神に矢を引くもの
冷たく暗い、湿った空気に満ちた石と鉄格子でできた牢屋。女だと騒いで、届く筈がないのにも関わらず腕を伸ばし欲望を満たそうと躍起になる男らの、なんと悲しく哀れな醜態か。
ただじっと膝を抱えこんで目を瞑り連れて行かれた妹を思う。妹は身重だ。子が生まれてくると言われる日より一週間程早い。私が妹を清めてやらねばと約束していたのに。それなのにああ何故、何故こんな目に遭わなければならないのだろう。
「どうだ、少しは自分の一族の咎を思い知ったか」
不意に眩しい何かが目の前に現れ、忌々しい声とともに目を開けばあの男がいた。いつかふらりと我らが暮らす森にやってきて、男子禁制の社に勝手に入りこみ神の花嫁である巫女を担う妹に心奪われたという異境の男。妹に求婚したがそれを拒んだ妹と一族を逆恨みし、一旦は国に帰ったが今度は自国の軍を率いて我らの暮らす森を焼き払った挙句、嫌がる妹を無理矢理に社から引きずり出し、浚っていった。
長も、両親も村のものも全て殺されてしまった。残ったのは私と妹だけ。私も最初は殺されるはずであったのだろう。だが、いう事の聞かない妹を従わせることのできる唯一の人質としての有効性を見出されたため、私は生かされている。
そう。妹にとって、私は村の誰よりも重要で、大切で。きっと私だけが希望なのだ。
「……咎、など。そんなものありはしない。あるとすれば古から我らを守り慈しんできた森を焼いたお前たちの方だ」
「まだそのような減らず口を言うか。彼女がお前のことを口に出さねばお前など」
「簡単に殺せたとでも?それとも私が大人しく怯え、お前らに縋りつき体のいい人形となったなら妹も容易く洗脳できたのに、か?」
皮肉を込めていってやればギリと悔しげに歯を鳴らす。それから苛立たしげに近くにいた牢番だろう男を呼びつけ、がちゃがちゃと錠を弄り、私の前までずんずんと歩んでくるなり頬を叩いた。元々巫女の世話係だ。大した体力もなければ男に打たれて耐えるだけの力も残っていない私は勢いのままに身を倒された。冷たく、不衛生な床に頬と髪をつけ、怒りに顔を赤くするあの男を見上げた。
「貴様らが彼女を縛りつけなければ!余計な事を教えなければ!彼女は僕と一緒になってくれたんだ!!」
なんと夢見がちな子どものようだ。そう思って、ふ、と馬鹿にしたような笑いが漏れた。
「何が可笑しい!」
倒れたままの無防備な腹に蹴りが入る。私の村のように藁で編まれた足を覆うようなものではなく、硬い革のようなものでできたそれは容赦なく柔い腹に食い込んで、一瞬息ができなくなり、噎せ、胃液を吐き出す。捕えられてからまともに食事を与えられていない事が幸いした。喉を焼く感覚も、鼻が痛む感覚も吐き出すものが少なければそれほどでもない。
続けて、吐き出した胃液に顔を擦らされるように頭を踏み躙られる。
「は、妹は神の娘だ。お前などに、夫が、勤まるものか……っ、そうでなくとも、妹は、お前などには心を許しはしない……だろうな」
「何を言うか!穢れ切った蛮族風情が!」
苦痛など感じないといったように鼻で笑って口にすれば更に激昂し、暴力に出る。だがしかし、私を蛮族のものと扱き下ろす事が妹にも言える事だと何故気付かない。妹は別の生き物だと。そういいたいのだろうか。
確かに妹は私より村の誰よりも美しかった。でも、どんなに特別扱いされても、妹だとて人の子だ。痛みを感じもすれば悲しみも感じ、喜びも怒りも感じるのだ。それなのに、いつだって周りのものは妹をそういった目で見る。
“お姉様!お姉様、見て、どうか、目を背けないで……っ!私、私は、お役目を……ああ!”
