第十二話 7月8日(3)
あの日のこと……。
「あの日、私は映画の編集してて遅くなって、暗くなってから帰ってきたの」
伊吹奇は記憶の海に沈むように目をつむり、一つ一つ思い出すように話す。
「帰ってくると空気が違うのが分かったの。人の気配と言ったらいいのかな。何かが違うのが分かった。台所に行くとお母さんがいて、でもすごく若くてきれいな子で、お味噌汁温め直すから待ってね、って言ったの。そのとき父さんもお風呂から上がってきて、おかえりって言ったけど、その、外見がアレだったし」
「……」
「もちろん混乱したけど、なんだかほっとしたような、何もかも一気に切り替わったような気分になったの。お父さんとお母さん、二人とも優しそうだったし、ご飯も美味しかったし」
伊吹奇はそのときの自分の感情を表現するのが難しいようだった。額を指で突きながら語る。
「お兄ちゃんは部屋でゲームしてるって言うし、このこと分かってるのかなって気になったけど、その場を乱すのが怖かった。このままぐっすり眠れば、この夢は現実と入れ替わってくれるんじゃないかって思った。そして次の日に、やっぱり家の気配がそのままだった。そっと一階を覗いたら、若いお母さんが豆腐を手に乗せて切ってて、お父さんが虫取り網を抱えて出かけるところだった。私はこう思ったの。ああそうか、みんな好きに生きることにしたんだなって。だから私も好きに生きようって、ありのままに生きようって思ったの」
「待ってくれ」
僕は言葉を挟む。
「じゃあ、伊吹奇、お前が本来の、女の子の格好をするようになったことと……父さんと母さんの変化は……」
それは、その話だと……。
「関係ないのか?」
「うん」
こくり、とうなずく。
「うちの家に何が起きたのか、それは気になったけど、私にとっては自分自身が変われることのほうが大きかった。もう男の子の格好しなくていいんだって、誰も私のことを咎めたりしないんだって、そう思った。苦労してたんだよ。うちの学校って制服の男女指定がないから、ズボンで通学したっていいんだけどそれは抵抗があって、朝イチにズボンを履いて家を出て、学校のトイレでスカートに履き替えたりとか。もう、そういうのもしなくていいんだなって」
「気づかなかった……」
最近はそういう学校も多いと聞く。あるいは、そこにも元の母さんの意志が関係するのかも知れないが、それは考えすぎだろうか。
そういえば伊吹奇の制服姿もろくに見たことがない。入学式の時も別々に家を出たし。どうも僕は色々なことを見逃してる気がする。
そう、僕は。
なぜ、こんなにも家族に無関心だったのだ……?
「……伊吹奇、その髪は?」
「これはウィッグ、人毛だから外見じゃ分からないよ」
栗色の髪をさらさらと流す。ではふだん見ていた短い黒髪のほうが地毛なのか。
「そうか……」
では、謎はまだ山ほど残っているわけだ。
「父さんと母さん……あれはその、本人なのかな」
「さすがに無いんじゃない? 私のときとワケが違うよ。年齢どころか体格まで違うよ」
「うん……」
――ああ、あのグローブか、伊吹奇のやつ大事にしてたのに、いつの間にかなくなってたなあ。
――姿が変わっても、声が変わっても、心が変わっても、家族は家族だ。
あの父さんの口ぶり。
まさに本人でなければ言いようのないことだった。
そしてもう一つ。
――父さんが弱かったから、だからお前たちを守ってやれなかったんだ。ごめんな。
「伊吹奇、お前が男の子のように育てられてること、父さんは何か言わなかったのか」
「ううん、お父さん弱かったからね……」
寂しそうな口調で言う。
「お母さんに逆らえないと言うよりも、波紋を作りたくないって感じだった。何も言わなかったし、私に何か言うこともなかった。ただこっそりお小遣いくれたりするだけだった。ウィッグが欲しいって相談したら、そのときは何も言わなかったけど、次の日に人毛の高いやつ買ってきたし」
そのウィッグは父さんが買ったものなのか。
あらためて父さんのことを思い出す。区役所勤めで小太りで、たしかに小柄ではあるけど今の中条烈火ほどではない。前髪が後退していて少しアブラ症で、まあいわゆる普通の中年男性だ。まじめというか大人しいというか、いつも自分の部屋でゴロゴロしていて、これといった趣味もなく、有り体に言えば置物のような父だった。
