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第二十話 8月3日Another(1)


乾いていた。


絶え間なく遅い来るのは七彩の苦痛。餓え、乾き、苦痛、倦怠、焦燥、悲哀、そして虚無。

暗闇の中で何かを貪り喰う、そのたびに自己が虚無へと近付くのが分かる。


それはネズミであったのか、それよりも小さなものか、あるいは大きなものか。

分からない。考えることが恐ろしかった。


銀の鱗がコンクリートと擦れあってざりざりと鳴る。

それの全身は鱗に覆われていた。生まれもっての物ではない。感情が食欲に塗りつぶされるとき、表皮が銀色に硬化する。


そのざりざりとした鱗が身を守ってくれることは理解していた。長柄の武器で殴られたときも、獰猛な犬と戦わされたときも、そして追っ手から逃げるときも。


かつての主人は、よく自分を殴ったような気がする。先端が膨れた長柄の武器で自分を打ち据えた。彼は銀の鱗で身を守る。痛くはないが、殴られるのは嫌だった。くろぐろとした悪意の感情が、美しい鱗に斑点となって残るような気がしたから。

主人は実験だと言っていたが、自分を殴って何が分かるのか、それは分からないままだった。


「……私は貴重な噂をいくつも聞くことができました」


どこか遠くで声が響くような気もする、空腹のあまり意味のあるものとして聞こえない。


屋敷を抜け出して、どのぐらい経っただろうか。

時間を計る技術は持っていない。

追っ手は上手くまけただろうか。

あれは主人の差し向けたものか、それとも自分は追いたてられる存在なのか。

飢餓は勢いを増している。川のそばで数少ない食料を捕食するが、とても足りない。


意識が朦朧として、餓えを意識する以外の思考がなくなりつつある。


「……噂は驚きのものでした、なんとこの町に、あのワニ男が再び現れたと言うのです」


鼻を効かせる。犬の死骸もない、河川敷から川を見るが、彼の目では水中の魚影は見えないし、見えても捕まえられるかどうか。


「……以上の噂を総合して、私はそれの潜むと思われる地点にやってきました。ここは工場排水により暖気があり、野犬などが溜まっていることの多いポイントで……」


何かが聞こえるが、セミの声に紛れて意味を結ばない。気だるげな心境の中で音から逃れるように手足を縮める。


「いました! ワニ男です! 全身が銀色の鱗で覆われています!」


はっと振り向く。気がつくのが遅れた。空腹のためか。


人間。


それは理解している。体型はだいぶ違うが、彼の主人と同じ種族。栗色の髪の女だ。

短い思考が散発的に起こる。


見られた。


捕まる。


逃げるか。


いっそ食い殺す。


「あれ? よく見たら人間? なんか鱗があるけど……」


隙だらけ。

どこを食えば殺せる。腹か、喉か。


「ごはん探してるの? 私の焼いたバタースコッチならあるけど」


サイドバックから取り出す、ラップに包まれた四角いパン。

それを眼にしたとき、それ以外のものが視界から消し飛んだ。

なんという芳香。数メートル離れても伝わるほどの熱気。


それは四足で駆け、少女の手にあったものに飛びつく。もぎ取るように食らいついて、そのままラップごと食いちぎる勢いで喰らう。


「うわっと。え、あなた……」


少女が背中を撫でてくる。なんなのだこいつは、獲物のくせに逃げないのか。と思う。

しかしその背を撫でる手は心地よかった。口中に溢れかえるようなバタースコッチの甘み、胃の府に落ちてくる満足感が合わさって、撫でられることに身を委ねたくなる。


「女の子だね……」





「ふうん、誰かの家で飼われてたんだ、山の中のお屋敷で?」

「そ、そう」


言葉を使ったのは久しぶりだった。前の主人は言葉を放つと殴ったから。

言っていることは理解できるが、自分からは簡単な言葉しか返せない。イエスノーが主体の会話となる。


伊吹奇のカメラは友人から借りたものだ。空之助は想像できなかったようだが、カメラを借りるツテぐらい山ほどある。


「こないだ、街で爆発が起きたでしょ、あれあなたの仕業?」

「う、うん、そう」

「何があったの?」

「な、なかった」


カギが無かったという意味だ。

食料庫にカギがかかっていたので、近くにあったプロパンのボンベをひっぺがしてぶつけたら爆発した。

ということは説明しきれず、言葉がつまってしまう。そして喉もつまりそうになる。 


「む、むぐ」

「ほらお水飲んで、たくさんあるからゆっくり食べてね」


河川敷から移動して、路地を通り廃屋の庭を通ってたどり着く、ここは夏奥神社の裏手、獣道のような細い道を通って行ける小さな社だ。

今日は町内会による掃除もなく、参拝客も滅多に来ない場所なので人気(ひとけ)はない。中条伊吹奇はそのような町の死角を熟知していた。


銀の鱗を持つ少女の前には菓子パンの山。コンビニで買ってきたものだ。ビーフジャーキーやサバ缶もあったが、少女はパンを好むようだった。主人は生肉や生き餌を与えていたが、そんなに好きでもなかった。