消し去れない、いえ、消してなどはいけないあの時の記憶が過った。人に与えられるこの痛みや恐怖など比べくもない。あの時の妹が感じたものは。妹が自分の役目と受け入れ、耐え忍んだあの儀式は。
「ぐ、お前が、妹をどのように見ていようが、どう思っていようが……。もう、遅い。妹はあの場から、出てはならなかった、妹は、もう、穢れを断ち切ることも、できない。私には、もう、妹を救う事も、できない……。私の存在が、目障りならば、妹にそう伝えればいい。そうすれば、妹は……楔を解かれる」
妹が生まれ、巫女の証である御印を持っていた事で、そしてその対に当たる印が私に現れて。私の生活が一変した。まだ三つだった。それまでは周りは優しかった。けれど妹が生まれて、厳しくなった。私は巫女を支える役目を持つ。だからこそ、一つ一つの言動を注意されたし、そうあらねばならなかった。
妹はまだ巫女として未熟である。それもそうだ巫女とはいえ生まれたばかりなのだから。ただ、幼かった私にはそう思えなかった。妬ましかった。少し粗相をしただけで折檻される私など知らないように、笑って、周りの注意を引いて。何も努力などしていないのに、なんで私だけこんな辛い思いをしなければならないのかと卑屈になった。
それから妹が成長して、見目麗しい乙女となって。私も大人になった。
大人になっても私は妹とは違い、卑屈な性格のままだった。なんでも与えられる彼女を憎み、或いは自分の不甲斐ない部分や不出来な部分は全て彼女が悪いのだと思いこんでいた。そうでなければ耐えられなかったのかもしれない。父母に愛されていないという事実を思う事も周りから自分と妹を比べられることも私はとても怖かった。
……私たちが成長すればするほど教えられる儀式の内容などについても濃くなっていった。
儀式の最中、私は巫女である妹と神との情事を見届ける役を担う。それが終われば妹の身を清め、お告げのあった晩に生まれるであろう神の子をこの手に受け、神の森へとお返しする。それが私の役目。交わる神とはきっと村長の家の息子か誰かが神の衣装をきて行うのだろうと思っていた私はそれを見届けなければならないなんてと、一度も男と体を交えた事のないこともあってとても恥ずかしく、村の男らを一時期見れなくなった。
そうして儀式の日はやってきた。妹は薄い羽衣のような衣装に身を包み、村のものたちには姿を見せぬよう配慮されながらも長老たちの前へ、挨拶に向かう。長老たちは妹の晴れ姿を見、頷き、両親たちは感極まったのか涙を目に浮かべていたのを覚えている。
「神にお会いしても、絶対に退いてはいけないよ。ことが終わるまで、お前は石となるつもりでいなさい」
妹が清めの酒を呑まされている時、長老の一人、ユグ様が肩をそっと撫でながらそういってくれた。生娘には辛い事かもしれないがというのに少し俯いてしまったが、わかりましたとなんとか頷いた。そして私と妹は神の領域へと足を踏み入れた。
途中までの道中は御簾の下がった神輿に乗せられていたから降ろされた場所の風景しか覚えていないが、あそこの雰囲気は今まで感じたことのない空気であった。湿気のような、じめじめとして絡み付いてくるような何か。その何かは私とそして妹により濃く絡み付いていたように思える。
今思えばもしかしたらあれは神の気だったのかもしれない。今代の花嫁と見届け役を幾度となく迎えていたのだ、気配というものを感じて逸る気持ちや妹をより望んだ、その思いが抑制も利かず流れたのだ。
そんな空気に触れ、包まれ。私と妹は顔を見合わせ暫し足を踏みだすのを躊躇ったが、妹を奮い立たせるためにも私が歩みを進まねば、と半ば使命感を感じながら一歩踏みだし進んでいった。私が進むのを見、妹も少し躊躇いを残したままだがそろそろと歩みだす。
神の社まで私たちの発する音しかしなかった。鳥の声も虫のさざめきもなく無音。足を止めれば、息を止めれば何の音もしなくなってしまっただろう、その不気味な静けさに肌を粟立たせながら社の前に着き、私は妹を待たせ、教わった手順通りに社の前に膝をついて深々と頭を下げ、ご機嫌窺いの言葉、言祝ぎの言葉を紡ぎ、妹の到着を知らせた。
