理容室「かみきり」
神霧結子は今日も髪を切る。
人は髪を切る。世界中あらゆる文化の違いはあれど、入学、卒業、出会い、別れ、決別、憧憬、辟易、人はあらゆる節目で髪を切る。あらゆる想いで髪を切る。その手助けをするのが結子の仕事だ。
今日も神霧結子には客が来る。あらゆる節目のあらゆる想いの客がくる。マホガニー製の扉を開けて重い足取りで店に入ってきた男は、右目を覆い隠すような長い前髪の男だ。
「学生さん?」結子は訊ねる。
「湘陵高校に通ってます。」雨音で消えそうな小さな声で、彼は答えた。
湘陵高校といえばこの店から電車で一時間半はかかる。結子もおおよその場所は知っているが訪れたことはない。
「それで、悩みは?」
結子を訪れる客は皆、悩みがある、切り捨てたい迷いがある。結子にはそれが髪を通して見ることができた、幼い頃から見えたのだ。その想いを断ち切り、人の門出を支えるこの仕事は、天職だった。
髪には心が宿る。迷信でも、オカルトでもなく、事実としてそうである。少なくとも結子はその事実を知っている。
「学校でいじめられてて、立ち向かう勇気が欲しいんです。」
「そんなもん、カウンセリングでも受けて自分でなんとかしな、ここは保健室じゃないんだよ。」結子は気に入った仕事しか受けない。
「小さい頃、歯向かうと両親から虐待されてて、今はもう無くなったんですけど、以来強い態度をされると反射的に萎縮しちゃって」
「髪、シャンプーするから座りなさい」
少年の濡れた髪を乾かし終え、鋏を手に少年の髪と向き合う。
なるほど、ここか。結子は長い前髪に目をやった、そこには黒いもやがかかっていた。よく見るとそれは彼の記憶であり、トラウマだった。結子は人の後悔や切り捨てたい記憶を髪を通して見ることができた、理由はさっぱりわからんが、見えるものは見えるのだ。
前髪に鋏を入れる。決して切り過ぎてはいけない、記憶そのものを無くしてしまうことになる。結子の仕事はあくまでも手助けであり、その人の想いの重さを軽くすることだ。
前髪を上げ、サイドを短く刈り揃えた彼は、ありがとうございました。と小さいがはっきりとした声でお礼を言って店を出た。
結子は家に帰ると、お風呂を済ませ、腰まである長い髪をまとめ上げたところで、夫が帰ってきた。少し遅れて息子が塾から帰ってきた。
「あなた、司、ご飯作るからちゃっちゃとお風呂済ませて」
「急かすなよ、せっかちめ」司は中学一年生になるが、結子に似たのか反抗期なのか、勝気な部分が目立ってきた。どちらにせよ愛らしいやつだ。
今夜は料理に苦手な茄子を入れてやろう。
「司、先に入っていいよ。部活も勉強も疲れただろ」
夫の晃はとても優しい、それでいて、自分の考えをしっかりと持っている。そんなところに結子は惹かれた。彼以外に面倒な私を生涯支えようなどという特殊な人間なんていないだろう。二人は私の宝物だ。
司の洗濯物を見て結子は絶句した。泥だらけである。いくらサッカー部とはいえ、どうしたらこんなに泥だらけになるのだろう。
やはり茄子を山のように入れることにしよう。
ある日、司が帰ってこない。悪い予感がした、私の勘はよくあたる。落ち着かない私を、夫が気にかけている。
携帯に着信があった。そこからはあまり覚えていない、気がつくと病院のベッドの上で横たわる司を見ていた。横では夫が私と司の手を握ってくれていた。交通事故、意識不明バラバラの単語や思考が脳裏に浮かんでは消えてを繰り返していた。外傷は少なかったが、頭を強く打った。幸い加害者の男性の迅速な応急処置のおかげで一命を取り留めることができたそうだ。神様は皮肉がきいている。男は運送業の青年で、長い襟足が印象的な男だった。
警察の現場検証やドライブレコーダーの映像によると、自転車でふらついた司が道路にはみ出したことによる事故だった。
