母さんではないと分かっていても、その醸し出される空気に身を委ねたくなる。
「……問題は?」
「お父さんに辞める意思があるかどうか、ね」
「……どういうこと? 本人が望んだこと……ではあるみたいだけど、そこまで使命感があったようにも見えないけど」
そのとき。
がば、と父さんが上体を起こしてタオルケットをはね除ける。
「うわっ……と、父さん」
「ん、ちょっと仕事入ったから、行ってくる」
仕事。
まさか、また何か感じ取ったのか。
父さんはもう眠たげな様子など微塵もなく、蚊帳を押し開けて出ていく。
「父さん、もう深夜だよ」
「いいからいいから、行かないと」
シャツの裾も直さずに玄関に向かう。僕は背面からその手を捕まえる。
「父さんダメだよ! こんな仕事してたら死んじゃうよ!」
「離してくれ、呼ばれてるから」
「父さんさっき大怪我してたんだよ! まだ治りきってるかどうか分からないんだ! だから」
父さんが、中条烈火が振り向いて、僕を見ている。
その少女らしきつぶらな瞳を見たとき、僕は背筋に冷気が走るのを感じた。
「離してくれ」
「う……」
指から力が抜け、僕は気圧されるように後退。
今の父さんの眼は、表情は何を意味するのか。
特に何の感情も浮かべず、僕の眼を正面から見据える顔。
ややすぼまった口元。力の抜けたまなじり。
そこにあったのは疑問の感情。なぜ、この人は私を止めようとするのか、出動の邪魔をするのか。
それは敵意あってのことなのか否か。
力付くで振りほどいてもいいのか。そういう逡巡の色。
それだけではない。
あれは、僕が何者なのかを考えている顔だった。
中条烈火にとって僕は何者なのか。中条烈火の仕事に対して僕はどんな意味を持つのか。
そして父さんは、何の感情も込めずに僕の手を振りほどいたのだ。僕の言葉が父さんに浸透していかない。父さんは僕を見ていない……。
玄関がバタンと閉まり、僕はその場に膝をつく。
「父さん……」
いま、理解できた。
父さんは、すでに別人になりつつある。
思えば父さんは性格からして変貌していた。子供らしいしぐさ、感情、時間の流れ方までも子供になって、中条家の父親としての自分を忘れつつあるのか。
「怪我を治すときに一気に進行したみたいね。お父さんの本来の人格が消えつつある」
「母さん!」
僕は背後に来ていた少女にすがりつく。おそらくは同年代であろ少女に、必死で懇願する。
「どうすれば、どうすればいいの……。このままじゃ父さんが消えてしまう。生死がかかっているというだけじゃない。この家の家長だったことも。僕と伊吹奇の父親だったことも忘れてしまう……」
「カラノスケ、それは母さんも分かっていたのよ」
僕の頭を撫でつつ、諭すように言う。
「でも止めなかった。お父さんの意思を尊重したってこともあるけど、今の状態が必ずしも悪いことじゃないと考えたからよ。若返り、それを手に入れるために富豪がどれほどの価値を支払うと思う? お父さんは元々の人格を失うかも知れないけれど、中条家の一員であることは失わない。伊吹奇より下の妹になって、中条家と夏奥町を守る存在になる、そういう未来だってあり得ると思ったの」
「でも! 父さんじゃ怪人に勝てないって!」
「キッドナッパーほどの大物がいるとは思わなかったからね。でもそれにしたって同じ、怪人というのはね、人工の存在では天然物のトップクラスには遠く及ばない。キッドナッパーではそもそも大物すぎて、お父さんが捕まえられるような相手じゃないの。出会うこともなく、弱い怪人だけを相手にできると思ってた。問題はただ一つ」
母さんは、それは怪人であるという彼女にしては珍しく感情の片鱗の見える顔だったように思われた。眼は熱気を帯び、僕の眼を見据える。
「本来のお父さんが、それを良しとするかどうかよ。人格は肉体に引きずられる。お父さんの記憶と魂は、あの少女の体に段々と馴染み、本来の形を失いつつあるの。それは本人にとって何を意味するのか。それを考えなさい」
本人にとって、何を意味するのか。
考える……。それが中条烈火という人物にとって、中条家にとって何を意味するのか。
それは。
考えている暇など、ない。
「父さんを追おう」
僕は立ち上がり、中条深天の両手を取って言う。
そう、すべては。
「僕は父さんに消えてほしくない」
「それを伝える。すべてはそこから始まるはずだ!」




