第十六話 8月2日(3)
「モキュメンタリーっていうのはね、ドキュメンタリー風に撮られた映画のこと。擬似的な、とか見せかけの、って意味のmockとdocumentaryを合わせた造語ね」
それは映画の一ジャンルであり、1999年のあるインディーズホラーを皮切りに広く製作されることとなった。映画自身を、誰かが作成したドキュメンタリー作品のように演出する手法だという。
「そういうのって昔からあったんじゃないか?」
「あるよ、有名なのだとアマゾンの奥地に謎の生物を探しに行く「設定」のドラマとか、97年には近未来のドキュメンタリー番組って設定のSFドラマもあったりして、これがすごく出来がよくって今でも語り草に」
伊吹奇は何歳なのだろう?
まあそんなことはともかく、僕は脱線しつつある話を元に戻す。
「それで、「ワニ男」はそういう設定で作った映画なわけか」
「うん、見てみる?」
伊吹奇がベッドを沈ませつつぼすんと座り、己の真横をバンバンと叩く。
「……」
なんだかな、伊吹奇が女だったことは理解したけど、外見上では馴染みのない女子なわけで、距離感ゼロの態度を取られると反応に困ることも多々ある。
メイクで無理矢理変装してるわけではない。目をばっちりと見開いて顎のあたりの力を抜き、上唇が下唇にかぶさるように構える。それだけで印象がまるで違うのだ。
逆を言えば男として過ごしてた時期は、かなり無理をして印象を変えていたのだろうか。
伊吹奇がベッド下からカメラを取り出し、コードでUSBメモリと接続。そして動画が始まる。
ばたばたと響く風の音。
それはグラウンドの片隅のようだった。春の強い風が土煙を巻き上げ、髪を押さえた女子がインタビューに応じている。
「あの噂でしょ、聞いてるよ、違う学年の子が見たって」
「頭からかじられるって聞いてます、もう何人も犠牲になってるって。ええ、暗闇の中で、ワニの頭みたいなシルエットがにゅっと見えて」
「先生も警察もどうにもできないから、いないことにしようって決めてるって。そう、誰も勝てないって、拳銃も効かないなんて噂も……」
画面が妙にぶれている。
手持ちカメラでの撮影なのか、移り変わる人物は見切れがちで、あまり中央におらず、音声もぶつ切りに編集されている。あえて素人くさい画面にする演出なのだろうか。
伊吹奇のナレーションも流れる。
「ワニ男の噂については3月17日頃まで遡ることができた。私は町外れの夏奥神社へ来ている。最初の目撃者と思われる女生徒にインタビューの約束ができた」
状況を説明しているようだ。次の画面、その女生徒の顔には消しが入っている。部分的に灰色にぼやけるような簡易的な消しであり、それが不気味さを与えている。背後には神社を囲む雑木林、ざわざわと強風に揺られ、松葉が地面を転がる。
「うん、私は遠くから見たんだけど、大きな顎みたいな、本当にワニの横顔みたいな奇妙なシルエットで、コート着てて……えっ」
画面の人物が右に振り返る。するとカメラは振り向いたほうに少し動き、神社の藪の奥にズームを向ける。藪の奥は闇が濃い、ざわざわと葉擦れの音が流れる。
「いま誰か……。やだ、ごめん、もう無理……私帰るから……」
映画だと知らされて見ているから分かるが、なかなか真に迫った演技だ。あの同性愛を描いた映画についてもそうだが、伊吹奇は素人臭さをリアルさに転化させることに長けている。
「……お前なんでしがみついてんの?」
脇の伊吹奇に言う。伊吹奇は僕の腕にひたと身を寄せていた。
「いやあ……なんか久々に見たら結構怖いなと」
「自分で撮ったやつだろ……」
画面が切り替わる。全体が激しく揺れていて、コンクリートの地面とガードレールがわずかに見切れるのみだ。
「誰かが私を見てました、追いかけて、います、待って! あなた誰!」
暗転。
場面転換ではない、そこで動画が終わったのだ。
「すごいな……良くできてるよこれ、ちょっとゾクッときた」
「これ撮影してるときって、私もかなり入り込んじゃって……。何か、本当に誰かに見られてる気がしたり、町に得体の知れない怪物が徘徊してるみたいな気がしてたんだよね。この時も本気で追いかけてたの」
「誰かいたのか?」
「うーん、今にして思えばそんな気がしただけかも……あのね、こういうのって降霊術に近いって言われてるのね」
「降霊術?」
「そう、こういうホラー映画を撮るときに、本当に心霊現象が起きるってのは映画界あるあるなんだけど、中には本気で何か起きたって言ってる人もいて、虚構と現実が曖昧になるんだよね。だからお祓いは必要なことだって言う人もいる」
「……」
「降霊術をやるときは撮影しながらの方が成功率が高い、なんて話もあるの。カメラの前だとみんな儀式に没入できるから。あるいは演技がかってオーバーなリアクションを取ると、儀式の参加者にも影響するから」
なんだか集団催眠のような話だ。今の映画では出演者も撮影者も作品の世界観に囚われていた。
そしてそれは観客もだ。画面の奥に、追いかける道の先に本当にワニ男がいたような気がしてくる。
「そういえば、やっぱり噂は聞いたことないんだけど、この噂ってどうなったんだ?」
「なんか自然消滅したみたい。他にも身長2メートルあるお坊さんとか、顔が前後にあるスーツの男とか噂があったけど、どれもすぐに消えたなあ。ワニ男だけは少し長持ちしたかも」
「2メートルあるお坊さんはいるかもしれねえだろ」
まあそれはともかく、この町にそんな都市伝説が存在することは分かった。
どの町にもあるという噂話、学校の怪談、そういうたぐいのものだろうか。
だが、それが父さんに結び付くのか?
