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第一話


五千人ぐらいのオーケストラを背景に走る。奏でられるのはオッフェンバックの天国と地獄。僕の全身は傷だらけで、時おり飛んでくるグローブやバットをかわしながら懸命な疾走。


背後から何者かが迫る。大型犬のようだが足音はがしゃんがしゃんと鉄屑のよう。そいつが何か分からないが、捕まりたくないという感覚だけがある。


ふいに脚が硬直する。気づけば周囲は一面の沼地、セメントのような灰色の泥にみるみる脚が埋まっていく。球技のラケットや電柱も、花火の大筒や駅前のデパートもずぶずぶと沈んでいく。

僕は何かを叫ぶが、それが誰かに届くことはない。


もがきながら泥沼に沈んで、そしてもはやこれまでと白装束に身を包み、切腹を敢行したところで目が覚めて天井が見えた。雀の声がわざとらしく響く。そして一階からの声も。


「カラノスケ、そろそろ起きなさい、ご飯できてるわよ」


中条(なかじょう)空之助(カラノスケ)、深い由来がありそうで、別にそうでもなさそうな名前を思い出してちょっと憂鬱になりつつもベッドから足を下ろす。寝起きはいいのだ。


なんだか悪夢を見たような気もするが、昨日遅くまでゲームしていたせいだろう。もう夢の詳細は忘れてしまっていた。


どたどたと階段を降りて一階へ。

パジャマの下から腕を入れ、右乳首の下あたりをぼりぼり掻きながら洗面所へ。洗面所は早い者勝ちであり、弟が先に使ってるなら部屋に戻る羽目になる。


今日はアンラッキー、洗面所からは光と水音が漏れていた。いちおうドアの隙間から覗くと、腰までの栗色の髪が見える。やや控えめな歯磨きの音。うちは朝一番と寝る前で2回磨くのが鉄則だ。


しょうがない一度部屋に戻るか、それともダイニングであの水を焦がしたやつでも飲もうか、たしかコーヒーとかいう名前の。


「…………」


ん?


僕は進みかけた足を時間逆行させ、歩幅そのままで三歩戻ってもう一度洗面台を見る。


その人物は僕の気配に気付いたのか、振り向いてピンク色の歯ブラシを構えたまま会釈する。

花のような美少女、そういう形容がはっと浮かぶ。


「おはほー、もーふほひまっへへ」


お早う、もう少し待ってて、と言ったのだろう。

それは分かるが、あなたは誰?


身長は弟に近くて155ぐらい、鼻や口は小ぶりだが目が印象的にはっきりと大きく、日向の猫のような柔らかい雰囲気の少女だ。眠たげな表情とねじった柳腰。栗色の髪はかなり長く、洗面所の20ワットの明かりでもきらきらと輝いて見える。


着ているのは自動車と信号機の描かれた黄色地のパジャマ、ちなみに僕のパジャマは青地に自動車と信号機である。

趣味の一致なら運命を感じるが、違う、それは弟のパジャマだ。


「あ、ええと、ごゆっくり……」

「むもっ」


よく分からない返答だった。

誰だろう、親戚の子かな。

これから一緒に暮らすことになったのよ、とかそういう話かな、何だか初めての家とは思えないほどリラックスしてたけど。


まあ母さんに聞いてみるか、父さんもそろそろ起きてくるだろうし。


食卓からは味噌の匂いがしてくる、赤味噌だろうか。

珍しいな、いつもハムエッグとアボカドいりのコールスロー、それに100円で四個入りのバターロールとかなのに。


「あのさ、母さん、洗面所にいる子……」


そこで再度硬直。

流しに向かい、ほうれん草のおひたしを盛り付けていたのは割烹着の女子だ。僕より少し背が低く、背筋のぴしりと通った人物。

視線が吸い込まれるようなぬばたまの黒髪、それを高い位置でつぶ貝のようにまとめている。伸ばせばかなり長そうだ。わずかに見える横顔はかなり若い、10代かも知れない。


「おはよう、歯は磨いたの?」

「え……」


え、誰? 

母さんは? あの四十を超えてから主婦業に疲れの見える、ほどよく年輪を重ねてほうれい線のごまかしに命をかけてて、朝はいつもヘアカラーを巻いてる母さんは?


「あの、母さんは……」

「なに?」


ひどく落ち着いた様子で振り向き、こちらの眼を静かに見つめている。まるで田中さんに田中さんと呼び掛けた時のような反応だ。口元にホクロがあってそれが何だか妖艶な雰囲気である。


と、そこへどたどたと足音が響き、先ほどの栗色の髪の少女がやってくる。


「お母さん! あたしのカメラどこ!?」

「カメラ? 出しっぱなしにしてたからダンボールにしまって物置に入れましたよ」

「えー! 物置!? あれ部活で使うのにー!」

「取りに行くならホコリに気を付けなさい」


もー、と牛のようにいななきつつ、僕を突き飛ばす勢いでダイニングを出ていく。


「カラノスケ、歯は磨いたの?」

「……み、磨いてきます」


僕はすごすごと、なぜか体を縮めて退出する。


何だろう、何が起きてるんだ?


僕は歯をしゃこしゃこ磨きつつ考える。


あれはどう見ても母さんではない。母さんよりずっと細身だし、黒くて太い見事な日本髪だし、割烹着だし和食だし、いわゆる美人ボクロだし、何より若すぎる。何だかしっかりした印象だけど、顔は10代後半にしか見えない。


父さんの浮気相手?