中条家では休日の家族サービスもほとんどなく、家族旅行もなかったが、これは両親どちらの意志か分からない。
「でも伊吹奇……少なくとも今の父さんは僕たちのことをよく知っていた。言葉だけを聞けば、別人とは思えなかった……」
「いや別人でしょ。少女どころじゃないよ、幼女だよ幼女」
いや確かにそうなんだけど、そのカードが強すぎて何を出してもひっくり返されるな。
凛とした印象の美少女になってしまった母さん、小学生なみに小柄になってしまった父さん。
あの二人には共通の事態が起きたのだろうか。それとももしや、二人とも別々の事情で変化したのだろうか。
どうやら事態はまだまだ終わらず、それどころか複雑さを増すかに思える。
「ラジオさんに相談できればな……」
「ラジオさん?」
「ああ、屋上で話ができる人で……ときどき相談に乗ってもらったりしてて」
僕はその概要を説明する。
「ふーん、高等舎のほうの屋上。昨日の強風で閉鎖されたよね」
「そうなんだ。次に開放されるのがいつになるか……」
「大丈夫じゃない? 防水シートが剥がれただけでしょ。映研で撮影に使いますって言えばカギ貸してもらえるよ」
「ほんとか?」
うん、と伊吹奇は力強くうなずく。
「うちの顧問の先生けっこう発言力あるらしいし、親身になってくれる人だしね。明日相談してみる」
昨日、話をしたあの女教師か、たしかに理路整然とした感じで仕事の出来そうな人だった。
「わかった。じゃあ頼むよ」
「お兄ちゃん」
話が打ち切られる気配が流れた一瞬、その一瞬の間隙を縫って、僕の肩を掴む手。
それは伊吹奇の手だった。僕の肩を掴んだまま、目を伏せている。
「一度だけ聞くよ」
「……」
「お兄ちゃん、元の家族に戻ってきてほしいの?」
――夜の重み。
それは究極の一瞬。このときの僕の返答で、あるいは未来の全てが一変するかのような。
僕は本当はどうしたいのか。過去の家族と、今の家族のどちらが良いのか。そもそも選ぶべきなのか、選ばないとすれば今の家族を受け入れられるのか。家族のそれぞれにとっては何が最善なのか。
壊れたのはいつからなのか。
この変化は家族と僕への罰ではないのか。
壊れたのは家族なのか、それとも僕が壊れていたのか。
変化は唐突に起きたのか、それともずっと前から歪んでいたのか。
僕はなぜ家族の変化を感じ取ってあげられなかったのか。
僕が伊吹奇を守ってあげるべきだったのに。
ではすべては僕のせいなのか。
「――取り戻したい」
僕は答える。
「僕はこれまで、家族に誠実に向き合ってなかったのかも知れない。だから奇妙なことが起きたんだと思う。これを放置しておくことが誠実とは思えない。家族に何が起きたのかを突き止めたい。何があったのか知りたい。話を聞きたい。見落としていたものを、取りこぼしていたものを拾い集めて、ちゃんと受け止めたいんだ」
伊吹奇は顔を上げ、僕の意志を確認するかのように瞳を覗き込む。しばらくの沈黙。
そして、にっこりと微笑む。
「うん、私もそう思う」
それは僕に合わせてくれたのか、あるいは本当にそう思ってくれたのか。
「私も元の家族に会いたい。今度家族に会ったら、ちゃんと言ってやるの。もう男の格好はしないって、お父さんももっとしかりしなきゃって、それが正しいことだと思う」
それは伊吹奇にとっても、声に出して初めてすとんと胃に落ちるような考え方のようだった。彼女もまた、この異変の中で少しずつ変化していくのだろうか。
「じゃあ明日、ラジオさんに相談することから始めるか」
「うん」
僕たちは公園を出て、並んで歩く。
「でもあれだね」
どことなく浮かれた様子で、伊吹奇が言う。
「お兄ちゃん何だかやる気出してるね、久々だね、ちょっとカッコイイよ」
「そうかな。どうも最近ゲーム漬けだったからな、ショック療法なのか何なのか、頭がすっきりした感じがするよ」
立ち向かえる、そう思った。
今は一人ではないから、この奇妙なことに溢れた世界の中で、味方を得ることができたから。
夜の底、曇天の切れ間に星がある。
伊吹奇は星を見上げ、吐息のようにつぶやいた。
「でもyoutuberの壮大なドッキリとかだったらどうしよう……」
「お前そういうこと言うなよマジで……」
ここまでが一章になります。次の章は少し雰囲気を変えていくかも知れません。
良ければもう少しお付き合いください。