結子は店を閉めた、毎日パートでギリギリまで働き、司の眠る病院へ足を運ぶ。家に帰るとすぐに安酒のワインを煽る。
そんな日々を送りながらも辛うじて正気を保てたのは、夫の晃の存在だった。彼は毎日仕事から帰ると結子の愚痴に夜遅くまで付き合い、彼女が眠ったのを確認して眠りにつく、そして翌朝、結子が起きるより早く仕事に出かける。日々心身共にやつれていく彼に結子は幾度となく彼の髪の毛を切ろうと提案したが、
「君の力は本当に困っている人に使うべきだ。その力は有限かもしれないだろ?」と彼は頑なにそれを拒んだ。
事故から二ヶ月後、何の前触れもなく司が目を覚ました。
結子は司の痩せ細った体を力一杯抱きしめた。そしておんなじだけの力で晃を抱きしめた。随分と久しぶりに見る司の笑顔は、いつまで経っても光が滲んでよく見えなかった。
後遺症としての手足の痺れはリハビリ後もどうなるかわからないと医者に言われた。しかし結子にはそんな事些細な問題だった。司が笑っているだけで、全てがうまくいくような、そんな気がしていた。
「お店はもう開けないの?」司が言う。
視線の先には事故以来使われる事なく埃にまみれた鋏が、不満そうに鈍い光を宿していた。煮え切らない態度をとる結子に対し、さらに続けられた司の言葉を聞き結子は決意を固めた。
再開したお店には、徐々に客足が戻りつつある。司のリハビリも順調だった。部活動にも復帰しており、絶対に公式戦のメンバーに入ると意気込んでいる。
マホガニーの扉が開いた。
黒いもやが入ってきた。よく見るとそれは人の形をしていた。
「お久しぶりです。あの節は本当に申し訳ございませんでした。これで最後になりますが重ねてお詫びを伝えにきました。僕は本当に許されないことをした。」彼は事故後すぐに謝罪に訪れた時の姿とはかけ離れていた。髭はまだらで髪は乱れ、特徴的な襟足も伸び切っている。
男はそれだけ言って結子に封筒を渡すと、すぐに店を出た。嫌な予感がして、結子は彼を引き止めた。
「ちょっと、ここは教会じゃない。ここに来たなら髪くらい切って帰りな」
結子は困惑していた。青年の変貌はもちろんだが、少なからず恨んでいる彼をなぜ引き止めたのか自分でもわからなかった。なんとなく、引き止めなければならない気がした。
洗髪を終えた彼の髪の毛と向き合う。もやの中心はやはり襟足だった。しかしその量は常軌を逸しており、視界を遮り、黒く染め上げていた。
私たち家族をこんな目に合わせた本人が目の前に座っている。その事実を自覚すると。視界が狭まり、右手の鋏が冷たくなっていくのを感じた。
「お母さんが髪を切ってる姿、好きなんだけどな」脳裏をよぎった言葉が結子の身体を動かした。それは店の再開を決めたあの日、司が口にした言葉だった。
結子は右手の鋏を振り上げ自らの長い髪を断ち切り投げ捨てた。黒いもやは彼の髪だけでなく結子の髪からも出ていた。視界は晴れ、結子は彼の襟足に鋏を入れた。
男は、事故の責任で仕事を辞めていた。車を見るたびに横たわる司と自分の罪を思い出すため、事故の賠償金を払い終えた今日、自らの人生を終わらせるつもりだったと言う。髪を切りながら、結子はそんな話を聞いた。いつの間にか見えていたもやは消えており、
理容室には男の慟哭だけが残っていた。
神霧結子は今日も髪を切る。あらゆる節目の髪を切る。もう黒いもやは見えないけれど彼女の客は途絶えない。店の庭では司がサッカーをしており、夫はそれを眺めている。
「前髪、かねぇ」客に結子は呟く
「結子さん、いつも前髪しか言わない、絶対勘でしょ」湘陵高校を卒業し、大学生となった彼が不満そうに抗議した。
「うるさい、私の勘は当たるんだよ。」
それを聞いて、襟足を短く切り揃えた従業員の青年が吹き出した。