唐突にそんな考えが浮かぶ。

だが成る程、急に出てきたにしてはなかなか見所のある新人かも知れない。

あの割烹着の女性は父さんの浮気相手であり、母さんはそんな父に愛想をつかし、弟を連れて出ていった。あの栗毛の子は連れ子だか妹だかで、とりあえず一緒にここに住むことに。


「ねーよ!!」


口をゆすいでからツッコむ。

自分で言ってて無理がある。父さんは区役所勤めで前髪の後退しきった小太りの御仁、どう贔屓目に見たとしても、とてもあんな美人と浮気できる玉じゃない。それに何度も言うが若すぎる。


第一、そんな事情なら息子に一言ぐらい説明が……。


いや、そうか、父さんから説明があるまで他の二人は黙っていると、そういうわけか。


がちゃりと音がして、玄関の扉が開く音がする。父さんが朝の散歩から帰ってきたのだ。僕は急いで口をゆすいで廊下に出る。


「父さん! あの人たち」


実のところ半分ぐらいは覚悟してた気もするが、僕はまたもや硬直する。


「どーしたカラノスケ、朝から騒々しいぞはっはっは」


からからと笑うその少女。身長はこれまでで最も低く140に届かぬほど。全身が褐色に焼けており、髪は紫外線のせいか毛先が細く、肩甲骨に触れるほどの長さをざんばらに流している。

ケチャップのように真っ赤なTシャツと白の短パン、シャツの下から右脇腹をぼりぼり掻く。

彼女はビーチサンダルを脱いで、首に下げていたタオルで首筋の汗を拭き、担いでいた虫取り網を傘立てに置くと。

ミンミン鳴ってる虫かごを自慢げに見せてくるのだった。


「見ろカラノスケ、父さん朝から五匹も採ったぞ」


みーんみんみんみんみん







「母さんフリカケ取ってくれ、玉子のやつ」

「お父さん、ワサビのやつも使わないと減りませんよ」

「ワサビってワサビの味するから苦手……」


中条(なかじょう)家では非常に珍しい和食の朝食。


僕以外の三人はもくもくと白米を噛み、味噌汁をすすっておひたしをつまむ。まるで朝食を食べてるような動作だ。


僕はずっと混乱している。


「お父さんあのセミ逃がしてきてよ、うるさいよー」

「仕事行く時に逃がすから、今だけだから」


仕事は行くのか……。

いやそんなことより、この人たちは一体??


「あの、すいません」


僕はどうやら大変な思い違いをしていたようだ。目の前の食器をどかして、椅子を引いてふかぶかと頭を下げる。


「まことに申し訳なき次第。どうも昨日の宵の頃に事故に遭ったか突発性の高熱で気絶したか、飲んだことありませぬが酔いつぶれたかで手厚い介抱を受けてしまったと察したる所存。間取りから家具まで拙宅と瓜二つなので誤解しておりました。失礼ついでながらお願い致したい儀がございます。家に電話したいのですがわたくしのスマアトホンは何処(いずこ)にありますでしょうか」


三人の美少女はぽかんとしている。


「カラノスケ、どーしたそれは。時代劇のマネか?」

「お兄ちゃんどうしたの? 変なもの食べた?」


ええいベタなリアクション取りやがって。

とにかくスマホだ。スマホが僕をここから救ってくれんだよ。人間スマホとコンビニあったらそこそこハッピーに生きられんだよ。あとセミうるせえ。


「僕のカバンどこでしょうか?」


割烹着の女性が和室の方を指す。


「そこにあるけど……」


そちらを見れば壁にかかった我が通学カバン。僕は席を立ってカバンに飛び付き、中からスマホを抜き出す。ロックを解除して、メモリーから自宅の番号を。


そして軽快に流れるロッキーのテーマ。すぐそばの台の上にある固定電話が自己主張を始める。

固定電話のディスプレイに表示される番号は、まぎれもなく僕の携帯の番号。


「……な」


いや何かの間違いかもしれない。今度はメモリーからではなく手打ちで番号を打ち込む。


そして流れるロッキー2。


「な、なんで……」

「どーしたカラノスケ? 食事中に立つのは行儀よくな」


僕は廊下を走り、玄関から外へ出る。

とっくの昔に見飽きてる町並み。隣近所の家構えも記憶とまるで変わらない。

振り返る。ごく一般的な二階家の民家。父さんが一念発起して30年ローンで買った家だ。庭にはあまり役に立たない百葉箱と、役に立とうという気概のない庭園灯もある。


しらじらしく流れるセミの熱唱の中で、僕はじっとりと汗をかく。


「うちの家……間違いない」


僕は取って返して食堂へ、三人の美少女はまだ硬直しており、眼を白黒させて僕を見る。その中で黒髪の美少女が心配そうな声をあげた。


「カラノスケ、熱でもあるの? 今日は学校休む?」

「あの、み、皆さん、名前は?」


「名前って……中条伊吹奇(イブキ)だよ」


と妹らしき女の子が。


「中条深天(ミソラ)ですよ」


と母親らしき人が。


「何言っとるんだ? 中条烈火(レッカ)に決まっとるだろう」


と何がなんだかよく分からん小学生が。


そして僕は言葉を失う。


三人の名前は、どこかに行ってしまった僕の家族と、まったく同じだったのだから。




というわけで新連載を始めてみました。こちらもよろしくお願いします

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