第十五話 8月2日(2)
「実験場……?」
『そう……カラノスケくん、全国の失踪者の数というのを知っているかな』
「失踪者ですか? いえ、数はまったく……」
『届け出が出ているもので年間8万件。もっとも大半は無事に見つかるので、行方不明になったまま見つからない、という事例は2000件あまりらしい。その内訳としてはまず家出、他に人知れずの自殺、社会的立場や人間関係から逃避するための蒸発、出家なんかもあると言われてる。だが1億2千万という日本の人口規模で、2000人というのはかなり少ないと思う。実際には届け出のない失踪者が数倍いるとしても、だ』
「……」
『人口比で言うとおよそ6万人に一人。10万人ほどの市なら年間一人か二人という数だ。これを多いと見るか少ないと見るかは人によるが……』
10万人……それは覚えがある。夏奥町の属するT市がそのぐらいの人口だったはず。
『T市での昨年の失踪者数は17人だ』
その言葉に、喉仏を押されるようなプレッシャーがある。
『届け出があり、見つかっていないと思われるものだけでね……。これは全国平均よりかなり多い。しかし常習的な誘拐犯や、危険な宗教団体、大きな反社会組織などがいる気配もない。僕はここに、何かしらの実験の気配を感じる』
「実験……」
『そう……失踪者が多い割に、町があまりにも静かすぎる。表立って取り沙汰されたことが一度もないんだ。情報が操作されている気配がある。T市……特に夏奥で起きる全てのことは、誰かに管理されていると。常識を外れたことが起きても、T市の中ならば制御できると』
「誰が、そんなこと……」
『分からない。だがカラノスケくん、君が追い求めるべきはこんな謎ではない』
「え」
『君は失踪事件なんかに挑まなくていい。それは大人の仕事だ。問題は、君たち兄妹のお父さんに何が起きているかだ』
「父に何が、起きているか?」
『そう……お父さんの立場になって考えてみるんだ。お父さんにはかなり異様なことが起きている。常識を塗り替えるほどの事態。それがお父さんの心と体にどのような影響を与えているのか、君たちが追い求めるは家の外ではなく家の中だ、けして失踪事件の方に深入りしないように。お父さんが外で何をしているのかを追いかけるべきではない』
「それは……その言い方だと、まるで父が失踪事件に関与している、いえ、捜査しているみたいに聞こえます」
『カラーボールを投げられたんだろう? それは警告だ。君たちは完全に捕捉されていると見るべきだ。君たちはその町にうごめく影とではなく、家族とだけ向き合うべきだ。僕から言えるのはそれだけだ』
「ラジオさん……」
その時。
奇妙な想念が僕を襲う。
それはボロ布をまとった悪魔のようなみすぼらしい考え。それが背後から歩み寄って、僕の耳にそっとささやく。
ラジオさんは、実はもっと様々なことが分かっているのではないか。
父に起きていること、夏奥の失踪事件について、その背後にいるものについて。
僕を、父の外での姿から遠ざけようとしている。
カラーボールを投げたのは、ラジオさんではないのか。
あまりにも飛躍だ。とりとめの無い考えだ。だが骨格だけの連想が腐肉をまとい、よからぬ妄想を、疑心暗鬼を生じている。
ラジオさんは親身になってくれていると感じる。しかしそれは僕がそう感じるだけで、何かしら証拠があるわけではない。僕とラジオさんは声だけの関係であり、僕はラジオさんのことを何も知らない。
しかし逆はどうか? ラジオさんが僕について知らないとは限らない。
彼女はこの夏奥町についてかなり詳しかった。それは調べたから? あるいはずっと前から知っていた? 僕が夏奥高校の生徒だということは伝えてある。それはラジオさんに問われたからだったか? あるいは何かのはずみで自発的に言ったのだったか?
ラジオさん、あなたは何者なのか。
問いかけたかったが、言葉が出てこない。
真上を見れば、天の中央を占めるアンテナの枝。曇天にがっちりと食い込んで空を支えるような眺め。あれがどこかから届く電波を捉え、支柱がそれを増幅させ、根本のフェンスで音となって響く。
奇妙な偶然で知り合った仲。それで説明できる間柄であり、利害関係など無いはず。なのになぜ不安になるのだろう。
彼女を疑いたくない。心に浮かぶあさましい疑念は、それは僕の不安な気持ちが生み出す猜疑の鬼に過ぎないのだ。そうに決まっている。
ラジオさんは友人だ、それで十分ではないか。
――本当に?
