第十一話 7月8日(2)
日が上って夏の暑さが地平線の彼方から押し寄せ、されどもつつがなく授業が執り行われた後の放課後。
「ごめんなさい!」
そう頭を下げたのはしかし、三人の女子と伊吹奇がほとんど同時だった。
「ほんとごめん! アタマに血が昇っちゃったの!」
「私こそごめん! あの映画最高だった! 何度も見返すうちにこれでいいんだって確信できたの! リテイクなんか出してごめん!」
四人の女子が階段の前でやいのやいのと謝罪を投げ合う。周囲は何だ何だと遠巻きに見つつひそかに撮影などしたり。
仮にも何週間も一つのものを作り続けた仲間だ。決定的なわだかまりが出来てなくてよかった。
思えばあのときの三人組の激しい怒り、今なら理解できなくもない。
あなたたちの愛の形は違う、カップルとはそんな形ではない、それは演技の否定というより、親愛のあり方の否定だ。三人は演技が素人なだけに、自分自身が持つ価値観をそのまま演技に反映させていた。だから否定されて怒ったのかもしれない。
もちろん水をかけたことは兄として一言あるべきだろう。だからその女子だけは個別にきちんと、厳しめに言っておいた。
「これから最終稿の編集会議やるから、三人とも加わってくれる?」
「いいよ、もちろん」
三人は視聴覚室にて遅くまで会議をし、撮影した素材を繋ぎ合わせ、効果音や新規の台詞なども録音して、映画は作品に近づいていく。
そして夏至をやや過ぎた程度の長い昼の終わり、僕は伊吹奇とともに家路を辿りながら報告を聞く。
「コンペに出せそうなのか、よかったな」
「うん、なんとか廃部は免れると思う」
「そうか……」
そして、僕はやはり、その言葉だけはやり過ごすことができないという風に問いかける。
「なんで、家で男の格好してたんだ?」
「うん……」
伊吹奇は鞄をスカートの後ろに回し、少し考えるかのようにうつむく。それはきっと膨大な数の言葉を整理する時間だったのだろう。
肉親に性別を隠している。
兄である僕がそれを知らなかった。
そんなことが現実にありうるだろうか。仮にそれが出来たとして、なぜそんな事が起きて、どうやってそれを実現していたのか。それはきっと、気の遠くなるような長さのドラマ。詳細に説明しようとすれば、それだけで何日も過ぎ去るほどの言葉が必要だろう。
伊吹奇がそれを話し出したのは、またも満天の星の下でのことだった。
前日ほど晴れてはいない薄曇りの夜。僕たちは近所の公園でブランコに座っている。パックのジュースをぎゅっと手で絞りつつ吸って、伊吹奇は訥々と語り出す。
「お兄ちゃん、最初に聞いた言葉って覚えてる?」
「え? 生まれてすぐの言葉ってことか?」
「そうじゃなくて……物心ついてすぐに聞いた言葉、今になっても覚えてる言葉」
僕は意識を過去に向けるが、何も見当たらない。幼稚園の頃の記憶、その前の記憶、掘ったことのない鉱床はガチガチに固まっている。
「ええと……覚えてないなあ。意識してなかったかも」
「私は覚えてるの。それは私の心の奥にずっとある言葉。海に沈んだ古タイヤみたいに、長い長い間、朽ちずに残り続けるような言葉。それはたぶん一歳と半年ぐらい。私はお母さんに抱かれて外出したの。お母さんの友達の集まりだったと思う」
一歳半……そんな昔のことを。
「私のことを初めて見た人もいて、かわいいとか、人形みたいとか言ってた。そして誰かが質問したの。性別はどっちって」
――ええ、いちおう女の子。
「……え?」
「その後も何度か同じようなことがあったの。今のところ女の子、戸籍の上では女の子。性別はこの子が決めることだから」
「……」
「最初は不思議だったの。なんで私が女の子だって言ってくれないんだろう。なんでお人形やぬいぐるみを買ってくれないんだろう。なんで幼稚園の友達が着るような赤やピンクの服を買ってくれないんだろうって。おもちゃの車とかブロックの恐竜とか、先がピカピカ光る光線銃とか。欲しいとも言わないのに与えてくれた。服や靴だって黄色とか青とかが多かった。五歳ぐらいで、ようやく分かったの。ああ、お母さんは私が男の子でいてほしいんだって」
「それは……男の子が欲しかった、とか」
「そうじゃないの。お母さんにとって、私は女の子でありながら男の子として自覚してて欲しかったの。いつからか分からないけど、お母さんにとって、そういう人は特別なものに思えたみたい。伊吹奇って名前、男の子にも女の子にも使えるでしょ。きっと、私が産まれてくる頃にはもう、そんな考え方を持ってたんだと思う……」
