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第十八話 8月3日(2)


「キッドナッパー……」

『そう、誘拐犯という意味だね。それが君たちの町に潜み、暗躍しているとの情報を得た』

「この町に行方不明者が多いことは、その人物の仕業だってことですか?」

『それは分からない。理由は一つではないのかも知れない。ただ言えることは、キッドナッパーは人間を超えた存在だということだ。人間社会の機構ではそれを捕まえることはできず、正体を掴むこともできない。漠然と君の町にいることだけは掴んだようだが、そこから捜査が進展していない。透明になるとか、時間を止められる超能力者と戦う感覚に近い。人間では立ち向かえない相手なんだ。政府はそれに対抗するために、何らかの特殊な人材を育てて活用しているという。カラノスケくんのお父さんはそれになってしまったのだろう』


雲をつかむようだ。

それはラジオさんの言葉と僕の世界観とのギャップだ。ラジオさんの話していることがあまりに荒唐無稽か、あるいは僕の理解を超えているために、実感として感じられない。

だが一つだけ分かる。そのような情報はあまりに常軌を逸している。

およそ、人並みの人生においては無縁なほどに。


「ラジオさん……なぜそんな情報が手に入るんですか」


沈黙。


八木アンテナの枝の間を風が吹き抜ける。ざわざわと背後から迫る葉擦れの音が意識される。


「そんなこと聞いたこともない……。怪人? 政府? 特殊な人材? それは現実のこととは思えない。だけど、もし現実とするなら、なぜ家で引きこもっているだけのラジオさんにそんな事が分かるんですか。それにこの会話。八木アンテナならどこででも受信できる? そんな単純な話なんですか? 偶然で片付けられる事なんですか」

『カラノスケくん、聞いてくれ』


ラジオさんの声に、こちらの様子を窺うような慎重な響きが混ざる。


『君が混乱することはよく分かる。だが僕は君の敵ではないし、君が僕の言葉を信用する必要もない。ただ頭に留め置いておけばいいんだ。君はこのことに深入りしてはいけないし、怪人についてはなるようにしかならない。君が成すべきことは、その中でお父さんとどう向き合うかだ。僕の言葉など忘れてくれてもいいんだ』

「……」

『お父さんのそばにいて支えてあげるんだ。夜中に外に出ずに、敵の目標とならないように気をつけて……』


僕はその場を離れる。

ラジオさんは敵ではないのかも知れない。だが今は、彼女の言葉に耳を貸したくなかった。


非現実という暗幕が僕の世界を閉ざし、僕の日常を先の知れないものに変える。リンゴが赤いとは限らない、明日朝が来るという約束もない、そんな見知らぬ世界に迷いこんだ感覚。

あるいは世界とはずっと昔からそう(・・)であり、理解不能なもの、対処不能なものが跳梁跋扈する暗黒の世界だったのか、そのようにすら思える。


思えば僕に起きた事象、家族全員が別人に変わったかと思えるあの朝。

ワニ男だとかキッドナッパーだとか、そんな怪人に出くわすことに比べれば大したことでもないのか。


ラジオさんがまだ何か喋っている気もするが、僕は藪をかきわけて元の場所に。


父さんはいなかった。ただ泥の上に指で文字が書かれている。



――さきに かえってて



「……父さん、仕事か」


僕は竿を解体し、バケツの中身をそっと小川に戻してから帰途につく。


僕は何をすべきなのか。

父さんは無事でいられるのか。


この町のことに、僕の介入できる余地などあるのか……。





帰宅してドアを開けると、カレーの匂いがする。

いつもの中条家のそれより濃厚な匂いだ。台所に行くとフライパンがあり、何か炒めた跡があった。玉ねぎを炒めてルウに加えるとコクが出るとかいうけど、それだろうか。


「おかえりなさい」


がちゃり、と音がして母さんが玄関のほうから出てくる。一階にある自分の部屋にいたのだろう。


「……」


いま、ドアを開ける前に金具の音がした。

カギを開けたのか。

中条家に、カギのかかる部屋などなかったはず。トイレの方からの音でもない。では増設したのか。いつの間に。


「空之助、お父さんは?」

「え、ああ……釣りしてる途中に、いなくなっちゃって」

「そう、じゃあ先に夕ごはん食べる? 伊吹奇も友達の家で夕飯ごちそうになるっていうし」


そういえば。

母さん……この中条深天ミソラと名乗る女性は当初、僕たちの動きを警戒しているような素振りがあった。伊吹奇と一緒に入浴しようとしたこと、伊吹奇の部屋を探っていた僕を、体を濡らしたままで追いかけてきたこと。


あれはもしかして、自分の部屋を見られたくなかったのでは?