脳裏にささやく言葉を、頭を振って打ち消す。
考えがまとまらない。
僕は何か別れの言葉を呟いた気がする、ラジオさんがそれに応じた気配もあった。
そして僕は逃げるように屋上を出て。
後にはただ、風精のうねり。
※
「ごちそーさま!」
ぱしん、と手を打つのは中条烈火。春巻き六本と海鮮炒飯を平らげ、さらに卵かけ御飯でしめただけにさぞ満腹だろう。
「母さんお風呂沸いてるかな」
「沸いてますよ」
「そーか! 今日はゼンマイで走るボート買ってきたからな、ヒヨコと競争させよう!」
どたどたと、せわしない勢いで自室に駆け込む。
「……」
「……」
僕と伊吹奇は無言の視線を交わす。
父さんは僕たちの尾行に気付いている可能性があるが、家の中ではポーカーフェイスを貫くだろう。
「伊吹奇、撮影はどうだったの」
「へ?」
突然母さんに話しかけられて、伊吹奇がきょとんとした声を返す。
「ああ、今日は天気がイメージに合わなくて空振りだったよ、よくあることなんだ」
僕がそう言うと、ようやく思い出した様子でぶんぶんと首を縦に振る。
「そ……そうなの! もっといい感じの晴天が欲しかったの。でもロケハンはできたよ、いい感じの滝とかベンチとか、うん」
「そう」
あまり興味もないような反応で、母さんは夕刊を広げる。
そういえばこの母さんはよく新聞を読む気がする。時間をかけて隅から隅まで読んでいるが、それも何か彼女の正体に関係することだろうか。
――第一に収拾すべきは、公的情報だ。
ラジオさんの言葉が浮かぶ。
(……情報を集めている?)
何を……? 失踪者が多いというT市に関係するのか? いま何についての記事を見ている……?
「お兄ちゃん、ちょっと勉強教えて欲しいんだけど」
「え? 勉強?」
今度は僕が虚を突かれる。
だが伊吹奇が母さんに見えない位置で膝をばんばん叩くので、僕はとりあえず了解した。
そして二分後。
「陰謀の匂いがするよ!」
両手を腰にあて、何かに全力で宣言するような勢いで言う。
「伊吹奇、声が大きい」
「あ、ごめん、でも昼のあれはタダゴトじゃないよ!」
ここは伊吹奇の部屋、ふと気づいたことだが、枕カバーが薄い赤に変わっている。
伊吹奇が古着をバラしてこしらえたらしい。男が青、女が赤などという色彩感覚は固定観念に過ぎないという人もいるが、伊吹奇がそれを好むなら止める理由もない。彼女は少しずつ、歪んだ部屋と歪んだ自分を修正している時期なのだろう。
「それで考えたんだけど、変身ヒーローみたいなものだと思うの」
「……ヒーローねえ」
苦虫を噛み潰したような顔、というものを見たことはないが、鏡が手元にあればきっとどんな顔か学べただろう。
「そう、夏奥の町には悪の怪人がいて、お父さんはそれをやっつけるヒーローになった、みたいな話じゃないのかな」
……。
実のところ、その想像は考えなかった訳ではない。
この町に何らかの陰謀が蠢いており、実験場にされているというなら、父さんは何らかの改造手術であの姿になったのではないか? そして、この町で悪と戦っている……。
それは何というか、生米を鍋の中でかき混ぜるような思考だ。コンロに火が入っておらず、いくらかき混ぜてもチャーハンになどなるわけがない。
「ありえないと思うけど……」
一般常識の申し子として、とりあえず否定はしておく。
変身ヒーローになるとしても、なぜ幼女なんだ。わけが分からない。
確かに鼻が効いたり、メンコが強かったりと非凡なところはあるけど。
「いや別にそこまで非凡でもない」
「なんの話?」
考えが声に出ていた。伊吹奇が首をひねる。
僕はなんだか腰の座らない気分で声をあげる。
「だいたい何と戦うんだよ。悪の怪人か? そんな噂聞いたことないぞ」
「噂ならあるよ」
えっ。
「あまり大きく広がらなかったけど、春先ぐらいに噂になった怪人がいるでしょ、怪人ワニ男」
「聞いたことないぞ」
いやでも、その名前は記憶の片隅に残っている、どこで聞いたんだったかな。
「ほらこれ」
伊吹奇はベッドの下を漁り、USBメモリーを取り出す。果たしてそれには「ワニ男」と書かれていた。
そうか、こないだ伊吹奇のカメラを漁ったときに見たんだったか。
「その……「ワニ男」のメモリーには何か入ってるのか?」
「これはね、春休みに個人的にやってた調査なの。噂とか都市伝説に興味あったからね。だからこれは、一種のモキュメンタリーかな」
モキュメンタリー……あまり聞かない言葉だ。
ワニ男という、奇妙ながらもどこかコミカルな響きのある名前。
しかし僕はそんなに単純には受け取れなかった。
もしこの町に本当にそんなものがいるなら。ワニと人間のハーフが夜を彷徨っているなら。
それはきっと、出会ってはいけないものなのだろう……。




