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第十七話 8月3日(1)






「カラノスケ、そこ苔があるぞ、滑るから気を付けろ」

「うん、大丈夫……」


僕と父さんは夏奥町の片隅、古い雑木林の中にいた。父さんが釣りに行くというので、僕も同行したのだ。


妹は来ていない。

いちおうカメラは僕の部屋、鍵つきの引き出しの中に入れたし、妹のスマホもカメラをロックしておいた。納得はしてくれたようだが、妙な行動を取らなきゃいいんだけど。

僕は父さんの事情について聞き出さねばならない。そのための同行だ。


「それで、何釣るの? ここ小川しかないけど、魚なんているの?」

「昔はたくさんいたんだけどな、今もいるかなあ」


ケチャップ色のシャツを着た少女は、差し渡し一メートルほどの小川に沿って歩く。水量は手のひらが浸かるほどしかなく、フナすらいそうな気配はない。


「あ、いたいた」

「どこ?」


父さんが示す先、それはザリガニである。真っ赤な体でハサミを構え、川の端をのしのし歩く。


「ザリガニ釣り? やったことないよ」

「大丈夫めちゃくちゃ簡単だから、こいつらアメ玉ばら蒔いたときの子供みたいに飛び付くから」


父さんは飛び付くのだろうか。


父さんはこころもち動作の速度を落とし、草むらの上にゆっくりと腰かける。音を出さずに荷物をほどき、中から出てくるのは棒きれにタコ糸、洗濯バサミにさきイカだ。


「……え、そんなんで釣るの?」

「うん、やって見せるから横で見てろ」


父さんは手際よく棒に紐をくくりつけ、先端に洗濯バサミを結ぶ。さきイカの切れ端を挟むともう釣りの開始だ。

ゆっくりと垂らされたイカがぺとりと川面の石に落ち、ザリガニが臭いに反応したのか、きしりと鳴きつつ寄ってくる。


「あ、来た」

「しーっ、静かに」


ザリガニは見定めるようにエサを突っつき、やがて手繰り寄せるように掴むと、バックで岩影の方に引っ込む、ザリガニはエサを物陰に引き込んで食べるのだという。

そしてハサミで口元に運び、ほとんど見えない岩影でもさもさとイカを食べ始めた頃、ゆっくりと竿が引き揚げられる。

果たしてそこには、エサを逃すまいと挟み続けるザリガニの姿が。


「カラノスケ、バケツ出してくれ」

「うん」


なるほど、実に簡単だ。

ザリガニがエサを食べはじめてから引き揚げるまでのタイミングと、ザリガニを警戒させないようなエサの下ろしかたに多少のコツはあるが、基本的にはザリガニを探してる時間の方が長い。

僕たちは小川に沿って歩き回りながら何匹も釣った。


「そこの溜め池がけっこう深いんだ、昔落ちて溺れかけた」

「へえ……」


雑木林の中は日差しも和らいでおり、穏やかなれども些少の刺激を伴い時間が流れる。

バケツに七割ほども釣り上げた頃。僕は父さんに問いかける。


「……父さん、いま何の仕事してるの?」

「んー」


気のない生返事、それはザリガニ釣りに熱中してるのが半分と、答え方を探してるのが半分、という印象だ。


「まだ区役所に勤めてるの?」

「いや、それは辞めた」


一瞬、その場を流れる重い沈黙。

それには覚えがあった。かつては中条家のあちこちに存在していた、墨色の綿のような重み。

かつての家は風通しが悪かった、そのように思う。

正体は分からず、誰もそれに言及しなかったけれど、誰かが重い息を吐き出し、それが部屋の隅に溜まっていたのだ。


川面に映る姿を見る。

僕の横には小麦色の肌を持つ快活な少女、じっと水面に糸を垂らし、ザリガニの気配に耳を済ますかに見える。


「消防士とか、お巡りさんとか、あんな仕事かなあ」


町を守る仕事。

そう言いたいのだろうか。


それは僕たちには言えない仕事なのだろうか。

なぜ? 守秘義務? 僕たちに危険が及ぶから? それとも後ろめたい部分があるから?