「あれ、鱗がなくなってる」


伊吹奇が腕をさする。先ほどまで首から下を覆っていたのに、今はしっとりとした少女の肌である。落ちたのかと思って地面を探すも一枚もない。


「か、からだ、固くなる」


実演してみせる。まず腕の表面が石のように白くなり、凹凸がなくなって鏡のようにつるつるになる。そして銀色、すなわち金属光沢色が出るほど滑らかになって完成となる、そこまで二秒あまり。鱗というよりタイルのようである。感情の高ぶりによって変化するが、時間をかければ自分で変えることもできる。

やるごとに多少、腹は減るが。


「すっごい、超能力みたいなことかな?」

「わから、ない……」


実に12個ものパンを平らげ人心地がつくと、だんだん理性が戻ってきた。言葉の理解も深まってくる。ほとんど常に脳が低血糖の状態だったのだ。


「ねえ、あなた名前は?」

「な、名前、ない」

「名前がないのか……ワニ男ってのもアレだから名前つけていいかな。鱗が鏡みたいだから、ミラって呼ぼうか」

「す、好きにする、いい」


それなりに話が通じるらしいと分かり、伊吹奇の眼がらんらんと光る。


「ねえ、インタビューさせて欲しいんだけど」

「も、もう帰った方が、いい」

「どうして?」

「ね、狙われてる。何度も、襲われた」


伊吹奇はカメラを下げ、ミラの顔を覗きこむ。

怯えている、と感じる。皮膚がちりちりと鳥肌が立ち、それが固まっては戻り。草原に風が吹くように部分的な変化が起きている。


「大丈夫だよ、ここ誰も来ないから」

「……み、見つかる、そのうち。殺すしか、ない」


伊吹奇の眼に悲しみが降りる。


「どうして……こうしてちゃんとお話できるのに。捕まったり、追われたりしないといけないの……。おかしいよそんなの。そうだ、警察に行こう、きっと守ってもらえる」

「け、警察、だめ」

「どうして」

「ま、前にいたところ、警察、たくさん、いた」


伊吹奇が絶句する。

では、ミラは公権力によって捕獲されていたのか。それが抜け出してきた、そういうことなのか。


「ううん……どうしよう。ミラってもしか……しなくても、お父さんが戦ってる怪人だよねえ。お兄ちゃんに相談していいのかなあ。ラジオさん……は知り合ったばかりだし、友達とかも巻き込めないし……」


はた、と動きが止まる。

そういえば、何かがおかしい。


「……ねえミラ、あなたが町に出てきたのって何日前ぐらい?」

「い、五日前、ぐらい」


ミラは膝を抱えたまま、周囲を警戒するように固まっている。


「それ以前にこの町に来たことある? お屋敷を出たことは?」

「な、ない」

「……」


昨日、見た映像を思い出す。それを撮影したときのことも。

ワニ男の噂は春先に出たものだ。それは他の噂より長く、数週間続いたが、やがて消えた。


今、町にいる怪人とはミラだとして、ではワニ男とは何だったのだろう。まったく関係など無いのだろうか。


「ふう!」


突然、ミラがうなり声を上げたことに驚く。


「ど、どうしたの」

「そこ! 誰!」


ミラが吠える先を見る。

小さな社が片隅に座す、さほど広くもない空間。

それを取り囲む雑木林の奥に、影が。


人のようなシルエットではあるが、頭部に違和感がある。

まるで鳥のクチバシのような、細長い湾曲したものが側頭部から突き出しているのだ。


「……? あれって……」


見覚えがある。

この距離ではほとんど輪郭しか分からない影だが、記憶の中の何かと符合する。

そうだ、あれは春のこと、夏奥神社でインタビューしていたときに見えた人影。一瞬の事だったので、伊吹奇すらも見間違いかと思って記憶として残らなかった影。

側頭部から何かが突きだしたそれは、見ようによってはワニの頭とも。


「ワニ男……!?」


その頭部が動くかに見えた瞬間。

空気を裂いて何かがすさまじい速さで飛び、脇にいたミラを直撃する。


「! ミラ!」

「はぐっ……」


その全身を鱗が覆っていた、防御は間に合っている。

鏡のような鱗は侵食するように首を這い上がり、顔面までも、眼の回りまでも埋める。


「ううっ」


そして鱗に覆われた姿となったミラが吠え声を上げ、背中を覆った鱗がパキパキとひび割れる。


そしてミラが、唯一残った生身の部分に、その少女の眼に怒りをみなぎらせて走る。


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