第二話 7月6日(1)
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授業が耳に入らない。言葉がひとかたまりの綿のようになって、耳のそばを抜けて開いた窓から大空に飛び立っていく。
授業に身が入らないことを申し訳なく思うが、右脳も左脳もそれどころではなかった。手だけはがりがり動いてノートに文字を書き続ける。
あの三人の少女は何なのか?
僕の家族はどこへ?
誘拐、事件、失踪、身代金、神隠し、エイリアン・アブダクション。
手だけは動いて何か相関図らしきものを書いてるけど、推理とか整理とかには程遠い。書いてるうちに混乱が深まるばかりだ。あまり頭がよくない自覚はある。
一度自分を振り返ってみる。僕は高校二年生で誕生日がまだ来てない16歳。「弟の」伊吹奇は学年で三つ下、中等部二年の13歳。
「妹の」伊吹奇は僕の五分前に家を出た。おそらく教室にいるのは彼女だろう。
昼休みにそっと気配を消して移動。うちの学校は中高一貫であり、ダンベルみたいな形状をしている。渡り廊下をながながと歩いて中等部の校舎へ、そして弟の教室へ。
果たして彼女はそこにいた。クラスメートと親しげに会話し、小さめのお弁当をつついている。
「ちょっと、そこの君」
「はい?」
僕は手近な男子を呼ぶ。中等部とは微妙に制服が違うので、僕が高等部の生徒なことは一目瞭然だ。その生徒は怪訝な顔をしながらも僕の方に来る。
「なんでしょう?」
「あそこで青い弁当箱つついてる子は……ええと、中条伊吹奇?」
「そうですけど」
「……む、昔からいた子? 転校生とかじゃなくて?」
「昔からというか……入学式からいますけど。呼んできましょうか?」
「い、いや、いい……」
他の生徒の眼がちらほら向き始めたので、僕は慌てて退散する。
なんだか妙な噂にならないといいけど。いや、噂なんかどうでもいい、今のこの現状を何とかしないと。
「どうなってるんだ……」
ダメだ、考えがまとまらない。というか何も浮かばない。海の真ん中に放り出されたチワワの気分だ。
僕は教室に戻って自分の弁当を開こうとしたが、食べ物を見るとえづきそうな気がして包みが開けない。情けないことだがそのぐらい混乱していたのだ。
「……あ、そうだ」
僕は高等部の屋上へ向かう。
僕たちの学校では屋上が解放されている。
とはいえ緑の防水シートがめくれあがっていてボコボコしており、鳥の糞やゴミなども落ちてるので生徒はあまり利用しない。
フェンス越しに町並みを眺めることはできる、やる気のない弁当のような殺風景な住宅地が広がっていた。
僕は屋上の片隅、アンテナの立っている脇にあぐらをかく。屋上に他に生徒がいないことを確認すると、僕はアンテナの根本をカンカンと叩いた。
「ラジオさん」
カンカン
「ラジオさん、いますか」
頭の上には枝分かれした巨大なアンテナ。高さは四メートルあまり、八木アンテナというものらしいが今は使われていない。数年前まであった無線部とかが使っていたらしいが、廃部になった後も撤去費用がかかるとかでそのままになっている。
そして、アンテナの根本から、声が。
『やあ、空之助くん』
親しげな声が響く。低く落ち着いた女性の声であり、生乾きの洗濯物のような気だるげな響きだ。
「すいません、急に」
『いいんだよ、本を読んでただけだから。「寿限無、寿限無」というSF短編なんだけど、あまりにもスケールが大きすぎて、時間や歳月の意味を見失うような気分だったんだ』
ありていに言うと暇だったのだろうか?
この人はいつもゆっくりと、一言一言を僕に刻み付けるように話す。
彼女がどこの誰かは知らない。知り合ったのも偶然だ。
やはり屋上で弁当を食べていたとき、このアンテナの根本から声がすることに気づいたのだ。
ラジオさんとは彼女の自称。家から一歩も出ることなく、アマチュア無線で一日を過ごしている人物だという。
彼女が言うには何らかの偶然だという。屋上にある八木アンテナがラジオさんのハム無線の電波を捉え、このフェンスが増幅器となって音声を届けるのだとか。
『無電源ラジオというやつだね。昔は鉱石ラジオという名で知られていて、ガードレールだとか、歯の詰め物がラジオになったなんて話もあるよ』
とはラジオさんの言葉だ。
「ラジオさん、実は相談が」
僕は自分の身に起こったことを説明する。なにぶん突拍子の無さすぎる話なので説明が難しかったが、ラジオさんはじっと黙って聞いていた。
『その変化はいつから起きたんだい?』
ひとまずの説明を終えて、最初に来た問いがそれだった。
「今日の朝からです」
『君の言う、「以前の家族」を最後に見たのは?』
「ええと、昨日は夜遅くまで部屋でゲームしてて……パタンと寝てしまったんで、父さんは昨日の朝食の時に、弟と母さんは夕飯の時に見たのが最後……かな」
『なるほど、君は家族が別人のようになってしまったと思い、それに困惑しているんだね』
「別人のような、じゃないです、別人なんです」
『ふむ……なぜ別人だと困惑するのかな?』
「え?」
なぜって、そういうものじゃないの?