「どうしてその仕事に就いたの?」


僕はそのように聞いてみる。話せないことならば、話せる部分だけでも聞きたかった。

沈黙。小川のチロチロと流れる音が強調され、むっと立ち込める草いきれが風に乗って流れる。そして今更ながらに存在感を増す蝉の合唱。


「父さんなあ、強くなりたかったんだ」


長らくの沈黙のあと、そんな答えが返る。

僕は何となくそちらが向けずに、糸を小川に垂らすのみだ。


声は少女のものなのに、なぜかそのとき、僕の横にいるのが小太りで汗ばんだ男性に思えた。人生にくたびれた重々しい存在感。煙草と酒でかすれた声。腹が邪魔で何度も座り直すようなせわしない気配。


「家族を守れるぐらい強くなりたかった。守ってあげられないことが許せなかった。だからこの仕事に就いたんだ。町を守る仕事なんだ」

「守ってあげられなかった……それは伊吹奇のこと?」

「伊吹奇か、女の子の姿に戻ってくれてホッとしてるぞ。男でいるのは辛そうだったからなあ」

「その口ぶりだと、伊吹奇のことだけじゃない、みたいに聞こえるけど……」

「もちろん、家族全員だ」


全員……。


「カラノスケも、母さんも守ってあげたかった。みんな幸せそうじゃなかった。何かが少しずつずれていって、歪んだ家族になってしまったのが悔しくて、悲しかった。だから整備計画に……おっと食いついた」


幸せじゃなかった。

中条家で、家族は幸せではなかったのか。


僕はどうだったろうか、淡々と毎日を過ごし、自分の部屋でゲームに明け暮れる日々。

特に家族行事もないが、それが普通だと思っていた日々。


思い出せない。

僕はどう・・だった・・・のだろう・・・・


過去の自分が何も知らない小僧だったと思えるような、そんな瞬間がある。

だが僕は数週間前のことも思い出せない。

歪んでいた中条家の中で、僕はどうだった?

この奇妙な事態に巻き込まれるまで、僕はどのように生きていたのだろう。


思い出せない、何も……。

当たり前の毎日が淡々と流れるだけ、そんな記憶しかない、それはどこか、不自然な……。


がざり、と音がして意識が引き戻される。

父さんがザリガニを引き揚げていた、手で僕の方へ合図する、バケツを持ってきて、の意だろう。


そして言葉が浮上してくる、いま父さんの言った言葉。


「父さん、整備計画って何?」

「早く早く、エサ全部食われちゃう」

「……」


バケツを差し出す、すでに十数匹のザリガニががさがさ鳴る場所へ新たに投下。


「やーめっちゃ釣れたな、これ母さんに料理してもらえるかな、なんか国によっては高級品らしいぞ」

「父さん、話はまだ」

「ん? 何の話だ?」


父さんの顔には、先ほどまでの重々しさは微塵もなかった。目を爛々と輝かせ、バケツの地獄絵図を無邪気に見下ろしている。


「……」


とぼけるつもりなのか。しかし整備計画とは何のことなのか……。


――くん。


「え?」


今の声は……。


振り向けば藪の向こうにゴミの山が見える。不法投棄されているのだろう。古い冷蔵庫や、部品がバラバラにされてる洗濯機、異様に古いテレビなども。

そこから突き出す枝分かれしたアンテナ、あれは八木アンテナか。


「……」

「ふー、父さんちょっと昼寝するぞ」


突然そう言って、父さんはごろんと草の上に寝転ぶ。草と言っても川のそばなので、背中にけっこうな泥が付きそうだが。

よく見れば体の向こう側にスナック菓子の箱も落ちてる、いつの間に食べたのだろうか。


「父さん、シャツが汚れるよ」

「いいからいいから、カラノスケも寝ていいぞ」

「……」


遊ぶだけ遊んで、電池が切れるように眠ってしまう。真面目な話をしてたように思っても、一瞬後には遊びに意識が向いている。

まるで本当に子供だ。父さんは外見が変わっただけじゃなく、精神まで幼児になっている気がする。シャツがずりあがっていたのでそっと直す。


「……あ、それより、さっきの声は」


僕は立ち上がって、ヤブをかき分けてゴミの山へ。


『……くん、カラノスケくん、そこにいるのかい』

「ラジオさん」


何という偶然だろう。ここにもラジオさんの声が届くなんて。


それは本当に古いアンテナだった。いったいどこに設置されていたものか、皮膜がほとんど剥がれて鉄芯がむき出しになっており、根本にはやはり古いテレビやらビデオデッキやらが捨てられている。


『ああ、やはり君か、声が聞こえたから応答してみたんだよ』

「そうなんですね」


ここで会えるとは思っていなかったが、何を話したものだろうか。


「いま、父さんから事情を聞き出そうと頑張ってます」

『そうか、実はこちらでも調査が進んだ。いま君の町にいるものについてだ』

「! 本当ですか」

『ああ、君の町ではもう何年も前から、ある存在が跋扈しているらしい。それは配下となる怪物たちを操り、公的な秘密機関がそれと戦い続けているとか』


ある存在……。公的な秘密機関。

何か突飛な話だ、とはいえ、僕の身の回りに起きていることに比べれば些細なことか。


「その組織というのは……」

『それが個人なのか、あるいはグループなのかは不明だが、政府ではコードネームとしてこう呼ばれている』



『キッドナッパー、と』


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