第十話 7月8日(1)
それからさらに十数分。
「こっちだこっち、わかるぞ、近い」
父さんはグローブの匂いを追跡しつつ川縁の道を行く。
父さんがふざけてやってる訳ではないことは分かるが、僕としては知り合いに見つからないかと生きた心地がしなかった。ド深夜に人気のない場所、這いつくばって進む幼女とついていく僕。警察に呼び止められたら言い訳できる自信がない。
「あれ、そういえばここって……」
川の流れは穏やかで、河川敷には草地が広がっている。ここは伊吹奇の映画、その冒頭に出てきた場所だ。
もう一つ気付く、ここで僕はキャッチボールをしていた。もう何年も前の遠い記憶、河川敷はどこも同じような風景だし、遊ぶ場所も様々だったので忘れていた。確かにこのあたりだ。
「でも……ここは妙に家から遠いな。キャッチボールならもっと近場でもできるのに」
「いたぞ!」
父さんが短く言い、僕ははっとなって眼を凝らす。
だがまったく見えない。河川敷には等間隔で街灯はあるが、川面に近い位置まで降りていくと人影は闇に飲まれてしまう。
「どこ……?」
「あっちにまっすぐだ、ほら指の先」
父さんが示す先には、なるほど、確かに人影のようなものが見える。背中を向け、草の上にちょこんと座っているようだ。
「よし、行こ、う……」
そこで父さんの動きが止まる。
「?」
父さんは何かに呼ばれるように、あらぬかたを眺める。そっちは確か繁華街の方角。遠くにささやかなネオンの色彩が見える。
父さんはたっぷり五秒ほど静止してから、僕の方を振り向く。
「ごめんカラノスケ、父さん仕事が入った」
「……は?」
「行かないと……もう伊吹奇も見つけたから大丈夫だな。カラノスケ、あと頼んだぞ。ちゃんと連れて帰ってこいよ」
「……」
みんな、事情を抱えて生きている、か。
「……わかったよ父さん、気をつけて」
「うむ、ありがとう」
それは、事情を問いたださないでくれてありがとう、の意味か。
それとも送り出してくれてありがとう、の意味か。
どちらでもいい。
今は伊吹奇のことだけを考えよう。
両手に余るほどの謎。複雑に入り組んで、もはや解き明かすことが不可能に思えるほどの奇妙なパズル。
僕は一手ずつ進めるしかない。
今はただ、伊吹奇だけに向き合おう。いつか、家族が正しい形を取り戻せるように。
僕は父さんが走り去るのを見送って、草地へと降りていく。遠景に見えるビルのシルエット、覚えのある川幅と水がささやく音、やはりこの場所だ、映画の冒頭。
「伊吹奇」
その人物は暗闇の中で首だけを向ける。互いにほとんど姿が分からないほど暗い。
「お兄ちゃん?」
「さっきは強い言い方してごめん。そばに行ってもいいか?」
その人物は少しの沈黙の後、自分の左手を示す。
「いいよ」
僕はそっと進み出て、伊吹奇のそばに座る。
伊吹奇がグローブを抱えているのが分かる。
彼女は何者なのか。
なぜグローブのことを知っているのか。
僕は何に巻き込まれていて、何を分かっていないのか……。
……。
いや、やめよう……。
こんな静かな夜に懊悩は似合わない。今はこの場に身を委ねよう。
ごろんと草に寝転ぶ。驚くほどの数の星が見えた。ここは光の隙間なのか。ぽっかりと開けた空に砂粒のような星が見える。
「星が綺麗だなあ」
「うん、ここはすごくよく見えるの。ほら、そこに工場があるでしょ、あそこが23時で完全に灯を落とすから、街灯から離れてるここには光が当たらなくなるの」
「天の川が見えるな、こんなにはっきり見たの初めてかも」
そして思い出す。駄菓子屋で見た笹のこと。
「そうだ、今日は七夕じゃないか」
「お兄ちゃん、もう日付変わってるよ」
「そうだったか。まあ晴れてたし、織姫と彦星も会えたかな」
「きっと会えたよ、家族で仲良く過ごしたんだよ」
「家族? 恋人じゃなかったっけ」
違うよ、と伊吹奇は天を指して言う。星明かりが伊吹奇の手の形に切り取られて見える。
「ほら、牽牛のそばに小さな二つの星があるでしょ、中国の伝説だとそれは牽牛と織女の子供だって言われてるんだよ」
「へえ、じゃあ父親のほうが引き取ったわけだ」