来てからすぐは部屋に鍵をかけるヒマがなかったが、今は取り付けた。

では、彼女の部屋に何かしらの秘密が……。


「手を洗ってきたら」

「……うん」


洗面台に行く時、そっと廊下の脇にある部屋を見る。

部屋のドアノブはL字レバー式。以前についていたものとは違う。今は小さな鍵穴がついているようだ。

カギをかけることによって、レバーの可動域がロックされるタイプである。


食卓に戻るとすでに準備はできている。スライスされたゆで卵とチコリを添えたサラダ。小鉢にはオリーブのピクルスにレンコンとゴボウを添えたもの。カレーは四角い肉がゴロゴロと入ったボリューミーなものだ。肉が豊富な主菜を、二種の野菜料理で補っている。


「味はどう?」

「うん……美味しいよ」


落ち着かない。

気がそぞろになっている。伊吹奇が外出していることも気になるし、父さんのこともある。

何より、疑心暗鬼の暗闇が僕にのしかかる。


疑心暗鬼?

いや、それは違うだろう。現実として僕の周りには理解不能なことばかり。食卓に同席しているこの女性は、いったいどこの誰なのか。


その顔を見る。本当に若い、16か17ぐらいだろうか。艶のある太めの日本髪であり、口の端にある美人ボクロや、目に軽くかかった髪に色香が感じられる。若いようでいて指先にまで漂う成熟した気配。かといって主婦のように所帯づいている感じでもない。年齢だけなら学生……どこかの高校で生徒会にでも属してそうな印象だが、長い年月を生きた魔女すらも連想する。彼女はいったいどういう……。


――キッドナッパー。


「……!」


さじが止まる。

まさか、この町に巣くう怪人とは彼女。


そうではないと誰に言えるだろう。彼女がこの家に来たのと入れ違いに、本来の母さんは消えているのだ。それが彼女の仕業だとしたら、いや、むしろそう考えるのが……。


「……母さんは何者なの」


そう、問うことができない。


「……なぜこの家にいるの、もとの母さんはどこに行ったの。それとも整形手術で若返ったとでも言うの」


そのような言葉が、喉を登る前に消えてしまう。

それを言えば何かが終わりを迎えるという予感。決定的な敗北が定まってしまうという確信。

それはあるいは、目の前の女性に気圧されているのか。静かにカレーを食べているだけの彼女が、金棒を構えた鬼のように僕の心を掌握しているとでも。


「カラノスケ、落ち着きなさい」


瞳孔がすぼまる。

舌がひきつる。中条深天と名乗る女性を中心に、気圧が高まるような……。


「何も怖がらなくていい、自然にしなさい」

「……え?」


ふと、圧力が緩む。

今のははっきりと分かった。目の前の女性が体を弛緩させたのだ。喉の乾くような空気の中に、ひやりと風がよぎる。


「あなたを苦しませたくないの。無理に知ろうとするのはやめなさい」

「な、何を……」

「今のは気当(きあ)て、余計な質問をさせない技術、何もオカルトなことじゃないわ」

「母さんは」


死角から伸びる、母さんの指が。


「!」


丸く整えられた爪が僕の頬を押し、下唇をぬぐう。


「ほら、ご飯粒がついてるわよ」

「う……」


恐ろしい、というのとは違う。

彼女を何に例えるべきか。こちらを見据える狩猟犬? 包丁を構えた大男?

いや、彼女の気配は、例えば高さ五メートルの向日葵(ヒマワリ)だとか、鋼鉄でできた鳥居のようだ。


日常にあるものではなく、不可思議な迫力はあるが、それがどう異様なのか説明できない。


人間ではない怪物。

彼女もそうなのか。


ただ一つ、確かなことは。


彼女と僕では、あまりにも格が違うということ……。


「ところでカラノスケ」

「な、なに……」


何を。

今度こそ口封じを。今、この場で。


中条深天は椅子の背に手を伸ばし、そこにあった袋を前に持ってくる。

それは、レンタルビデオ店の、袋……?


「お母さんゴリラのDVD見るけど、テレビ使っていい?」

「……」


ダメだよ、と答えたら何か起きたのだろうか?


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