声に憤りや、わだかまりの響きはない。ただ淡々と、どこか悲しげに語り続ける。
「決して強制されたわけでも、怒られた訳でもないけど、お母さんの眼がそう言っていた。なぜあなたは花やドレスに興味を持つの、なぜスカートを履きたがるのって。お母さん自身でも自覚してたかどうか分からない。無意識の願望だったのかも知れない」
「その……学校とかどうしてたんだ? プールの授業とか……」
「ん? どうもしないよ。中学までスカートを履かなかっただけ。プールだってちゃんと女子用の水着で泳いでた」
伊吹奇の水着姿。
そこで気付く、そういえば見たことがない。体操服も水着も。僕が友達とプールに行くぐらいで、中条家では家族での海水浴などもなかったし。
「お母さんはそれを私にしか見せなかった。お兄ちゃんにも見えないように扱ってたの。学校から帰るとすぐに水着を預かって、洗濯したら乾燥機にかけて、隠すようにしまっちゃうの」
うちは庭に洗濯物を干さないが、まさか、そんなことをしてたとは……。
伊吹奇は興奮してきたのか、少しだけ荒ぶった様子で言葉を重ねる。
「ひどいと思わない? 下着だってだっさいのばっかり。真っ白で飾り気のないのしか買ってくんないの。それ以外のなんて見えてもいないみたい。仕方ないから可愛いやつをお小遣いで買って、引き出しを二重底にして入れてたんだよ」
あの二重底はそういう理由だったのか。
「そんなの見つかるだろ、母さんが伊吹奇の部屋を掃除するときとか」
「お母さん、小学三年ぐらいから私の部屋に入ってないよ。入りたくなかったみたい、どうしても女子の匂いがするから」
そうだったのか? 僕などはときどきゲームの最中に踏み込まれて、がーがー掃除機をかけられたけど。
「だからお母さん、私を見なくなった」
その言葉が、ちくりと胸に刺さる。
「私をというより、家族を見なくなった。理由は私のことだけじゃないかも知れない。家族と言葉は交わしても何も期待してない。なぜ私が女子の体に近づくのか分からない。なぜ私が家にいるのか分からない……」
「伊吹奇」
「……ごめん。悪く言いたいわけじゃないの。そして決定的なことが起きた。私はお兄ちゃんが好きになった」
…………。
「は?」
「今は違うよ。今は兄妹だって分かってる。でも9歳から11歳ぐらいの私ってすごく不安定だったの。きっとホルモンバランスが崩れてたのね、一時の気の迷いってやつ」
「なんかひどいこと言われてない?」
「まあそんなわけで、お兄ちゃんとキャッチボールしてるとき、私は女子としてお兄ちゃんに好意を持ってたの。お兄ちゃんのボールをばしーんと受けるのが好きだったし、私の大暴投をお兄ちゃんが捕球するのを見てドキドキした。わざと意地悪な場所に投げたりもして」
「そんなことしてたのか」
「そう。それでね……あの事件が起きたの」
事件。
僕の中ではもう思い出になった出来事だが、犬に襲われた時のことか。
「すごくショックだった。お兄ちゃん三針縫ったでしょ。10歳ぐらいなら死ぬほどの怪我じゃないって分かりそうなもんだけど、私はお兄ちゃんが死んじゃうかも知れないと思った。この不幸がなぜ起きたのか分からなくて、私は、それを自分のせいにしちゃったの」
自分のせいに……。
カメラの中にあったあの映像か。自分を責めるような、どこかに消えてしまおうとするような。
「だからグローブを埋めたの。あのグローブはね、私にとっては私が自由な感情を持っていたことの象徴なんだよ。不思議だよね、グローブなら男の子の象徴っぽいのに」
「それで、僕に見つかるかと思って持ち出したのか」
「持ち出すつもりはなかったの、お兄ちゃんが掘り起こしてないか確認してただけ。でもお兄ちゃん混乱してて、私のこと詰問したでしょ、お前誰だって」
そういうことだったのか、だから追い詰められた伊吹奇は家から逃げ出したわけだ。
考えてみれば、グローブを埋めたことが何かの証拠隠滅になるはずがない。グローブを捨てたいなら普通にゴミに出せばいいのだ。僕だけがそれに特別な意味があると思い込んだだけだ。
「ごめんな、ここ数日、本当に混乱してて……」
「いいよ、無理もないと思うし」
……。
では、なぜ伊吹奇は家での男装をやめたのか。
それは直後に、伊吹奇の口から語られることになる。
「三日前の夜だったかな。お父さんとお母さんが、女の子になってたでしょ……」