「そう、だから牽牛にとっては奥さんに会える日だけど、織女にとっては子供に会える日でもあるんだよ」
なるほど。年に一度の逢瀬の日、その目的は微妙に異なることもある、というわけだ。
「……」
目的が、異なる……。
「……なあ伊吹奇、お前の映画見たんだけどさ」
「もう、勝手に私のカメラ持ち出したでしょ、ダメなんだからね」
「ごめんな……それで、あの映画。あれでもいいと思うんだよ」
「どうして?」
「分からないんだ……何度も何度も見たけど、どこが悪いのか分からなかった。お前の言う、演技に統一性がないってのは理解はできるんだけど、それが悪いと思えなかったんだよ」
それは、正解に至っていないだけだと思っていた。
だが、あるいはそれこそが正解なのではないか。
「なんであれでいいと思ったのか……それはな、出演してる三人が、三人ともあれでいいと思ってるからなんだ。心が通い合ってればいい、肉体で強く触れたい、言葉を通わせたい、三人ともそれぞれ違う恋愛をしてて、それで正しいと思ってるから演技に迷いがない。恋愛ってそういうもんじゃないのかな。みんなが自分勝手に愛を押し付けあって、自分なりのやり方でそれを受け止める……」
あるいは人間の関係とはすべてそうなのかも知れない。片方は友人だと思っていても、片方は好敵手だと思っているとか。友人関係、師弟関係、共闘関係。あらゆる言葉で人間の関係性は説明されるが、それは両方から見て必ずしも同じとは限らない。
伊吹奇は黙って聞いていた。
いや、途中から何か言葉を発していた気がして、闇の中で寝返りをうつ。
伊吹奇は額に手を当て、ずっと早口で何かを喋っている。
「うん……そう、そうだよ! そうなんだよお兄ちゃん!」
「ど、どうした?」
「私が間違ってた! あれが愛の形なんだよ! あの三人は自分なりの愛の形を表現してたんだよ! いわく「五組のカップルがいれば五通りの恋愛があるわけじゃない、五組のカップルがいれば十通りの恋愛がある」なんだよ! なんで忘れてたんだろうその言葉! 不覚だよ!」
「いい言葉だな、誰の格言なんだ?」
「松本人志の言葉だよ」
「…………そ、そう」
伊吹奇は立ち上がり、夜の底で天に向かって声を張る。
「そうか……! そうだ、何やってたんだろう私、三人ともすごくいい演技してたじゃない。なんで否定しちゃったんだろう。怒るのも当然だよ、明日ちゃんと謝らないと……」
「解決したなら良かった。じゃあ帰ろうか。みんな心配してるし」
「うん」
そして立ち上がり、腰の草を払う。
「伊吹奇、はぐれないようについて来いよ」
「わかった」
歩き出そうとして、やはり暗さが気になった。もう深夜である。
「手つないでやるよ」
「うん」
あっさりと手を持つ。わずかに届く土と革の匂い。グローブの匂いだろうか。柔らかなその手には骨などないような気さえする。
「お前手ちっちゃいな」
「うん……昔からだよ。だからボール投げるの苦手で」
「ああ、あのときは硬球使ってたからな、ちょっと大きかった、か……」
――。
それは一瞬の幻視。
周囲から夜が吹き飛んで、夏の陽光が世界の果てまで伸びていく。
さんざめく蝉の声、むっとする草いきれ。あの夏の日の一瞬。
山なりの放物線を描くボール。
懸命に草地を駆ける少年。
その手は小さく、柔らかく、硬球がうまく持てない。
黄色地のシャツと短パン。
汗だくになりながらも明るく笑うその顔は、僕の……
「伊吹奇」
そうか。
今、わかった。
普通は、そんなことはありえない。
だから、やはり何かが、特殊であり特別であったのか。
それは答えの一つであり、大いなる謎の入り口でもある。
僕の家族は、ほんの少し普通とは違うのかも知れない。
奇妙とは唐突に始まったわけではなく、もしかして、もっとずっと以前から、少しずつ生まれていたのかも知れない。
僕は見逃していたのだ。家族に起きていた微細なひずみを。
ずいぶんと回り道をしていた気もするけど、僕はようやく、そのことに気づいた。
ようやく、伊吹奇と正しく向き合えるような、そんな気がしたのだ……。
「お前、女の子だったんだな……」