「でも父さんが変化してから一ヶ月も経ってないだろ? ワニ男は春先の話じゃないのか」
「だからね、都市伝説の入れ替わりが早すぎるの。長いのでも二週間も持ってない、これはつまり、「退治」されてるんじゃないかな、と」
退治……。
この町では都市伝説じみた怪物が生まれては消えている、それは、怪物を退治している誰かがいるから……。
何となく話が通るような気もするが、これは一種の錯覚かも知れない。僕もまた、伊吹奇の世界観に囚われてるだけではないのか?
だが、昼間に経験したことは……。
混乱してくる。僕はどうもまとまったことを考えるのが苦手だ、何から手をつけていいのか分からなくなる。
「だからね、同じ手が使えるんじゃないかと思うの」
「え?」
何だか話が飛んだ気がする。
いや、伊吹奇は一貫性のある話をしていたのか。妹との会話を順に思い出す。
この町には陰謀がある、町には怪人が跋扈していて、父さんはそれを倒すヒーローになったという話……。そして伊吹奇は、怪人について取材形式の映画を作るうちに、その存在と肉薄したような気がする……。
「え、まさか」
「そう、いま町にある噂を追えば、お父さんのことにも迫れるかも。もう一度映画を取るの、モキュメンタリー形式で」
伊吹奇は大きな目を輝かせて言う。
モキュメンタリーとは、いわば自分を含めて世界を催眠にかける行為ではないか、そのように思う。
レンズの向こうで世界は冷静さを失い、出演者も、撮影者も作品世界に没入してゆく。それは世界が裏返るような感覚。映画と現実のどちらが虚構なのか、どちらが真実なのか曖昧になる、そして真に異常なものたちも、その歪みに引き寄せられるように集まってくる……。
画期的な方法のように感じた瞬間はあったが、即座に理性が波のように押し寄せる。
「だめだ、危険すぎる」
「えー、大丈夫だよ、気をつけるもん」
「その怪人だか都市伝説だかが本当にいたらどうするんだ。巻き込まれて怪我でもしたら、あるいは……」
「お兄ちゃん!」
僕の腕にしがみついたままの伊吹奇が、ぐっと顔を寄せる。
「な、なんだよ」
「……お父さんのことは、心配じゃないの?」
……。
伊吹奇は、それは彼女自身のジャーナリスト気質というか、好奇心も確かにあるのだろうけど、芯の部分では家族のことを案じての提案なのだと分かる。
もし、これまでの話に事実の部分があるとして、父さんがそれに関わってる可能性は確かにあるのだ。
どこか腕白で元気のいい印象だけど、まだ幼く、モミジのような手の父さんが、怪物と戦っている……。
今の外見についてもそうだが、あの平凡で、風采の上がらない印象だった父さんが、なぜあんな姿になって、なぜ戦っているのか。
その秘密から、逃げてもいいのか。
――けして失踪事件の方に深入りしないように。
――君たちはその町にうごめく影とではなく、家族とだけ向き合うべきだ。
「……。やっぱりダメだ」
「お兄ちゃん……」
「夏休みの間、カメラは僕が預かる。普通の映画の撮影なら僕が付き添う。それ以外で取材は許さない」
「え、そんな」
「何を言ってもダメだ。だけど父さんには僕が直接聞く、はぐらかされても何度でもしつこく問いただす、それが正しい向き合い方だ」
「うー……」
伊吹奇は不満そうだった。無理もないだろう。
だが、これでいい。
関心は家の中だけであり、奇妙なことは中条家だけで完結すべきなのだから。