それから社に近づき、そっと古びた扉を開く。中にはまだ誰もいない。真ん中に人一人横たわることができそうな台があり、入口付近には二本の燭台。
妹を通す前に燭台に明かりを灯そうと思ったが火打ち石をと考えるが早いか、勝手に明かりは灯った。ごくりと、私か妹かわからないが唾を飲む音が響いた。緊張に身を震わせながら私は教わった部屋の端へと着く。妹は台に身を横たわらせ手を腹の上に置いて組み目を閉じた。
どれくらい経ったか、いやきっと時間はそれほどに経っていなかっただろう。神がいつのまにかそこに在った。私は上がりそうになる悲鳴を必死に堪えて妹が神に……異形の姿のそれに手を伸ばされるのを見ていた。
正直、妹に伸びたそれが手であるかもわからなかった。妹も、また触れられてから気付いたらしく悲鳴を飲み込む仕草が窺えた。これが私達姉妹が生まれ、課された運命ならばこれほどに酷な事はない。
今まで享受してきた環境や教えは洗脳だったのだと私は直感し思った。ここにきて漸く目が覚めたのだ。遅すぎた。もっと早くにその意味を知り妹の手を引き逃げるなりしていればと後悔が尽きない。事が始まり、終わるまでずっと震えて動けない私と違い妹はただその教えや洗脳に縋るように頻りに私に使命を果たせているかと口にしていた。
恐怖に気が違えるのを避ける為か、それとも一人その異形の前に取り残される事を恐れていたのだろうか。いずれにせよ、私は儀式に則って答えは返せずとも、妹から向けられる視線を返した。
事が済んだ頃合いにか神は妹より離れ部屋を出て行った。来た時とは違い、去っていくときにはその後ろ姿を見せていたのが印象的だった。暫く、消え去った後も動けず喉も使えずにいたが、妹の微かな私を呼ぶ声に我にかえり近づき世話を焼いた。
美しく皆に愛され大切に育てられてきた筈の妹。妬ましく憎らしくいっそ死んでしまえばいいと願った事もあった子。そんな子が、酷い有り様で私の名を呼んで私は役目を果たせたかと聞いてくるのに涙が出た。立派に果たした、お前は自慢の私の妹だと嘘を言いながら今まで抱いてきた感情や態度を懺悔した。
幸いだったのはこの悍ましい儀式が為されたのは一夜だけだと言う事。私と妹は後始末を終えてからずっと表で手を繋ぎ身を寄せ合い迎えが来るまでを過ごした。
あれが行われた室内に居続けるのは如何なる信仰心や思いがあったとしてきっと無理だった。妹が今度こそ壊れてしまうと私は思い、上衣を妹に貸して自分が寒い思いをして唇が真っ青になってもそうし続けた。やがて村から迎えが来て私達は家に帰ってきた。
妹の腹が膨れていくのはあっという間であった。……人の速さではない。恐れ慄く私以外は皆喜び、言祝ぎ、神の子が生まれ出でるその日を待ちわびた。
「神は、決して貴様らを、そして私達を許しはしない。妹の子も、流れはしない。神の子は生まれ出でる。神聖な領域を無しに、彼の方が迎えを待たれるなど……ない。皆、等しく死を迎える」
怒り狂った男が私の意識を奪う程に暴力を奮った後去っていき、私は他の男らと同じ牢にと移されると傷も治らぬ内に聞かされたがそれは訪れなかった。妹が子を産み落としたからだ。神の血を継ぐ子を。
代々受け継がれてきた教えを唯一知る私の役目を他が成せる訳もなくその場にいた者は皆神の逆鱗に触れ葬られた、のだと思う。私がいるこの牢にはその波が来るのが一際遅かったから真実は分からない。けれど。
「お姉様、お姉様……」
「シャンタリィー……」
首から下が神と同化したような、膨れ上がったそれが妹の成れの果てだなんて。多くの足と思わしきそれで牢を抉じ開け男らを絡めとってその足の付け根当たりの場所に仕舞い込むと木々を手折るような音を更に盛大にしたような音でもって捕食している。そのような生物は見た事がない為に自信は無いが。流れる血が、叫びがそれを物語る。
目の前に立つ妹から、牢の外の遠い所から、至る所で悲鳴があがり響いているような感覚にどこまで神の怒りは広がるだろうかと薄らと考えながら私は妹が近づいて来るのも名前を呼ばれるのも拒みもせず、ただじっと死を受け入れ見据えていた。