『ある哲学者は、家族というものをこう説明した。家族とは自然であり、自己目的的であり、個人の内的倫理によって支えられ、関係性によって成立し、それゆえに交換不可能であると』
「……よ、よく分かりませんが」
『つまり、家族として機能している集団が、その一人、または複数を別人に交換した場合、家族の果たす機能が同じであっても受け入れられない、ということだよ。なぜなら家族は親愛で結ばれており、親愛とは個人の特別さを意味する感情だからだ』
「あ、当たり前ですよ」
『そう、当たり前だ。当たり前すぎて説明する必要がないほどだ。でもね、大戦後の世界にあって、この当たり前の家族の形が解体されようとしている。人間とは平等な存在である、という発明だ』
「平等……?」
『人間を区別しないのならば、血縁関係のあるなしで区別しない、性別や年齢で区別しない、家族と、家族でない人間で区別しない、ということにならないかい? 「家」において子供は誰が養ってもいいし、誰が収入を稼いでも、誰が家事を行ってもいい。あるいは子が、地域のどの家で育てられてもいい、極端な大家族集団ではそのような例も見られるようだが』
「そ、そんな無茶苦茶な」
『そう、無茶苦茶だ、これはあまりに現代人の直感に反している。だからひとまず忘れてくれ』
あっさりと引いたので、僕はなんだか肩透かしを食らった感じになる。ラジオさんの言葉はときどき理解不能になるが、その奥に誠実な響きが常にあるため、からかわれたような印象はない。
ラジオさんは話を先に進める。
『それ以外に何か変化していることは?』
「他に……? ええと、何が違ってたかな、家の間取りは同じだし、ああそうだ、朝食のメニューが違いました」
それは説明を省いていたので、なるべく詳細に思い出して説明する。
「でも朝食のことは関係ないかも」
『そうでもないよ、君の家で味噌汁が出る場合、味噌の種類は何だい?』
「ええと、そういえば合わせ味噌ですね。今日は赤味噌でした」
『とすると、その「新しい母親」は味噌を買いに出ているはずだ。彼女がいつ買い物に出たのか分かれば、入れ代わった時間が絞り込める』
「な、なるほど?」
それは確かにそうかも知れないけれど、入れ代わったのが何時か、なんてことに意味があるのだろうか。
『それに、その「新しい母親」は前の母親が何を作っていたかにこだわっていない。成り済まそうとしていない、ということだ』
「はあ、まあ、外見が全然違いますし、割烹着でしたし」
どうも話のピントがずれてる気がする。僕としては警察に行くべきかどうか、という話になると思ってたんだけど。
思いきってそう聞いてみた。
「あのう、これってやっぱり警察に行くべきですよね。本来の家族が誘拐されてるかも……」
『どうかな。これはあくまで僕の勘だが、例えば警察やマスコミに訴える、何かしら決定的な矛盾を突きつける、などの派手な行動に出た場合、最悪の結末しか訪れない気がするよ』
「え……」
『何故なら、三人とも君を騙そうとしていないからだ。君が違和感を持つのは当たり前なのにだ。君に決定的に拒絶されたなら、その時点で何もかも終わり、触れれば砕けてしまう強引なジグソーパズル。下手に動けば噛み砕かれる鰐の口。そういう現象だと思う』
「い……言っている意味が……」
『僕の思うに、必要なことは観察、まず事実を一つ一つ固めていくことだよ。冷静にその三人を観察して、一人ずつゆっくり、その実像に近づくんだよ』
観察、そんなことで解決できるんだろうか。ガチガチに凍りついたアイスに、絆創膏みたいな木のヘラで立ち向かう心境だ。
「具体的にどうすれば」
『たとえば、アルバムだ。過去のアルバムを見て、そこに描かれている家族と現在の家族が別人だと確認する、そこを第一歩としてみたらどうだろう』
アルバム……。でも我が家ではほとんど家族写真を撮らなかったし、家族で旅行した記憶もない。小学校と中学校の入学式で、正門の前で撮った写真も僕だけだったし。どの家でもそんなものだろうし。
それ以前に、別に写真など見なくても別人になってることは明白だし……。
そこで予鈴が鳴った。
もう少し相談したかったが、僕はラジオさんに別れを告げて立ち上がる。
『奇妙なことというのは、繊細なものなのだよ』
ラジオさんの言葉がなぜか脳裏に残り、午後の授業の間もときどき思い起こされた。